異形の獣と終末迷宮
入りこんだ迷宮では、濃紺の夜空を背景に赤々と火が燃えていた。
断続的に地面が揺れ動き、立っていることもままならない。
瓦礫の少ない道を選んで歩いていた孫王朱夏は、いつしか黄昏学園に来ていた。
学校は住民たちの避難所となっているらしく、学校近くの住民が校庭の炊き出しに並んでいる。
「あ、手空いてるの? だったらこっち手伝って!」
制服姿で迷宮に来たからか、どうやら勘違いされたらしい。
そのまま流されるようにして、朱夏が炊き出しを手伝っていたときだった。
離れたところで悲鳴が上がる。
何事かとそちらに顔を向けた朱夏の目に、その姿が映る。
二メートルはあろうかという体躯、白い髪に褐色の肌。
魔人・八剱八幡がそこにいた。
二人の視線がぴたりと合う。
にやりと笑った八剱は、住民を強引に押しのけながら朱夏に近付いてくる。
朱夏はその一挙手一投足から目を離さず、その場に立っていた。
「逃げないのか?」
正面に立ち、嘲るように訊ねた八剱に、朱夏は小首をかしげた。
刹那、朱夏の顔をめがけて八剱の拳が伸びる。
朱夏の顔面をまともにとらえるかと思われた八剱の拳は、しかし空を切る。
八剱が殴りかかったその瞬間、朱夏は高々と飛び上がっていた。
くるりと空中で回転し、後方に降りる。両手両足を地面に付けて。ちょうど、獣のように。
黒い髪の下から、赤く燃える目が八剱を射る。
る~~~~~
朱夏の喉から、声が上がる。
唸り声とも、鳴き声ともつかない、奇妙な声だった。
しゃっ、と鋭い呼吸音とともに、朱夏が八剱に飛びかかる。
おそらく八剱も、この反撃は予想していなかったのだろう。虚を突かれた瞬間、朱夏の爪が、彼の顔を裂いた。しかしその隙は一瞬のことで、八剱はその猿臂を勢いよく横に払った。
その腕は、正確に朱夏の身体をとらえていた。
鍋や紙皿と一緒に、あっけなく飛ばされた朱夏は、飛ばされた先の壁を蹴って勢いを殺し、地面にやはり手足を付いて立った。人間離れした動きだった。
朱夏の頭に生えた猫耳は後ろに反り、乱れた髪は逆立っている。
こちらへ近付く八剱を睨む朱夏の目、その瞳孔は縦に裂けていた。
「死ね」
蹴り上げられた足に跳ね上げられたかのように飛び上がった朱夏が、頭上から八剱に襲いかかる。
その一撃は、あっさりと防がれる。直後に放たれた裏拳が、朱夏を地面に叩きつけた。
起き上がるより先に、八剱の爪先が朱夏の身体に刺さる。
やがて、朱夏が動かなくなると、興味をなくしたように、八剱はその場を立ち去った。
◇
――もうすぐ、この世界は消えるわ。
――ねえ、一つ、お願いを聞いてほしいの。
――外に出て、私が戻るまで、私の代わりをしていてほしいの。
――難しいことじゃないわ、でしょう?
――え? ええ、もちろん私は戻るわ。だからそれまでの間だけ、ね?
――やってくれる? ありがとう!
誰かの笑顔。
約束した。約束したのだ。自分は。もう顔も思い出せない、誰かと。
だから――。
◇
目を開ける。
傾いた視界は、黄昏学園の校庭を映している。
ゆっくりと、身体を起こす。
全身が鈍く痛んだ。唇を噛んで、声を殺す。
周囲は朱夏に注意を払うこともなく、何事もなかったかのように炊き出しに並んでいる。
異様と言えば異様な光景だった。妙な男が襲ってきたのだ。百歩譲って、朱夏に関わりたくないから彼女を放置しているとしても、せめて何かしら警戒するような雰囲気はあっていいはずだが、そんな様子はまるでなかった。
土で汚れた制服を軽くはたき、スマートフォンを取り出して掲示板に書きこむ。画面には大きくひびが入っていたが、壊れてはいないようだった。
歩きだすと、痛みが強くなる。
その痛みを気付けにして、のろのろと歩き出す。どこかからこぼれ落ちた血が、点々と地面に落ちる。
赤い血は、すぐに黒ずんだ染みへと変わっていった。
肩で息をしながら、町を歩く。
川の側で土のうを積んで洪水に備えたり、瓦礫を片付けたりしている住人がいる。彼らも朱夏には注意を払わない。黙々と、あるいは互いに声をかけあって作業をしている。
どこに行けばいいだろうか。痛みに遮られながら、思考を巡らせる。
人が少なく、かつ建物――建っているかわからないが――あるいは障害物が多い場所。
すぐに思い浮かんだのは、現実では百貨店やホテル、オフィスビルが立ち並ぶ箱猫市の駅前だった。
この迷宮で、どこまで現実と同様の建物が残っているか――。
耳が、かすかな地響きをとらえる。
一拍おいて、ぐらりと地面が揺れた。
がらがらと、近くで瓦礫が崩れる音がする。
反射的に頭をかばう。
かなり長く続いた地震がおさまると、人々はまたそれまでと同じ作業をしはじめる。まるで何事もなかったかのように。
痛む身体に鞭打って移動する。
見えてきた駅前には、大きな建物はほとんど残っていなかった。しかし低いビルはまだかろうじて残っている。かなり補修がされた状態ではあるが。
「生きていたのか、“失敗作”」
声と同時に、八剱の巨躯が降ってくる。
舞い上がった砂塵に、一瞬その姿が隠れた。
考えるより先に、朱夏は大きく後ろにはね飛んでいた。
砂埃を断ち切るように薙ぎ払われた八剱の足が、ぎりぎりで空を切る。
る~~~~~~~~
前屈し、両手足を地に付けた朱夏が鳴く。
八剱が一歩踏みこむと同時に、朱夏も地を蹴った。
鋭く尖った爪をふるおうとする朱夏の腕を、八剱が掴んで投げ飛ばす。飛ばされた先の壁を強く蹴って八剱の背後に降りた朱夏は、大きく手をふりあげた。
ぱっと身を翻した八剱が片足を蹴り上げる。朱夏が身をひねったところへ、軸足を入れ替えた八剱の蹴りが飛んできた。
横へ飛び、寸でのところでそれをかわした朱夏は、落ちていた小石を拾い上げた。
軽く地面を蹴り、今度は朱夏が八剱に肉薄する。
しゃっ、と鋭く吠えた朱夏の攻撃は、八剱に簡単にさばかれる。
朱夏の攻撃も、決して簡単にさばけるようなものではない。身軽に動き回りながら前後左右、どこからでも繰り出されるそれを避けるのは、常人には難しいだろう。
一瞬前まで朱夏がいた場所をめがけて、八剱の蹴りがビルの壁を打つ。壁に大きくひびが入る。
事前に出された依頼によって、これでも八剱は弱体化しているはずだが、とてもそうは思えない。
拾った小石を八剱めがけて投げつける。それとほぼ同時に八剱へ飛びかかる。
小石を難なく避けた八剱が、朱夏を掴んで壁に叩きつける。
壁に叩きつけられる寸前で八剱をふりはらい、血の混じった唾を吐く。
「無駄だ。諦めろ」
首を横にふる。
力の差は圧倒的だ。そんなことは朱夏にもわかっている。
だがそれでも、目の前のこの男は倒さなくてはならない。今生きている現実を、こんな世界で塗り潰させてはならない。
朱夏の身の内に、何かが満ちていく。恐怖ではない、別の感情。
ある~~~~~~~
唇がめくれあがって鋭く伸びた犬歯がのぞき、両眼の瞳孔が縦に裂ける。
黒い髪が揺らめきながら逆立ち、ぱちぱちと音を立てて火花が散る。
するりと伸びてきた黒い、長い尾の先が二つにわかれる。
放たれた矢のように、一気に八剱との距離を詰める。
八剱が手を伸ばしてくるのに構わず、鋭く伸びた爪をふるう。
がり、と手応えがあった。
八剱の顔に三筋の赤い線が走る。
顔を歪めた八剱が、朱夏を殴り飛ばす。
その腕を掴んで、尖った犬歯を喰いこませる。一瞬の後、朱夏はふりはらわれていた。
背中から壁に打ち付けられる直前、壁を蹴って再度八剱に肉薄する。
ばね仕掛けのように飛んできた八剱の爪先を片腕で防ぎ、空いた手を八剱の顔面に向けて勢いよく伸ばす。
八剱が顔を背けたため、狙った目こそ外れたものの、朱夏の爪は八剱の目尻からこめかみにかけての皮膚をざっくりと切り裂いていた。
八剱が毒づき、朱夏の腹へ拳を叩きこむ。その衝撃に息を詰まらせつつ、朱夏はコンクリートの壁に背中からつっこんだ。
咳きこみながら、それでも起き上がる。
追撃で飛んできた蹴りは朱夏ではなく、一瞬前まで彼女がいた場所の壁を叩いていた。
ぐらり、と大きく地面が揺れる。
がら、と固いものが崩れる音。
壁にできたひびが広がる。
地震と八剱の攻撃でもろくなっていたのだろう。傾いた建物が二人に向かって崩れかかる。
それと悟って反射的に離れようとした朱夏の足を、八剱が掴む。
「お前も道連れに――」
言いかけたその瞬間、今度こそ八剱の目に、朱夏の爪が突き立った。
緩んだ手をふりはらい、最後の力をふりしぼって前に飛ぶ。
コンクリートに潰される一瞬前、八剱の唇が三日月形を作ったのを、朱夏は確かに見届けた。
轟音とともに、建物が崩れる。
もうもうと舞う砂塵に激しく咳きこみ、ぐったりとその場に倒れこむ。
全身がばらばらにでもなったかのように痛い。そのくせ左腕の感覚はない。
すでに朱夏の身体は元に戻っていた。それまでの、異形とも言える変貌の痕跡は見られない。
やっとのことでスマホを出し、霞む目をこすりながら文字を打ちこむ。
少しずつ、周囲の景色が色を失っていく。迷宮がその現実感を失い、本来の現実が帰ってくる。
過去にも一度、こんな景色を見たことがある。
そんなことをぼんやりと思いな方、送信ボタンを押して、朱夏は目を閉じた。