人間の区分
いつからだっただろうか、人間を二つにわけるようになったのは。
『大事な相手』と『その他』。家族は『大事な相手』、友人も『大事な相手』。それ以外は皆、『その他』。
そうした区分を漠然と意識したきっかけが何だったかは覚えている。初等部一年のとき、はじめての夏休みに行われた、はじめての三者面談。
――阿刀君は休み時間になるといつも本を読んでいます。そのためか難しい言葉を使ったりするので、他の子とは少し距離が出来がちなようです。お家でもそうなのでしょうか。お母さんからも、クラスの皆と関わるように言ってあげてください。
クラス担任だった女教師から、目の前でそう言われた。その瞬間にこのセンセイは嫌いだと、そう思った。
隣に座っていた母親は、
――確かに家でも阿刀は本を読んでいますが、それが何か?
と、小首をかしげて訊ねかえした。
――それに学校で何をしたか、毎日話してくれますし、話を聞くかぎりでは、本人としては楽しくすごしているのですから、ちょっと他の子より本を読むくらいはいいじゃないですか。
唖然としている担任に、母親はそう言ってのけた。そしてこの面談後から、担任は阿刀の内心の『その他』リストに名を連ねることになった。
家族以外で『大事な相手』が増えたのは、夏休み明けの二学期のことだ。休み明けだからと席替えが行われ、そのとき阿刀の隣に座ったのが日向井夏也だった。
――何読んでんの?
その日の昼休み、いつものように本を読んでいた阿刀に夏也が話しかけてきた。
そのときに阿刀が読んでいたのは『ロビンソン・クルーソー』で、ちょうどロビンソンが無人島に自分以外の足跡を見つけた場面にさしかかっていた。
そう言うと、
――面白そう! なあ、読み終わったらその本貸してくれない?
――うん、いいよ。
翌日、本を読み終わった阿刀は約束どおり夏也に本を貸し、一週間後に本を返しにきた夏也は、面白かったと目を輝かせ、すっかり『ロビンソン・クルーソー』を気に入ったので、母親に頼んで同じ本を買ってもらったとまで言った。
二人が仲良くなったのはそれがきっかけで、以降中等部一年の夏まで、親友と呼べる関係を続けていた。
しかし夏也がいじめが原因で自死してからと言うもの、阿刀の『大事な相手』リストは増えることがなかった。
高等部三年の今でもクラスメイトと仲が悪いわけでもなく、むしろ一部を除いては仲良くしているのだが、特定の相手はいないのが現実だった。
それゆえに、『その他』リストばかりが増えていく。
『その他』リストはすなわち、阿刀にとってどうでもいい相手だ。どう評価されようと構わない、何を言ってこようとどうでもいい、そんな相手だ。言ってみれば『その他』の人間は、アニメの背景で灰色で描写されているその他大勢であって、彼らからどう思われようとも、阿刀は痛くも痒くもない。
夏也が死を選んだときも『その他』の人間は何かと憶測混じりに書きたてこそすれ、阿刀の主張に耳を傾けることはなかった。阿刀が『その他』に対して適当な対応を取るようになったのも、そのころからである。
誰も話を聞かないのなら、自分もその他大勢の話を聞く必要はない。そう考えたからだ。
もちろんクラスメイトである以上、必要以上に険悪になるような真似はしないし、クラスの輪に入ってもいる。しかし、だからといってクラスへの愛着はない。今更愛着もわかないだろうと思っていた。
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ぎ、と金属のきしむ音。
「――何やってんすかニノマエ君!?」
地平線を見ていた目を、足元に向ける。ピンクの入った黒髪の頭、黒のウレタンマスク。
塞翁小虎。脳はそう判別する。それでも阿刀の口から出たのは、出鱈目にも程がある呼び名だった。
「なんだシャイニング君か。君もサボりか?」
「いやサボりもなにも、もう今日の授業終わってるっすよ――じゃなくて、そんなとこに座ってたら危ないっすよ! 落ちたらどうするんすか!」
小虎が慌てるのも無理はない。現在阿刀が座っているのは、高等部の教室棟の屋上を囲むフェンスの天辺なのである。どう間違っても座るような場所ではない。
ぶらぶらと足を揺らしながら、けけけ、と阿刀は妙な笑い声を立てる。
「墜落だね」
「笑いながら言うことじゃないっす!」
「ところでサンダーバード君は今日は一人か? 珍しいな」
「『さ』しか合ってないっすよ!?」
笑いながら、阿刀は宙に身を踊らせた。「ちょっ!?」と小虎の声が聞こえた次の瞬間には、屋上に着地する。
「びっくりするじゃないっすか!」
「注文が多いな、西園寺君は」
「いや、あんなとこ登ってたら心配しますって。というか名前くらいちゃんと呼んで欲しいっす」
「語呂が悪い、改名しろ」
「いやいや……」
しても呼ばないでしょ、と返され、正解、と答えると、小虎は呆れたように溜息を吐いた。
「あんなところで何やってたんすか?」
「日光浴」
「登らなくてもできますよね!?」
「空に近いほうが効果がありそうじゃないか。何の効果か知らないけど」
「適当っすね……」
軽く笑って小虎の横を通り抜けようとしたとき、小虎が阿刀の腕をがしりとつかんだ。
「ニノマエ君、もうさっきみたいなことは止めてくださいよ!」
真剣な目。『女装の変人』を見る目ではなく、『一阿刀』を見る、目。
クリスマスパーティのときもそうだった。
――おれ、にのまえくんのこと、すきー。
提供されたワインが後押ししたとはいえ、まっすぐに伝えられた好意。
答えとして発しかけた適当な呼び名をころりと舌の上で転がして、飲みこむ。
「あー、うん、気を付けるよ、塞翁君」
塞翁小虎。改めてその顔と名前とを、今度は意識的に頭に刻む。
するりと腕を抜いた阿刀は、あ、と何か言いたげにした小虎を置いて屋上を去った。