悪意と思惑
「私やジョンがいたのは、メルへニアという世界です。そこはいわゆるおとぎの国で、多くの種族が存在しています。人間ばかりでなく悪戯好きの妖精や子鬼、聡明なケンタウロス、勇猛なグリフォン、それにドラゴンも。何百年と生きる種族がいれば、数日で生を終える種族もいる。そんな世界ですから、種族間での小競り合いは幾度となくありました。それでも深刻な争いが起きることはありませんでした。それがいつからか、少しずつ狂い出したのです。悪意をもって他者をおとしめ、名誉や尊厳、時には生命まで奪うようになってきた。私の知るある男は、いつも顔を隠していることから、何の根拠もなくやましいことがあるに違いないと噂を立てられたあげく、殺人の濡れ衣を着せられて死刑にされかけました。彼が顔を隠していたのは、顔の半分に大きな傷痕があったから、なのですが。幸い、その男は無実を証明することができたので事なきをえましたが、これは珍しい例でした。袖が触れた触れない、睨んだ睨まない、悪口を言った言わない――そうした話が当人たちばかりでなく、周囲も巻きこんで大きな諍いに発展するようになりました。暴力沙汰が茶飯事――いや、暴力沙汰でおさまればいいほうで、一夜のうちに村ひとつが丸々、死人が跋扈する場所になったこともありました。そんなことが頻発したので、知人から原因を突き止めて欲しいと頼まれたのです」
「原因があったのですか?」
キロンの問いに、ネミッサがうなずく。
「その原因こそ――マリスヴィル。我が仇敵。あれは見た目こそたおやかでうるわしい娘だが――実によく、人を惑わす」
それまでは実に淡々と、冷静という言葉を絵に描いて額装して飾ったような様子のネミッサだったが、最後のひと言を発したときだけは、その磁器人形のような顔を不快げにしかめ、声にもあからさまに嫌悪の響きを滲ませた。
とはいえそれはほんの一瞬のことで、彼女はすぐに平素の無表情を取り戻した。
「私とジョンはマリスヴィルを追い詰め、手下の一人を斬り捨てました。ただ、そのときに私も傷を負いまして、そのまま彼らの魔術でマリスの手下の一人とともにこちらに飛ばされたのです」
「ああ、それであんな大怪我を……。しかしあのとき召喚の間にいたのは卿とジョンだけでしたが……?」
「飛ばすのに使われた魔術がかなり強引なものだったようで、むしろ私とジョンが同じ場所に飛ばされたことが奇跡だったようですね。他にも細かい原因はあったようですが、とにかくその手下だけが別の場所に飛ばされたようです」
「その手下が……ミラダン・バーセル、だと?」
口を挟んだロストに、そうだ、とネミッサがうなずく。
「そうだ。奴の名は“顔無”。他人に成り代わることを得意とする輩だ。警備兵隊長を選んだのは、おそらくその立場が奴にとって都合が良かったからだろうな。ミラダン・バーセルは住民から一定の信頼を得ている。多少強引な言動や行動を取ったとしても、そうそう咎める者はいないだろう。それに何か想定外のことが起きたとしても、その立場を使えば介入しやすいだろうしな」
「しかし、なぜ誰も気付かなかったんだ?」
「推測だが、徐々に態度を変えていったのだろう。できるだけ、違和感を与えないように。それでも違和感を持った者には、魔法で誤魔化したかもしれないな。簡単な魔法なら使えたはずだ」
魔法と聞いて、ロストが一瞬顔をしかめる。
「あんたは、なぜ気付いたんだ?」
「カナーリスに来てはじめてミラダンに会ったとき、奴は私を“鴉の騎士”と呼んだんだ。“鴉の騎士”は、確かにメルへニアにおいて、私を示す呼称だ。だが、私はその呼び方をこちらで使わせたことはない。ジョンも呼んだことはないし、キロン様も無論、聞かれたことはないはずですね。つまり、この世界で私を“鴉の騎士”と呼ぶ者は、マリスヴィルの手下以外にはいない。ジョンにはもともと、こちらに来る前からその呼称は使うなと言っていたから、逆立ちしたって私をそう呼ぶことはない。それに、“鴉の騎士”という言葉は、人を呼ぶ一般的な言葉ではないだろうし」
「そういえば、卿。あの空き地に召喚陣があると、いつ気付かれたのです?」
「確信したのは空き地でミラダンの記憶を見たときですよ。もともと、あんな平地の何でもないような場所に、私があてられるほどの魔力が溜まっているというのが腑に落ちない、というので調べに行ったのですが。何もなく、ただの魔力溜まりであれば、それはそれで構いませんでした」
「ミラダンの記憶?」
怪訝そうなロストに、ネミッサは空き地で見たミラダンの記憶の内容を簡単に語った。
話を聞き終えても、ロストはまだ訝しげな表情を崩さなかった。
「聞くかぎり……召喚陣は隠してあったんだよな。それなのになぜ俺を召喚したんだ?」
「おそらく、順序が逆だ。隠してあるものを使って貴殿を召喚したんじゃない。貴殿が召喚されてから、何らかの理由で隠したんだ」
「それは、ミラダンの――本物のミラダンの死体を隠したかった?」
「推測でしかないが、きっとその意図はあったのだろうな。ミラダンの血で魔法陣は起動し、いっとき繋がったレピシヴァンから貴殿が召喚された。それを知った“顔無”は、オリカ・グローゼンにささやいた。『あの召喚陣は王宮に届け出るべきものだ。それを怠っていたのだから、ことが公になれば、あなたの経歴に傷がつく。しかし今届けていない以上、王宮はあの場所に召喚陣があると知らないのだから、黙ってさえいれば、あなたは安泰だ――』とか、な。こう言えば、町長は同意すると考えたのだろう」
「ああ、あの人ならそれに同意してもおかしくはないだろうな。それなら――やけに後見を申し出てきていたのは――監視、か。てっきり自分のステータスのためかと思っていたんだが」
え、とキロンが声をあげる。
「グローゼン氏は、後見を申し出ておられたのですか?」
「はい、〈外つ国人〉の可能性があるなら後見人制度が利用できる、と言われましたが……」
キロンが黙りこむ。
オリカ・グローゼンは、ロストが〈外つ国人〉の可能性があるとは一度も、ひと言たりとも口に出さなかった。
沈黙したキロンを見、ロストが苦笑――あきらかに苦々しさのほうが多い――をもらす。
「もしかして、あの男は頭がおかしいから信用しないほうがいい、とでも言われましたか」
「……その、気を悪くしないでいただきたいのですが……そのような話を、滞在中に聞いたことがありました」
でしょうね、とロストが心のこもらない調子で相槌を打つ。
「なに、その手のことなら散々言われましたからね。別に今更、気を悪くなどしませんよ」
ネミッサがそれを聞いて眉を吊りあげる。
「奴らの使いそうな手口だ」
「手口?」
言問顔のロストに、そうだ、とネミッサがうなずく。
「例えば私が、貴殿の秘密を知っているとしよう。万一それが公になれば、貴殿の立場は非常にまずいことになる類の秘密だ。しかし、貴殿は私がその秘密を知っているという確証を持っていない。さあ、どうする?」
「そうだな……まず口止め――いや、俺は自分の秘密を知られているかどうかわからないわけだから、まずはそれをどうにかして確認しようとするだろうな。思いすごしかもしれないし」
その答えを聞いて、ふ、とネミッサの表情が和らいだ。
失笑したわけではなく、ロストの、あまりに善人らしい答えが気に入ったのである。
「そうだな。だが奴らなら、私の信用を落とそうとするのだ。私は狂人だ、大ぼら吹きだと言いふらせば、私をよく知らない人間は、私を信用ならない存在だと思うだろう。少なくとも、そうした先入観は持つ。そうすれば、私の言葉は信用されなくなる。特に吹聴しているのが、社会的な地位があり、周囲から信用されている人間ならなおのこと、な。くわえて、私のことを知っている人間がいなければ、余計に悪評ばかりが広まることになる」
「そう、だな。俺がおかしいということにしてしまえば、俺が何を言ったところで真面目に取りあげる必要はないものな。……警備兵に何を訴えても、ろくに動かなかったわけがわかったよ。頭がそれを許しているんだ、手が動くはずはないものな。てっきりローンバートがあれこれ言いふらしているんだと思っていたが、裏にいたのはミラダンのほうだったか」
笑い声とともにロストが自嘲気味に発した言葉は、ひどくしわがれていた。
「コズローさん」
呼びかけ、キロンがフードをおろす。
肩すれすれで切りそろえられた、細いさらさらとした金の髪。真剣な光をたたえた、淡い空色の瞳。凛とした、中性的な面立ち。
まっすぐに視線をむけられ、ロストが二、三度目をしばたたく。
「宮廷魔導師のキロン・フォン・ドールとして、ここにお約束いたします。必ず、あなたをお帰しします。召喚されたそのとき、その場所へ」
ロストは黙ってキロンを注視していた。その緑がかった黒い目に、キロンの姿が映っている。
「あなたにとっては、私も信じがたい人間だと思います。ですから、信じてほしい、とは申しません。ですが、ここでお約束します」
「……そうですね。率直に言って自分自身、あなたに限らず、魔術を扱う人間に対しての不信感は、今でも拭えません。レピシヴァンがそういう――魔を嫌う国だったというだけでなく、自分が何度か悪魔崇拝者にひどい目にあわされましたので」
はじめはためらったものの、すぐに思い切った様子で、ロストは言葉を続けた。
「……しかし、あなた自身への悪感情はありません。ですから、約束が果たされることを祈っておきます」
「それで、結構です」
フードをかぶりなおし、失礼しました、と頭をさげて、キロンは部屋を出ていった。
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