関係の変化
アンジェの熱がどうやら下がったのは、倒れてから二日後のことだった。
ようやく話ができるようになったアンジェの口から、アイラは教会であったことを聞かされた。
思い出しながら話すアンジェの言葉を聞いているアイラの眉間に深々と皺が寄る。灰色の瞳には、激しい光が揺れていた。
「あの、アイラ、大丈夫? ちょっと休んだ方が……」
アンジェが思わずそんな言葉をかけるのも無理はない。元々の顔色の悪さに加え、目の下には隈。その上目だけがぎらぎらと光っている。傍目からはアイラの方が病人に見えるのではないだろうか。
ちょうどそのとき、ドアがノックされた。誰かと見れば、アネットがいつものにこにこ顔で入って来る。
「気分はどうだい?」
「良くなりました。ありがとうございます」
「いいよ、お礼なんか。それより……アイラ、あんたもどっか悪いんじゃないだろうね?」
アネットの不安げな問いに、アイラは肩を竦めて答える。
「……いえ、寝てないだけです」
「呆れた! お連れさんも良くなったんだし、あんたはちょっと休みなさい。そんなんじゃあ、今度はあんたが参っちまうよ」
「……はい」
素直にベッドに入るアイラ。枕に頭を付けるか付けないうちに、静かな寝息が聞こえ始めた。
「やれやれ。しょうがないねえ、全く。ああ、お粥、作ってきたけど食べられそうかい?」
「はい。いただきます」
粥を受け取り、口に運ぶ。熱が下がったために、ようやく粥の味が分かるようになった。熱がある間は何を食べても妙な味としか感じなかったのだ。
卵の入った粥を食べながら、死んだように眠っているアイラをちらりと見る。彼女が二日間、ほとんど眠らずに自分を看病していたことは知っていた。
熱に浮かされ、悪夢にうなされているとき、夢現に、アイラの声が聞こえていた。大丈夫、と。
「口に合わなかったかい?」
「そんなことありません。ちょっと、アイラのことが気になって」
「心配ないよ。よく寝てるだけだよ」
「いえ、そういうことじゃなくて……。アイラ、ずっと無愛想だったし、まさか、その、ほとんど寝ずについていてくれるなんて、思わなかったから」
「ああ、そういうこと」
ふっとアネットが笑みを浮かべる。
「アイラは優しい子だよ。昔からそうだった。こんないい子が、何でまたあんな目に遭うんだろうねえ」
それは“狂信者”にハン族が襲われたことか、と聞きかけたアンジェだが、ふとヨルク司教の言葉を思い出し、その問いかけを飲み込んだ。何となく、聞いてはいけないような気がしたのだ。
やがて、粥を食べ終えたアンジェは再び横になった。
ふと気が付くと、部屋は暗くなっていた。どうやら横になっているうちに、眠ってしまっていたらしい。
目を凝らしてベッドを見ると、アイラの姿がない。
(どこに行ったのかしら)
まさか、教会に行ったのだろうか。
ぱっとそんな考えが閃き、アンジェの背に冷たいものが走る。
もし宿の中にいれば良いし、いなければせめてアネットに、どこに行ったのか聞こうと慌ててベッドから降りる。
足元がふらつく。それでもドアまで歩き、ドアノブに手をかけようとした瞬間、ドアが開かれた。ぽかんとした顔のアイラとはち合わせる。
「アンジェ!?」
バランスを崩して転びかけたアンジェを、アイラが慌てて支える。
「寝てないと、ぶり返すぞ」
アイラの口調はやはりぶっきらぼうだが、それでもアンジェを気にかけてはいるらしい。
支えられながらベッドに戻る。
「どこ行ってたの?」
「下。マッチがなかったから」
答えながら椅子に上り、マッチを擦って、手を伸ばして壁に付けられたランプに火を灯すアイラ。ようやく部屋が明るくなる。
「教会に行ったのかと思ったわ」
「明日、行く」
「一人で?」
「うん。……そっちは、大丈夫? 一応アネットさんに頼んではおくけど」
「え? 多分、大丈夫だと思うけど……。もう熱も下がってるし」
「なら、いい」
ベッドに寝転ぶアイラ。寝るのかと思ったが、灰色の目はじっと天井を眺めている。そのうちに、アンジェの方が眠っていた。
規則正しいアンジェの寝息を聞きながら、アイラは目が痛くなるほど天井を睨みつけていた。
ヨルク司教のことは、アイラも知っていた。とは言え実際に会ったことは片手で数えてまだ余るくらいしかない。教会は異教徒の集まる場所だからか、父親は積極的にオレルやアイラを連れて行こうとしなかった。加えてもう一つ、基本的に人懐こく、誰に対しても同じように接していた幼い頃のアイラが、どうもこの司教とは合わず、自分から近付こうとしなかった、という理由もあった。
“狂信者”の襲撃で、ハン族が滅んだ後、実はヨルク司教がアイラを引き取るという話が出たこともあった。しかし結局、この話はアイラがタキを選んだことで流れてしまったのだが。
だが、いくらほとんど会っていなかったとはいえ、ヨルクの言動にはアイラも引っかかりを覚えた。
アンジェの話を聞いていたのなら、彼女が全ての事情を知っていると分かったはずだ。それなのになぜ、『野盗の仕業』だと言ったのだろう。それに、『アイラには罰を与えるべきだ』という言葉。
(『円環』を語る輩とも思えない考えだな。とにかく、明日、少し確かめてみるか。どうも、安心できるとは思えない)
そう結論を出して目を閉じる。しかし昼に寝ていたからか、中々眠気はやってこない。
結局今眠るのは諦め、静かに起き上がったアイラは荷物からペンと紙を取り出した。まだぎこちない字で、トレスウェイトにいる双子への手紙を書き始める。
考え考え、何度か書き直す。
無事にランズ・ハンに着いたこと。そこで一晩を過ごしたこと。今は道連れができ、コクレアにいること。
ランズ・ハンであったことは詳しく書かず、たださらりと触れるに止める。詳しく書いたところで、理解はされないだろうから。それに、言葉にして通じるものでもない。
ようやくあらかた書き終えたころには、時計は三の刻を差していた。
翌日の昼過ぎ、ランベルトの聖印をポケットに入れ、アイラは司教の邸に向かっていた。少し錆が浮きかけたノッカーを鳴らすと、小窓が開き、神経質そうな男の顔が覗く。
「誰だね?」
「……あんたが、牧師?」
男の眉が吊り上がる。
「ここは司教閣下のお邸だ。そのように無礼な口を利くとは何事だ。施しを求めるなら裏に回りなさい」
「……施しなど求めに来るものか」
アイラの眉が吊り上がる。
「ハン族の長、ヤノスの娘アイラが、伝言を聞いてやって来たと司教に伝えて欲しい」
相手を殴り付けたい気持ちをぐっと抑え、アイラは低い声で用件を告げた。
パタンと小窓が閉まる。かすかに聞こえる、遠ざかっていく足音からすると、どうやら一応は言葉を伝えに行くらしい。
(ふん、ご立派な召使だ)
二十分程待たされてから、ようやく扉が開いた。黒いカソックと紫の上衣をまとう老人が立っている。
「あんたが、司教?」
「……そうだ。まあ、覚えていないのも無理はないか。最後に会ったときはまだ子供だったのだからね。それより、頼んでいたものは持って来たかね?」
「……その前に、誰にも邪魔をされず、誰にも聞かれることのない場所で話がしたい」
この要求に、ヨルクは一瞬あっけに取られていた。しかしすぐに人好きのする笑みを浮かべる。
「なら書斎で聞こう」
司教の書斎は、きっちりと整頓されている。壁の一角には、レヴィ・トーマの絵が掛けられていた。半分祈祷所のようになっているのだろう。
「それで、話とは何かね?」
アイラは灰色の目でじっとヨルク司教を見据え、スカーフを下ろすとゆっくりと口を開いた。
→ 司教邸にて