騎士は北へ

 メルカタニトの王都、アゾールの宮殿。
 その一角に建つ、〈外つ国人〉が暮らす離宮の一室で、安楽椅子に深々と身を預け、本を読んでいる女がいる。
 人形と見紛うほどの美貌の女である。
 ゆるやかに波うつ赤い髪は腰のあたりまで届き、白皙はくせきの肌は透き通るばかり。切れ長の漆黒の瞳には強い光が宿り、すっと形よく伸びた鼻梁びりょうの下に、朱唇が固く結ばれている。
 この女の名を、ネミッサ・クレイエ・フォン・ゼーエンヘンカーという。
 黙々と字を追っていたネミッサは、部屋に近付く足音を聞きとがめ、本から目を離し、ふと柳眉をひそめた。
 扉を軽く叩く音。
「ネミッサ卿、私です。入ってもよろしいですか?」
 訪う声に、どうぞ、と応える。
 部屋を訪ねてきたのは、宮廷魔導師のキロンであった。
 キロンは黒にも見える濃い藍色のローブを着て、フードをいつも目深に下ろしている。外に見えるのはその口元ばかりであった。
「今日はまた、ずいぶん早いのですね」
 立ち上がって椅子をすすめ、キロンの分の紅茶をいれる。
 キロンがネミッサを訪ねてくるのは珍しいことではない。
 週に一、二度、キロンはネミッサを訪ね、ネミッサが遍歴の騎士として見聞きしたことごとを聞いていた。
 それでもいつもよりも早い時間に来たことに、内心でネミッサは首をかしげていた。
「今日は別の用なのですよ」
 にっこりと口元に笑みを刻むキロンが男か女か、その声色からは伺い知れない。口元もそうだが、声もどちらともつかないのだ。
 ネミッサも、それを追及したことはなかった。どちらでもよかったからだ。
 キロンがフードを下ろしたまま、椅子に腰掛ける。この魔導師が他人に顔を見られることを特に嫌がることをよく承知しているネミッサは、気にも留めずに座りなおした。
「ジョンはどうしました?」
「市場へ買い物に行きました。もう戻ってくるでしょう」
 ネミッサの言葉が終わるか終わらないうちに、軽い足音が部屋に近付いてきた。
 間もなく扉が叩かれる。
 お入り、とネミッサが声を投げると、濃い栗色の髪の背の高い青年が入ってきた。青緑の目をした快活そうな青年である。
 キロンに手招かれ、青年――ジョン・ドゥはもの問いたげにネミッサを見やった。
 ネミッサが小さくうなずくと、ようやくジョンはネミッサの傍に立つ。
「椅子を持っていらっしゃい。立っていては疲れますよ」
 ジョンが手近な椅子に座ったのを見て、キロンが口を開く。
「来週から二週間ほど、北部のカナーリスの町に滞在することになりまして、よろしければ同行なさいませんか? ちょうどコンサートがあるそうですから、息抜きにもなると思いますし」
「カナーリス……運河の町、でしたか。しかしキロン様がわざわざ行かれるようなことがありましたか?」
「ええ、以前から探していた資料がカナーリスの図書館にあるそうなので、その確認と、それから町にある召喚陣の確認と、今町に住んでいる〈外つ国人〉の様子を見ておきたいのですよ」
「なるほど。そういう話なら同行させていただきましょう。捜し人の手がかりが見つかるかも知れませんし」
「では手配を進めますね」
 まだ仕事が残っているからと、キロンは紅茶を飲んで名残惜しそうに部屋を辞した。
「主……」
 キロンの足音が充分に遠ざかったころあいを見計らって、ジョンがおずおずと口を開く。
「どうした?」
 ジョンはその温和な顔を固く強張らせ、青緑の瞳を鋭く尖らせてネミッサを見ている。
「身体は大丈夫なのですか? もし、マリスかその手下がカナーリスにいて、襲われでもしたら……」
 声の震えを隠そうと、あえてゆっくりと不安を吐きだしたジョンを、ネミッサはしばらくまじまじと眺めていた。
「……そうか、きずになっていたのだな。許せ、疵になっていたとは気付かなかった」
 二人がメルカタニトに現れたとき、ネミッサは重傷を負っており、ほとんど死んでいるような状態だった。身体が十全に動くと言い切れるようになったのも、半年ほど前のことなのである。
 そうなった経緯を誰よりもよく知るジョンが、自分を心配するのはしごく当然だと、ネミッサはようやく思い至った。
 どうにも自分は他人の心の機微に疎い。
「身体のほうはもう十全だ。それに、マリスヴィルはここにはいない。あれは世界を渡れないからな。手下が飛ばされているのは確かだが、カナーリスにいるとは限らない」
 マリスヴィル。己と因縁深いその名を口にしたとき、ネミッサの黒い目に鋭い光がきらめいた。
 つかの間の激情を恥じるように目を伏せ、ネミッサが紅茶を口に含む。
 ほのかに甘い紅茶をゆっくりと飲み、ネミッサは再び口を開いた。
「とはいえ、万一何かあったときには、わかっているな?」
「……キロン様の手を借りてメルへニアに戻り、“叡智の館”の主に協力をあおぎます」
「それでいい。ヴァルトハインには話をしてある。あの男は必ずお前の力になってくれるはずだ。間違っても、一人で敵討ちなど挑むなよ。ワレンは死んだが、その手下はまだ生きているし、グリン=フェンもいる。一人で挑んでも返り討ちに遭うだけだ」
 釘を刺され、ジョンは黙ってうなずいた。
 主人ネミッサがこういう理由はよくわかっている。二人そろって倒れてしまっては、マリスヴィルに対抗する術がなくなってしまう。
(でも、それは……逃げることと同じなんじゃ)
 しかし落ちついて紅茶を飲んでいる主人には、とても言える本音ではなかった。
 そんなジョンを見て何を思ったか、ネミッサは紅茶をいれ、落ちつけ、とさしだした。
「いただきます」
 紅茶とともに言葉も飲みこんで、普段と同じ笑みを作る。
 ネミッサはちらりとジョンを見て、何も言わずに読んでいた本を取り上げた。
「失礼します」
 頁ごしに、扉が閉まるのを見届けて、ネミッサは残っていた紅茶を飲み干した。
 ジョンが不服なのはわかっている。だがもしも自分が倒れたあとで、ジョンまで倒れてしまっては、先がなくなる。
(それに、あまりジョンを巻きこみたくはないしな)
 マリスヴィルとの因縁は自分だけのものだ。ジョンは本来なら、関わらずにいられたはずなのだ。
 そう思いながらなお、ジョンを手元から離せないのは、エゴ、というものだろうか。
 唇を歪める。姿かたちは人に似ながら、本質は人とはまるで違う自分が、人と同様に悩むとは。
 今にも沈まんとする夕陽が、最後の光を投げかけるなか、異国の騎士は彫像のように座ったまま、身じろぎひとつしなかった。


 翌週、宮廷魔導師の一行はカナーリスの町を訪れた。
 馬車が町中に入ったとき、キロンは向かいに座って窓から景色を眺めていたネミッサの面上に、渋い、冷たい微笑みがさっとよぎるのを認めた。
「主……」
 こちらもそれに気付いたジョンが低く問いかけるのへ、ネミッサは短く、いるな、と呟いた。
 え、と、ジョンが青ざめる。
「そう驚くことでもないだろう。さあ、そろそろ着くぞ」
 言ううちに、馬車は町長オリカ・グローゼンの屋敷に止まった。町への滞在中は、オリカの屋敷に滞在することになっているのである。
「よくおこしくださいました」
 一行を出迎えたオリカが深々と頭を下げる。
 オリカは初老の、ごま塩の髪をきっちりとわけた、堂々たる風采の男である。
 オリカの隣には、橙色の髪を短く刈った青年が立っている。
 目付きが鋭く、鼻が高く、自信に満ちた笑みを口元に浮かべている。整った顔立ちの、女好きのする顔立ちの男だが、どこか油断のならない雰囲気があった。
 青年は町のレンジャー隊員で、〈外つ国人〉のローンバート・ソーンだと、オリカが紹介する。キロンがネミッサとジョンを紹介すると、オリカが目を見張り、ローンバートも一瞬、ぴくりと口の端を動かした。
「ほう、異国の騎士殿、それも女性とは。とてもそのような方には見えませんが、機会があればぜひ一度、手合わせ願いたいものですね」
 口調は丁寧ながら、どこか皮肉を含んだ彼の言葉に、ネミッサは鷹揚おうようにうなずいてみせた。
 女だからとあれこれ言われるのはよくあることだ。そんなものか、とさえ思わない。
 その後、使用人に案内され、別館の一室に落ちついたネミッサは、椅子に身を預けて考えこんだ。
 仇敵マリスヴィルの手下は、確かにこの町に潜んでいる。問題は、どこに潜んでいるか、ネミッサに知る術がないことだ。
 マリスヴィルが相手なら、同じ町にいれば、およそどこにいるのか直感的に知ることもできるが、あいにくとこの感覚は、彼女の手下相手ではさほど鋭くない。いることはわかるが、それだけだ。
 自分がここにいることを、向こうは知っているだろうか。今は知らなくとも、早晩耳に入るだろう。そして耳に入れば、必ず何か仕掛けてくる。その確信があった。
(今はそれを待つよりない、か)
 待つことには慣れている。それにただ待つつもりはない。機会さえあれば、そして向こうに隙さえあれば、うって出るつもりだった。
(まず、どこに潜んでいるのか。それと状況から確かめる必要があるな)
 当分は、情報を集めることが第一だろう。
 街に出てみようかと部屋を出ると、ちょうど部屋を訪れようとしていたらしいジョンとかちあった。
「どうした?」
「町に出てみようと思いましたので、それを伝えに」
「ああ、ちょうどいい。私もそのあたりを歩いてくるつもりだ」
「おや、どこかへおでかけですか?」
 声が飛んでくる。ローンバート・ソーンがやってくるところだった。
「町を歩いてみようと思ってな。それとも私に何か用か?」
「ええ、よければ腕を見せていただきたいと思いまして。いかがでしょう?」
「いいだろう」
 ローンバートの案内で、町の警備兵の詰所へ向かう。
 第一警備部隊の隊長、ミラダン・バーセルが、ネミッサを見てはっとしたように顔をひきつらせた。
「何か御用ですか?」
「やあ、ミラダン。ちょっと訓練場を貸してくれ、腕試しだ」
「おや、バート、君か。腕試し?」
「そうとも。王都からのお客人のね」
 ミラダンの横をとおる一瞬、彼の目がじろりとネミッサを一瞥した。
 訓練場で、ローンバートとネミッサが向かいあう。
 ネミッサは訓練用の長剣を手にし、ローンバートは無手。
 黙って睨み合う二人の間で、空気が張り詰めていく。
 ジョンや周囲の警備兵は、固唾を呑んで二人を見守っている。
 ネミッサは剣を構えず、一見すると隙だらけに見える。ローンバートはじりじりと近付きながらも、彼女の間合いへ入ろうとはしない。ネミッサもまた、ローンバートを目で追うだけで動かない。
 ふ、と短く息を吐き、ローンバートが地を蹴ってネミッサに肉薄する。同時に唱えた呪文が、彼の手の中に二本の短剣を生みだした。
 ひと息で距離を詰め、刃先がネミッサの胴に刺さるかと思われた瞬間、ネミッサがぱっと飛び退りながら身をひねった。
 姿勢を立て直し、ローンバートがネミッサにうちかかる。
 それを次々といなし、ネミッサは守勢から攻勢に転じた。それまでと違う、鋭い風切り音を立てて剣がふるわれる。
 ローンバートの表情から、余裕が抜け落ちた。空色の瞳に、怒気が宿る。
「吹き飛べ!」
 ローンバートが魔法を放つ。
 転瞬、ネミッサが天高く飛び上がった。ローンバートの頭上を踊り越え、着地すると同時に身を翻し、ローンバートの間合いに飛びこむ。
 周りで見ていた警備兵の間から、ざわめきが起こる。明らかに、人ができる動きではなかった。
 ネミッサの長剣と、ローンバートの短剣がぶつかり、高い音を響かせる。
 ぱっと飛び退いたローンバートが、再び短く呪文を唱える。
「マジック・ミサイル!」
 魔力で形作られた光の矢弾が四つ、ネミッサに放たれる。
 一閃。
 ネミッサが気合声さえ上げずに剣をふるった途端に、魔弾が崩れるように消えていく。
(こちらで使ったことはなかったが、この様子なら充分使えるな)
 自分が切りたいものを、それが何であれ切る異能。自分のいた世界でないここで使えるか、不安はあったが、魔力で編まれた弾丸はあっさりと切り捨てられた。
 思いつつ、ネミッサがローンバートに肉薄する。
 虚を突かれたローンバートは、慌てて短剣を構えようとしたが、左手の一本がネミッサの剣に弾き飛ばされる。
 反射的に得物を追った彼の首筋へ、長剣の先が突きつけられた。
「勝負、あったな」
 ローンバートが顔を歪めかけ、無理矢理に笑みに変える。
「さすがは鴉の騎士殿、ですね」
「ほう? その名が聞こえていたのか」
 鴉の騎士。ミラダンの口から故郷メルへニアで自分を示す呼称を聞き、ネミッサの瞳がきらりと光る。
「ええ。前に人から聞いたんですよ」
 ジョンを連れて立ち去るネミッサを、ローンバートはじっと睨みつけていた。
「気を付けろよ、バート。あの騎士、相当の手練れだぞ。それに魔法で隙を作れるような相手じゃない」
「わかっている」
 殺気立つローンバートと、こちらも険しい顔のミラダンの間で交わされた会話には、誰も気付かなかった。
 詰所を出た二人は、ネミッサは街の南側を見てくると言い、ジョンは北側を見に行くことにして主人と別れた。
 街の北側には広場がある。そこでは数人の子供たちが賑やかに遊んでいた。
「あ、ロスト! ねえ、あれ撃てる?」
 広場の片隅で射的をして遊んでいた少年たちの一人が、そこにとおりかかった男を呼び止めた。
 長い黒髪に黒外套の、背の高い男である。
 男は差し出された玩具の銃と的を見て、撃てるぞ、とうなずいた。
 やって、とせがむ子供たちに苦笑しつつ、男は玩具の銃を手に取り、狙いを定める。
 引鉄が引かれ、乾いた音が響く。紙筒でできた的が宙を舞った。
 わあ、と子供たちが歓声を上げる。
 残る三つの的にも、男が弾を命中させるのを見て、ジョンは動悸をおさえるように胸に手をあてた。
 主人ネミッサの仇敵・マリスヴィル。その腹心の一人、ワレンの部下に、射撃に長けた男がいたことを、ジョンは覚えていた。
 そっと腰の短剣に手を伸ばす。口の中がひどく乾いていた。
 少年に銃を返した男が、頭をめぐらせてジョンを見る。眉根が寄ったのが見えた。
「あんた、大丈夫か? 真っ青だぞ?」
「はい、たいしたことはありません。……あの、以前にどこかでお会いしたことがありましたか?」
「いや……ない、と思うが」
「……そうでしたか。失礼しました」
 医者を呼ぼうか、と男が訊ねるのへ、大丈夫だと首をふる。
「少し疲れただけなので。しばらく休めば大丈夫です」
「そうか。ならいいが」
 立ち去る男の後ろ姿が見えなくなると、ジョンは大きく息を吐いて、額の冷や汗を拭った。
(まさか、とは思うけど)
 ワレンの部下で射撃を得意とする男・ヴィエトルの顔をジョンは知らない。あの男が本人かどうか判断するには、ネミッサに頼むより他はない。
 その夜、夕食の席でジョンがその男のことを訊ねると、オリカはわずかに表情を固くし、ローンバートはあからさまに渋面を作った。
「そいつに関わらないほうがいいですよ。おかしい男ですから」
「危険なのですか?」
「いえ、キロン様」
 オリカが慌てて言葉を引き取る。
「その男は近くの森に住んでおりまして、日ごろは危険なことはないのですが、少し心を病んでいるようでして、とんでもない妄想を口走ることがあります。もしその男に会われても、その言葉はどうか信用なさいませんようにお願いいたします」
 食事の後、ネミッサは自室にジョンを呼び、その男の話を聞き出した。
 ネミッサの表情は話を聞いても変わらない。無表情である。
 男の話を聞いて、訝しんでいるのかどうか、仮面のようなその顔からはうかがうことができない。
「どう思う?」
「……わかりません。主はどう思われますか?」
「さて、な。その話だけでは判断のしようがない。ヴィエトルは確かに射撃の腕は相当なものだが、なにも奴だけの特徴ではないだろう。一度でも顔を見ておけばよかったんだが……。まあいい。むしろ、ここに来てからすっと王宮にいた上に、その呼び名を出したこともない私が、なぜ『鴉の騎士』として知られているのかのほうが気にはなるな」
「あ、確かに……。人に聞いた、と言っていましたが……」
「誰が言ったのだろうな。それはそれとして、お前が見たその男、一度私も会ってみるか。森に住んでいると言っていたな」
「はい。調べておきます」
「頼む。二週間もあれば、一度くらいは会う機会があるだろう。ただ、町長らには気取られないようにな」
「はい」
 一礼して、ジョンが部屋を出ていく。
 ネミッサが件の男に会う機会は、さほど間を置かずに訪れた。

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