世界を渡る騎士
すいすいと、景色が移り変わる。ちらりと見えた家々は、あっという間に彼方へ飛んでいく。
窓枠に肘を乗せ、客車の車窓から外を眺めていたネミッサの耳に、足音が聞こえてきた。
弁当のほか、菓子や飲料が積まれたワゴンを押しながら、車内販売の乗務員が姿を見せた。
「お食事はいかがですか?」
中年の女事務員はネミッサに愛想のいい笑みを向ける。
「弁当を二つと……そこの紅茶を二つもらおうか」
意識して表情を和らげ、語調もつとめて柔らかくして、小さなバスケットに入った弁当と紅茶を買う。
平素は無表情なネミッサだけに、これだけでもだいぶ愛想よくうつる。
乗務員が笑顔で頭を下げ、ワゴンを押して次の客車へ向かう。
バスケットの中には、ハムと胡瓜を挟んだサンドイッチと、塩胡椒で味をつけた鶏肉の串焼き、固茹で卵が入っている。
サンドイッチをひと口かじる。
(悪くないな)
串焼きも冷めてはいるが、しっかりと味がついていて柔らかい。
向かいの席で眠りこんでいたジョンが目を覚ます。
「昼はもうすぎているが、弁当を買ったから食べておけ。なかなか美味いぞ」
「いただきます」
バスケットを受け取り、ジョンがサンドイッチを頬張る。
二人が昼前に、レピシヴァン北部の都市・カーロウから中央こと首都センティアを結ぶ特急に乗って約二時間。その間ずっと眠っていたジョンは、よほど腹が減っていたらしい。
ジョンが弁当を食べ終えて少し経ったころ、汽車はセンティアの駅へ定刻どおりに到着した。
次々に乗客が降りるなか、二人も客車を降り、人の流れに沿って歩き出した。
駅を出て人に道を訊ねながら、二人がようやくたどりついたのは、センティアの西区にある住宅街から少し離れたところに建つ一軒家だった。
粗末な木の塀の向こうには、見事な薔薇や勿忘草、チューリップと、色鮮やかな花々が咲き乱れる庭があった。あたかも、かの薔薇屋敷の庭のように。
花々の間を、時折かがみこんで雑草を抜きながら歩いている、背の高い男がいる。肩すれすれで切っていたはずの黒髪は、肩を越す程度に伸びている。
男はこちらに背を向けており、ネミッサに気付いた様子はない。
「相変わらず、精が出るな」
塀越しに、声を投げる。
「ああ、おかげさま、で……?」
驚きのあまり、少しよろめきつつふりかえった男の、緑がかった黒い目がネミッサをとらえた。垂れ目がちの目が、まなじりが裂けんばかりに見開かれる。
「一年――いや、一年半ぶりか。元気そうだな、アスウェル・コズロー」
塀にもたれかかり、微笑してみせたネミッサを、アスウェルはまだ信じられないと言いたげな顔で見つめている。
「入っても構わないか?」
「あ、ああ」
ぎこちなくうなずき、アスウェルは二人を家の中へ入れた。ジュリーが二人を見て尻尾をふる。
「驚いたよ。どうしてここに?」
「色々とひと段落してから、別の国に行くことになってな。その途中で上手い具合に立ち寄れたから、顔を見ておこうかと。キロン様も気にかけておられたしな」
「別の国?」
「ああ、ウォールベルグという国だ。どうやって渡ったかは知らないが、マリスの手下の一人がそこにいる。幸い、“顔無”が標を残してくれたから、渡るのは容易いがな」
「そうなのか。あれから、向こうはどうなった?」
「表向きには何もなし、だな。とはいえオリカ・グローゼンには相応の罰則はあった。事故とはいえ〈外つ国人〉が召喚されたことを知りながら届け出もせず、悪意のある噂の真偽を確かめることもなく、放置していたわけだからな。ミラダン――“顔無”にそそのかされたらしいが、それとこれとは話が別だ。そのうえ、ローンバート・ソーンの問題のある行動も見て見ぬふりをしていたというのだから……これでキロン様の逆鱗に触れないほうがおかしい。まあ、町長としての実績はあったし、急に免職にするのも難しいようだったが、少なくとも、もう誰かの後見人になることはあるまいよ。それから、ミラダンはきちんと弔われた。あの男は気の毒だったな。それと、貴殿の件があったので、全国的に召喚陣が調査し直されることになったようだ。特に古い時代のものは、同じことが起きかねないそうでな」
「そうか。いい方向に変わるならいいのだが」
「問題はないだろうよ。そちらはどうだ?」
「つつがなく、ってところだな。それほど支障はないよ。帰ってすぐのころは混乱もしたが、今はそんなこともないし」
「それは重畳。今はここで暮らしているそうだな。北で聞いてきたのだが、元気にしているか案じられていたぞ」
「ああ、確かにこっちに来てからはほとんど連絡してなかったな。今度連絡してみるか」
「そういえば、あの子供はどうしている?」
「あいつも変わらずだ。もっとも、さすがに出て来ないがな。騒ぎになるし」
そこへ、買い物袋を提げた女が入ってきた。
つややかな茶色の髪をまとめて楕円のバレッタを留めた女の青色の目がアスウェルとネミッサ、ジョンを交互に見る。
「お客様?」
「ああ、昔、世話になった知り合いだよ、エリー」
「はじめまして。奥様、でいいのかな?」
ネミッサの言葉に、アスウェルは二、三度咳払いをした。
「ん、その……近々、そうなって欲しいと思っている」
「あら!」
面映ゆい様子で口ごもったアスウェルとは逆に、エリー――エリザベス・ミラー――はまだどこか娘らしさを残した顔を輝かせた。
二人に祝福され、アスウェルが耳を赤くする。
「心配はなさそうだな」
ネミッサの口がそう動いたのに気付き、気を取り直したアスウェルは、彼女に物問いたげな目を向けた。
「向こうで何かとあっただろう? 疵になっていないかと思ってな」
「……確かに、なかなかない経験ではあったが、うん、心配されるほど引きずってはいないよ。今はこうして無事に暮らしていることだし」
「それを聞いて安心した。ああ、そろそろ行かなければな」
「そうか。旅が無事に終わることを祈っているよ」
二人に見送られ、家を出る。最後にちらりとふりかえったネミッサは、一瞬、金髪の少年が窓から手をふったのを認めて、淡い微笑を口元にのぼらせた。