熾し火

 繰り返す。

 繰り返す。

 

 放課後の校舎。

 物陰から、廊下の様子を観察する。

 廊下にいるのは男子生徒が一人。他に人影は無い。

 よし、と内心で頷いて、五百円玉を弾く。

 硬貨は放物線を描き、男子生徒の後ろに落ちた。

 

 繰り返す。

 繰り返す。

 

 同じ本を何度も読むように、同じ日常を何度も繰り返す。

 

 迷宮に入って、何日経っただろうか。

 そんな考えを意識の外へ追いやって、女生徒のグループに声をかける。

「ねえねえ、こんな噂知ってる? 『放課後に一人でいると――』」

 

 繰り返す。

 繰り返す。

 

「あっ、日向井君、ニノマエ君、お疲れ様っす」

「お疲れ〜」

「あ、塞翁君、お疲れ」

 廊下の向こうから聞こえた声に、足を止める。

 どれも知っている声だった。

 塞翁小虎、日向井夏也、そして、自分自身。

「夏也ん家、最近猫飼いだしたんだって。もうさー、写真だけでもめちゃくちゃ可愛いんだよね、いいなー」

「猫いいっすね、どんな猫っすか?」

「これこれ! いや可愛いよ猫。僕これまで犬派だったけどもう猫派に転向するよ」

 懐かしい声に、胸が締めつけられる。

 わいわいと賑やかな声を聞きながら、阿刀は静かにその場を離れた。

 屋上でスマホを取り出し、写真を眺める。

『日直:日向井夏也』と書かれた黒板の画像。

 穴が空くほど画像を見つめ、ともすれば消えそうになる怒りをかき立てる。

 怒りをかき立てて、燃やして。

 そうしなければ、きっとこの世界に呑まれてしまう。

 あの日から、思わなかったわけではないのだ。今この場に、夏也がいたなら、と。

 スカートのポケットを探って、五百円玉を握る。

 人の少ない場所を探して、物陰に隠れつつあたりの様子をうかがう。

「ぎゃはっ、榎本ー、どっか寄って帰ろうぜ」

「織田君、今日は確か補習があったのではなかったか?」

「いいっていいって。そういや聞いたか? 放課後に一人でいたら、後ろに五百円玉が落ちてるらしーぜ。それ拾ったら不幸になるんだってさ、ぎゃはっ、そんなことあるかってーの」

 小さく笑い、阿刀は静かにその場を離れた。

 

 繰り返す。

 繰り返す。

 

 放課後、下校時間をすぎてからは見つからないように旧校舎に隠れ、翌日、生徒が登校してきてから閉鎖された裏門を使って家に帰り、誰もいない家で昼まで寝て、昼休みを見計らって登校する。

 そんな生活にももう慣れた。

 不幸になる五百円玉の噂を流し、実際に五百円玉を放り投げ、そして別の噂を流す。

 例えば町で見かける仮装集団の噂。

 例えばフリーマーケットに出ているという、【年を吸い取る鏡】の話。

 例えば平坂地区の事故の噂。

 例えば卒業式への爆破予告。

 話す相手は女子がいい。

 相手を選んで上手く話題に混ざり、話の中に噂を差しこめば、後は向こうが勝手に噂を広めてくれる。

 『女子生徒』としての振る舞いも、適した相手の選び方も、話し方も心得ている。

 何より、黄昏学園はマンモス校だ。見慣れない生徒だからといって、警戒されることは少ない。

 昼休みに、放課後に、ひたすら噂の種をまく。

 心が折れそうになるたび、怒りをかき立てて。

 

 繰り返す。

 繰り返す。

 

「ねえねえ、昨日――でさ……」

「あ、聞いた聞いた! ――ちゃんが仮装集団に追いかけられたんだって?」

「え、あたしは五百円玉を拾って事故にあったって聞いたよ」

「そういえば、ネバーランドってグループが――」

 

 まいた種が芽吹きだす。

 尾ひれがついた噂は、既に阿刀の手を離れている。

 日が変わっても、噂はどんどんと広まっていく。

(あと、ひと押し、ってところかな)

 ずしりと重い紙袋を手に、校内に入る。

 今日の阿刀はいつもより遅く学校に来たが、まだ放課後にはなっていない。そろそろHRが終わるかどうか、といったころだろう。

 その間に、壁と言わず、窓と言わず、持ってきたものを貼っていく。

 学生裁判委員会について書かれた学内新聞のコピーと、日向井夏也の転落死を報じた五年前の新聞記事のコピー。

 HRの終了を知らせるチャイムが鳴ってまもなく、ざわざわと、生徒がざわめいているのが聞こえてくる。

「おい、何やってる!」

 走ってきた教師の横をすり抜け、貼るのも面倒だとコピーをばらまく。

 どさりと後ろで誰かが転んだ音がした。

 コピーを撒き散らしながら校内を走る。

「待ちなさい!」

「待て!」

 後ろから聞こえる声は無視して中等部の教室棟に駆けこみ、一段飛ばしに階段を駆け上がる。

 その勢いを緩めないまま、屋上への扉を開けた。

 茜色が視界に広がる。

 唸りをあげて吹いてきた風が、阿刀の手に残っていた二、三枚の紙をさらっていく。

 空になった紙袋を宙に放り投げる。

 紙袋はあっという間にどこかに運ばれていった。

 走ってくる足音。

「いた!」

 屋上に来た二人の顔を見て、阿刀はふっと唇を吊り上げた。

「やあ、金継姉……と、お勉強ができるだけの卑怯者」

「二次!」

「誰が卑怯者だ……って、え?」

 迷宮の阿刀が言い返しかけて目を見開き、二次最善がさっと顔に血の気をのぼらせる。

「どうして邪魔をするの!」

「あはは、さすがにこの距離で見たら気付くか。年がら年中見てる自分の顔だもんな。ああ、卑怯者に卑怯者だと言って何が悪いんだ? お前は自分が可愛いだけの卑怯者だ。自分が嫌われることが怖くて、それが最善だと自分を騙して、本当の最善策を取れなかった大馬鹿者だ。親友を失うまで、それに気付けなかった愚か者だ」

 最善の言葉を無視し、涼しい顔で、しかし怒りに任せて言葉を続ける。

 顔を歪めて飛びかかってきた自分の腹に膝蹴りを叩きこむ。

 身体をくの字に折って倒れこんだ自分自身は無視し、ようやく最善に目を向ける。

「無事ですむと思っているの?」

 声にはっきりと怒気を滲ませた最善を相手に、阿刀は笑い声で答えた。

「どうだっかねえ? 案外無事ですむかもだし、そうじゃないかもしれないし? ……夏也まで利用されて、お前の邪魔をしないわけないし、覚悟だって決めてないわけないだろ。馬鹿じゃないのか」

 ぎしりと空気が軋む。

 周囲の空気がのしかかってくる。

「どうせこの迷宮はあなたのおかげで消滅するわ。だからって帰れると思わないことね」

 最善の前で膝をつきそうになるのを、必死で耐える。

 ずん、といっそう空気が重くなり、ふっと重さが消えた。

「な――」

「いやいや、ニノっち先輩、流石に無茶だってそれは」

 とん、と軽い着地音とともに、金髪の少女が立つ。

「魔女の相手は任せといて、ニノっち先輩は早く帰る!」

「おっと、サンキュ、五十鈴。帰ったらスタバ奢るよ」

「よーし、ちゃんと聞いたからね!」

 横を通り抜けざま、軽く手を打ち合わせて、奇妙なほど静かな校舎を走る。

 最善が何かしたのか、それともこれが迷宮の消滅の前兆なのか校内に人影はない。

 生徒用の玄関を出たところで、がらりと景色が変わった。

 再開発地区の入口。迷宮に入ったのと同じ場所だ。

 ポケットからスマホを取り出した阿刀は、掲示板を開いて文字を打ちこみはじめた。

 

『【解決済】一 阿刀』

 

 液晶画面に、ぽつぽつと空知らぬ雨が落ちた。