坂の途中

 銃声。
 静かな森には似つかわしくないその音に、見回りに来ていたヒューとミューシェ、それにランドルは思わず見を固くした。
 いつかロストが評したように、カナーリスは平和な町だ。銃声など、そうそう聞こえるものではない。
「密猟者かな」
 ヒューが呟く。
 森に棲む動物目当ての密猟者が入りこむことが、これまでにも何度かあったためである。
 だとしたら厄介だな、とランドルが顔をしかめる。
 再度の銃声。
「薔薇屋敷のほうか」
「ど、どうします……?」
「行くしかないだろう」
 震え声のミューシェに、ランドルが呆れたように答える。
 レンジャーとして古参のランドルは、こんなときでも落ちついている。
 ヒューは顔を強張らせ、ミューシェは真っ青になっていたが、ランドルは少しも表情を変えなかった。
「ミューシェ、お前は後から来い。何かあったら町へ知らせに走れ」
「わ、わかりました」
 ミューシェはヒューよりも一年先輩で、特に植物に精通している。しかし気弱な性格で、荒事には全く向かない。
 そのためこうしたときの彼女の役割は、もっぱら町への連絡だった。
 薔薇屋敷の門扉は開いていた。
 ランドルが先に立ち、庭を進んでいく。
 小屋の傍に、ロストが立っていた。
 拳銃を的代わりの木片に向け、引鉄を引く。
 銃声。
 木片が弾き飛ばされる。
「……ああ、誰かと思ったら。お前たちか」
 銃口から煙があがる拳銃を持ったまま、ロストが横目で三人を見る。
 引鉄からは指を外し、銃口も下に向けていたが、ロストの目にはまだ、研ぎ澄まされた刃のような、鋭い光が宿っていた。
 その佇まいは、三人が知る“庭師”のものとまるで違っていた。
「ここ何日か、森でよく銃声が聞こえるっていうんで調べに来たんだが……原因は、お前か?」
「そうだろうな」
 ロストが肩をすくめ、拳銃に安全装置セーフティをかける。
「射撃の練習くらいなら目をつぶるが、気を付けてくれよ」
「わかってるさ」
 ロストが口元を緩めて笑みを見せる。それはどう見ても作った笑みだった。
「それならいいが、何かあったらすぐに連絡してくれ」
「ああ、物騒だからな」
 皮肉を聞き流し、念を押すランドルに、ロストは渋面を隠そうともせずにうなずいた。
 もう少しここにとどまるというロストに、誰か残ったほうがいいかと聞いたランドルだったが、ロストは必要ない、と首をふった。
 薔薇屋敷の門まで戻ったところで、ランドルは低く二人にささやいた。
「隊長にも話しておくが、ロストから目を離すなよ」
 不思議そうに首をかしげるミューシェの隣で、ヒューは黙ってうなずいた。
 ロストのやつれた顔の中で、ぎらりと光る目には、何か思い詰めた色があった。
「でも……普通に見えましたけど」
「あれがか? ミューシェ、あいつの目は何もかも諦めた人間の目だ。あの目をしたやつは、何をするかわかったものじゃないぞ」
「ネイにも、目を離さないようにと伝えておきます」
「ああ。報告は任せる。俺はもう少し、ロストの様子を見てから戻るよ」
 報告を二人に任せ、ランドルは物陰に身を潜めた。


 そのころ、ロストは小屋の中で手紙をしたためていた。
 三通の手紙。一通はイザクとヒューに、一通はネイに、そしてもう一通、最も長い手紙には、しばらく考えてネミッサの名を書いた。
 ネミッサに宛てた手紙には、全てを書いた。自分がここに来たときのこと、来てからのことを全て。
 彼女がこの内容を信じようと信じまいと、そんなことは構わない。この手紙が彼女の手に渡るころには、全てが終わっているはずだ。
 自分がもうどうしようもないところまで来てしまっていることは、自分が一番よくわかっている。とどまることも、引き返すことも、もうできない。
 手紙を棚に置き、小屋を出る。
「ジュリー、もうちょっと待っててくれな」
 墓の前にかがみ、優しく声をかける。
 武術祭は来週だ。射撃の腕も勘も問題ない。
 あたりはもう小暗くなっていたが、ロストは慣れた足取りで歩いていく。無意識に、周囲に気を配りながら。
 そのふるまいは、明らかに武人のそれだった。
 歩きながら、拳銃を出して安全装置セーフティを外す。
 薔薇屋敷から、後をつけてくる気配があることには、とうに気付いていた。
 足を止めてふりかえり、その気配に銃口を向ける。
「両手を上げて、前に出ろ」
 低い、淡々とした声。殺気がこめられたその声は、氷のようだった。
 引鉄に指をかける。
「もう一度だけ言うぞ。両手を上げて、前に出ろ」
「わ、わかった。出ていくから、撃つな」
 焦った様子で両手を上げ、歩み出てきたランドルを認め、ロストが銃を下ろす。
「戻っていなかったのか」
「放っておくわけにはいかないだろう。あんなことがあったわけだし」
「そうかい」
 気のない様子で答え、ロストが再び歩き出す。
「ロスト。お前もそろそろ前を向いたほうがいいと思うぞ」
「……その言葉は、もう遅いよ」
 低くつぶやき、ロストは唇を歪めて嗤った。


「お帰り。何か食べる?」
 戻ってくると、ネイが安堵をにじませた声をかけてきた。
「ああ、悪いな、遅くなって」
「ううん。気にしないで」
 テーブルの上にネイが夕飯――スープとサラダ、オムレツ――を並べる。
 ロストがそれを黙って食べるのは、ここ一週間、食事のたびに見られる光景だった。
 傍から見ても、ロストの食べ方は無理をしているように見えた。
 実際、ロスト自身、食欲はないも同然だった。
 それでも体力を保つため、ロストは半ば無理矢理に食物を口に運んでいた。
 ネイからすれば見ていられない状態なのに変わりはなかったが、それでもはじめはかろうじて水を飲むだけで、ろくに食べもしなかったのだから、と、彼女は自分に言い聞かせていた。
 夕方にやってきたヒューから、ロストから目を離さないようにと言われている。
 あたりさわりのない話をしながら、ロストの様子をうかがう。
 ロストの面には、痛々しいほど濃い焦燥の色があった。火事の後から、この色は消えたことがない。
 ネイも、ロストが思いつめているのはわかっていた。
 だが何ができる? 大切なものを理不尽に奪われた人間に、どう声をかければいい?
「ロスト」
 食事を終え、もう休むよ、と立ちあがったロストを呼び止める。
「ロスト、私にできることがあったら言ってね。何だってするから」
 珍しく、呆気にとられたように、ロストはしばらくネイを見つめていた。
「気持ちだけもらっておくよ。ありがとう」
 ちらりと苦痛をこらえるように顔を歪ませたものの、ロストはすぐに弱々しい苦笑を浮かべ、二階へあがっていった。
 部屋に入ってすぐ、ロストは横になって目を閉じた。
 力を抜いて、ゆっくりと深呼吸をくりかえす。これだけでも身体は休まるのだと、昔故郷で教わった。
 武術祭まであと一週間。不思議と気分は落ち着いている。よく眠れているわけではないし、体調もいいとは言い難いのだが。
 気力だけが、今のロストを支えていた。
 とろとろとまどろむ。
 軋んだ声の、軋んだ歌。
 目の前に、赤色が広がった。
(ああ……)
 目を開け、大きく息を吐く。
 のろのろと起きあがり、窓を開ける。
 吹きこんできた夜風が、頭を冷やす。
「イスディス。もう少し待ってくれ。必ず対価は払うから」
「待つのは構わない。でも、いいのか?」
「ああ、もういい」
 その口調は、どこか吹っ切れていた。
(止めるのは――もう無理だな)
 せめてジュリーが生きていれば、彼もここまでにはならなかったかもしれない。
 しかしジュリーを、よりによって自分の手で殺さなければならなかったことで、ロストの心は完全に壊れた。
 もう誰も、ロストを止められないだろう。
 それならば、イスディスができることはもう、見守ることだけだ。
 転がりはじめた石が、坂の終わりに至るまで。

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