"門"と野犬
歩きながら、アイラは素早く周囲の気配を探った。後ろの方から一つ、隠そうともしない殺気が近付いてくる。
天気も良く、周囲には人通りもある。
(それでも仕掛けてくる、か)
殺気は確実に距離を詰めてくる。やがて、憎悪に顔を歪めた男が一人、その姿を現した。
流石に、人中で仕掛ける気は向こうにも無いようだったが、じっとアイラを見据えるその眼には、暗い炎が燃えていた。
アイラはちらりと横目でその男を見、誘うように、あえて人通りの少ない裏通りへと足を向けた。アンジェはそれと知りつつも、後を追いはせずに行き過ぎる。
自分がいては、アイラの足手まといになる。
(『治癒』の準備、しておこうかしら)
そう思って、アンジェは胸の内で祈る。彼女が、無事に戻ってくることを。
二人の周囲から人目が消えた瞬間、アイラの背後から殺気が膨れ上がる。
邪魔な荷物を下ろしたアイラの顔には、酷薄の相が浮いている。
地を蹴る音を、アイラの耳が捉えた。刹那、身体を回して向かい合う。
アイラの動きは、一切止まらなかった。身体を反転させ、ディルと向かい合った瞬間、アイラは一気にディルとの距離を詰めた。
ディルの持つ短刀で、己の腕が切り裂かれるのも構わずに、拳を突き出す。
宙に鮮血が飛ぶ。ディルの胸に拳を入れたアイラだったが、その手には固い感触が伝わってきた。
(防具か)
一歩下がり、アイラは少し呼吸を変えた。一度短く吸い、長く吐き、長く吸って、短く吐く。
動きを止めたアイラに、ディルが短刀を振りかざして飛び掛かった。
その場から一歩も動かずに、身を沈めたアイラが、下から拳を上に突き上げる。
固い衝撃は手にあったが、アイラの拳は確かにディルに通じた。
タキから教わった技の一つ、鎧崩し。相手の防具越しに、己の技を通じさせる技。
防具を着ていても、その衝撃が伝わったことに、ディルが驚きの目を見張る。
息を詰まらせたディルから飛び離れ、アイラはさっと左袖をまくり上げた。
「玉破!」
アイラの手から、神の矢が放たれる。真っ直ぐに飛んだ玉破は、ディルに当たり、その身を吹き飛ばす。
地に転がったディルが、呻きながらも起き上がる。その頭からは血が流れていた。アイラもまた、左腕から血を滴らせている。
(深くやられたな)
とはいえ、ただの切り傷。短時間でことを終わらせてしまえば、心配するには及ばない。
距離を置いて向かい合った二人は、ただ静かに睨みあう。
そして、二人は合図でもされたかのように、同時に相手との間を縮めた。
短刀がアイラの肌を裂き、拳がディルの身体を打つ。
それでもなお、二人の動きは止まらない。命を狙う銀の刃を捌き、命を奪おうとする黒い拳をかわす。
ディルは武人ではない。故に短刀を扱う腕だけなら、アイラの相手ではない。しかし武人ではないがゆえに、彼の戦法には躊躇いがない。そのやり方は、アイラのものとよく似ている。
少し前の模擬戦とは違い、今回は誰も見てはいない戦い。そして模擬戦とは違い、互いに命がけの、戦い。
横に払うようなアイラの蹴りが、ディルの横腹に吸い込まれるように当たる。ディルの振るう短刀が、アイラの腕に一筋、傷を残す。
互いの息が鼻先に触れるほど肉薄した次の瞬間、どちらからともなく離れて睨み合う。
アイラの方は数ヶ所から血を流し、ディルもあちこち打たれたのが響いているのか、足元がふらついている。
(後、一撃……狙うべきは……)
アイラの灰色の目が、すっと細められる。
だっとディルに走り寄る。喉を狙うように、拳を構えて。
それを察して喉を庇ったディルの眼前で、アイラは上へと飛び上がった。
虚を突かれたディルの頭――こめかみに向かって、回し蹴りを放つ。
人体の急所の一つを強く打たれ、ディルが白目を剥いて昏倒した。
倒れたディルの手から短剣を取ったアイラは、冷たい目のまま、彼の胸に短剣を突き立てた。
荷物から布を取り出し、血を拭い、手早く止血する。
表通りを見ると、少し離れたところで、アンジェが佇んでいた。
アイラの姿に気付き、慌てて駆け寄って来る。
「動かないで」
アンジェが『治癒』の呪文を唱える。傷の痛みが引いていく。
「それじゃ、行こうか」
『治癒』を受けたとはいえ、けろっとした顔で言うアイラ。その態度にはもう慣れたとはいえ、やはりその精神力には驚く。
「その前に、教会に行ってもいい?」
「ん、いいよ。別にまだ、時間もあるし」
あっさり了承したアイラを伴い、教会へ向かう。
「私は外で待ってる」
「そう言わないで、中で休みなさいよ。傷は治したけど、出血は結構してたんでしょ? 顔色が悪いわ。それに、中に入ったって、祈れなんて言わないわよ」
「…………分かった」
「アイラ?」
「……いや。何でもない」
中に入ってすぐ、アイラは入り口近くの椅子に腰かけた。傷自体はアンジェから受けた『治癒』で塞がっているが、その影響か、それとも貧血になりかけているのか、少し身体がだるい。
アンジェは前の方にいた老人と、何か話している。
「失礼」
ぼんやりしているアイラのところへ、老人が声をかけてくる。
「……何か」
内心では舌打ちしつつも、アイラの表情は動かない。
「彼女から、あなたのことを話に聞いておりまして。一度お会いしたいと……どこか、怪我でもしておられるのですか?」
「……大した怪我じゃない」
素っ気なくそう言ったアイラの手に、老人が触れる。
「ふむ、失礼ながら……レヴィ・トーマ、御身の力によりてこの者を癒し、その身に力を与え給え」
手から全身へ、じわりと温もりが広がる。同時に、感じていただるさも消えていた。
「……感謝する」
少し居住まいを正して頭を下げる。
「いえ、お気になさらず。人としても、『円環』の神の信徒としても、当然のことです」
その言葉に、アイラはスカーフの下で唇を歪めた。
「『円環』、か」
「はい。誰も拒まず、全てを受け入れるのが、我が主の望みです」
そう思わない者がいることを知っているのか。喉元まで出かかったその言葉を飲み込んで、アイラは興味もなさそうな顔で聞いていた。
「伺いましたら、これからまた、旅に出られるそうで。道中に、レヴィ・トーマの加護がございますように」
「……あなたにも、神の加護がありますよう」
ぶっきらぼうにそう言って、アイラは椅子から立ち上がった。アンジェを手招き、そろそろ行くよ、と声をかける。
去って行く二人の姿を、イヴァク司教は優しい目で眺めていた。