ホテルの怪 後日談
表通りを一本外れた路地裏に、一軒の店がある。
最も、それが店だと知らなければ、誰も店とは思わないような構えである。
土埃で曇った窓には中から大判のポスターが貼られ、店内の様子は見て取れない。
ポスターも数年前のイベントのもので、四隅を留めているセロハンテープは今にも剥がれ落ちそうになっている。
ところどころペンキが剥がれた扉には、狂言に使う古い恵比寿の面がかけられている。
ドアノブは若干外れかかっており、少し力をこめれば簡単に取れてしまいそうだ。
扉のそばには、『蛭子』と書かれた表札が下がっている。
こんな構えの店では客が来るわけもなく、店には閑古鳥が巣を作っている。
雑多に物が置かれた店の中では、暇を持て余した店主が、カウンターに置いたタブレットで頬杖をついて動画を見ていた。
店主も店構え同様、その容姿は一風変わっている。
下ろせば腰まで届くほどの長い、白い髪を結いあげ、右のひと房だけを肩へ垂らし、顔の左側へ垂らした髪で左目を隠している。
白いカッターシャツを着て細い黒ネクタイをしめ、黒い細身のスラックスをはき、藤色の地に総柄の訪問着をジャケットのように羽織っている。
両手には黒い革手袋、加えて右手の五指には銀の指輪。
細面で、切れ長の目は菫色をしており、鼻が高く唇が薄い。色は白いが、病み上がりのような青白さである。
店主の名は知られておらず、店主自身も店の屋号〔蛭子堂〕をそのまま自身の呼び名としていた。
緑青の浮いたドアベルが鳴り、その音に店主は動画を止め、玄関へと顔を向けた。
扉を押し開けて入ってきたのは、二十歳前後の女だった。
ポニーテールにした長い黒髪は背の中ほどまで届いており、目にかかる前髪の下から黒い右目と紫色の左目が蛭子堂を見ていた。
長袖のパーカーに濃紺のスキニーパンツと厚底のショートブーツ、両手には指なしの黒い革手袋をはめている。
「おや、いらっしゃい、レイちゃん」
ひらりと手をふり、店主が来客――風切零に声をかける。
「お久しぶりです。ちょうど近くまで来たので、この前メールした御札の件でお話をうかがおうかと。時間、大丈夫ですか?」
普段はつっけんどんな零の口調が、蛭子堂相手には丁寧になっている。
カウンター前の椅子に腰かけた零と店主へ、紺の作務衣を着た、黒髪を耳の下で切りそろえた青年が茶を運んでくる。
「ありがとうございます」
「ありがとう、信乃」
ごゆっくり、と言い置いて、青年が物陰へひっこむ。
「なかなか面白い札だったね。使われてるのはコピー紙で文言も印刷、でも文言自体はきっちりポイントが押さえられてる。メールでも伝えたけど、ある程度知識のある人間が作ったものだろうね」
蛭子堂がそばに置いていた煙草盆から煙管を取り、煙草を詰める。
それを見て、零も懐からピースの箱を取り出した。
はい、と蛭子堂がカウンターの下から硝子の灰皿を出す。
「あ、どうも。……でも、なんでそんなことを?」
「まあ動機としては面白半分、ってあたりじゃないかな? すぐ見つかるような場所じゃなく、額縁に隠すのは中々悪質だけれど……例えばそのホテルの評判を下げることが目的でオカルトに頼るんなら、あんな適当なものじゃなくて、もっとちゃんとしたものを使うだろうね。もっとも恐ろしく遠回りな手法だと思うけど」
「ですよね。それに他に持ってるホテルでは何も起こってないみたいですし、やっぱり理由としては冗談半分ですかね」
「まあ、笑えない冗談だけどね。札の効果としてはレイちゃんの言ってたとおり、その辺りの浮遊霊を引き寄せるものだね。効力としては暗い部屋で切れかけの蛍光灯が灯ってる程度だろうけど。札に惹かれて霊が集まって、それに引かれて他の霊が集まったんだろうね。霊は霊に引かれやすいから。でも、あの札に引かれて来るような霊なら、祓うのに苦労もしなかったでしょう。見たところ傷も増えてないし」
「そうですね。祓うのは簡単でした。最近は前ほど怪我はしてないですよ」
「そうみたいだね。師匠としては安心だ。最も、怪我については僕も人のことを言えないけどね」
蛭子堂が小さく肩をすくめる。
「そうそう、話を戻すけど、御札を貼った犯人を探すのはやめておいたほうがいいと思う。やるとしたら、そのホテルの従業員に注意喚起くらいかな。似たようなことが続くなら、恨みを買ったと思って相応に対処してもいいけど、今は様子見にとどめておいて、ね。中途半端に知識がある相手って怖いから」
「そうですね。実際、自称霊能者が中途半端に手を出した結果、悪化したわけですし」
零がカウンター上のタブレットに目をやる。
画面に映っているのは一時停止させたライブ配信の画面。
配信者は『satohina』というアカウントだ。
配信しているsatohinaは鈴とリボンの髪飾りをつけた女である。年齢は零と同じく二十歳前後だろう。
ピンクのリボンでまとめた、ピンク色のエクステを混ぜた黒いツインテール、前髪にもブルーのエクステをひと房。服装は白いリボンのついた黒いワンピース。
「ああ、この子? 最近たまに見てるんだよね、暇だから」
「この子ですよ。ホテルの心霊騒ぎに手を出して悪化させたの」
零が顔をしかめ、もう一本煙草に火をつけた。
蛭子堂がそれを聞いて片眉をあげる。
「そうだったの? 確かにこの子、出張除霊もやってるみたいだから依頼される可能性はあるか。まあ、この子の配信見る限り、知識はあるみたいだし、的を外したことは言ってないかな、って印象だけど。霊能力というよりはコールドリーディングでも使ってるのかな、とは思うけど、それくらいなら僕でも依頼人の話を聞くときにはよくやるからねえ。それにしてもレイちゃん、ずいぶんこの子に突っかかるね、なんか嫌な思いでもした?」
「……中学の時の同級生です。クラスは三年間ずっと別でしたけど。学校じゃ有名でしたよ、自称霊感少女で。授業中に霊が見えるのなんのって騒いだり、テスト中に鎧武者に襲われるって叫んで教室飛び出したり、他にも色々と」
「わあ、何と言うか……世間って狭いね」
「高校は別でしたけど、中学で流行ったこっくりさんの亜種みたいなのを何人かでやったらしくて、わたしが怖い思いをすればいいとか何とか、そんなくだらない理由で、こっちにまで霊を飛ばしてきました。あれ以来煙草が手放せなくなりましたよ。明らかにそれまでより憑いてくるものが増えましたし」
「ああ、それひょっとして、はじめて会ったときに僕が返した狗かい?」
「そうです」
「そっかー、あれ送ってたのこの子かー。まあ、高校生であんなの送れたり、一週間とはいえ騒ぎをおさめられるあたり、自称霊能者、っていうのは伊達やはったりではないんだろうね。だったらそもそもおさめられなかっただろうし」
蛭子堂が煙管を置く。
「さて、ちょっと昼は過ぎちゃったけど、どこか食べに行こうか、奢るよ」
「じゃあ、表通りで見かけた台湾料理の店でもいいですか?」
「ああ、最近できたらしいね、広告見かけっけ、そういえば。あの店、値段の割に結構量が多いらしいけど……まあレイちゃんなら大丈夫か。留守は任せるよ、信乃」
「はい、いってらっしゃいませ」
蛭子堂が杖を取って立ちあがり、零もそのあとについて店を出て行った。