人形-ヒトガタ

 下駄箱を開けて、杏奈はため息をついた。昨日はちゃんと入れたはずの、上履きがなくなっている。
 周りにいる生徒は、きょろきょろと辺りを見回す杏奈を見て、互いにくすくすと笑いあっている。
 五分ほど探して、ようやく上履きが見つかった。ごみ箱の中に突っ込まれていたそれらを取り出し、中の画鋲を出して履いた。
 教室に入ると、机に色とりどりのカラーペンで落書きがされていた。
「あ~、机に落書きしてる。ちゃんと消しなよ」
 にやにやしながら、一人の女生徒が杏奈に近づいてきた。
 堺優香。杏奈をいじめ始めた張本人である。
 杏奈が嫌々ながら雑巾を取りに行き、机を拭いていると、優香はいきなり、持っていたごみ箱の中身を床にぶちまけた。
「杏奈ちゃん、掃除好きなんでしょ。これも、お願いね」
「え?」

「ほら、早く掃除しないと、先生来ちゃうよ?」
 優香は馬鹿にするように笑い、杏奈は黙って、そのごみを片付けた。優香に逆らっても、無駄な事は分かっていたから。
 昼休み。学食で昼食を食べた杏奈が戻ってくると、教室の様子がおかしい。
 教室にいる者全員が、杏奈を見て何かを期待するような目を向けている。杏奈はそれらをあえて無視して席についた。
 その瞬間、おかしな事に気づいた。ちゃんと閉めていたはずの鞄の口が開いている。嫌な予感がしつつも、中を覗いて見た。
  中は思ったよりひどい事になっていた。教科書やノートは引きちぎられ、この間他界した祖母が買ってくれた筆箱と、電子辞書が見当たらない。
 教室を見回して、隅にバケツが置かれている事に気づいた杏奈は、すぐに近寄り、ショックを受けた。
 水が入ったバケツの中には、杏奈の電子辞書と、真っ二つにされたペン、そして、切り裂かれた筆箱の残骸が入れられていた。
 次の日から、杏奈は学校に行かなくなった。一日中部屋にこもり、両親がいくら怒ろうと、出ようとはしなかった。
 なぜ自分だけが、こんな目に合わねばならないのだ。いじめの発端となった出来事や理由が何なのかすら、杏奈には分からない。
 もっとも、いじめに筋の通った理由などないのだが。

 休日、杏奈は久しぶりに外に出た。目的も無く、ただうろうろと歩く。
 ある路地を曲がった時、杏奈はその店を見つけた。
『呪屋』
 店の前に無造作に置かれた長椅子に立て掛けられている、一・五メートルほどの長さの看板には、墨黒々とそう書かれていた。
「のろいや?」
 答えは、店の中から返ってきた。
「まじないや、と読むので御座います」
 驚いた杏奈は、目の前の引き戸をまじまじと見つめた。
 しばらく悩んでから、思い切って引き開ける。中に一歩入ると、さっきの声と同じ声が迎えた。
「いらっしゃいませ、御客様」
 その声の主を見て、杏奈は再び驚いた。おそらくは十二歳位の少女だったからだ。
「偉いね。お店番?」
 おかっぱ頭の少女はおかしそうにくすくす笑うと、杏奈の前に立った。
「私は、ここの店主で、彩雅(さいが)と申します」
 朱の地に黄色の菊がいくつも描かれた振袖を着て、赤い鼻緒の草履を履いた少女は、そう言って一礼した。杏奈も慌てて礼を返した。
 不意に、少女が笑みを浮かべた。子供の浮かべる、無邪気な物ではなく、どこか凄みのある笑み。その笑みに、杏奈は背筋がぞくりとするのを覚えた。
「ここは、何を売るお店なんですか?」
「はい。ここは古今東西の呪(まじな)い道具を扱う店で御座います。しかし、この店にいらっしゃった全ての方に商品を御売りする訳では御座いません」
「どういう事ですか?」
 いつしか杏奈は、少女に敬語を使っていた。この少女には、それだけの必要があると、ほとんど本能的に悟ったからだ。
「この店の商品は、その商品を持つべき方にのみ、御売り致しております。持つべきでない方、持つ必要のない方には、いくらお金を積まれても、決して御売りは致しません」
 少女は言って、更に続けた。
「では、ごゆっくり御覧になって下さい、御客様」
 杏奈はゆっくりと店の中を見て回った。本などで見た事のある物や、知らない物がいろいろと並んでいた。
 やがて杏奈は、一つの商品に引き付けられた。それは、五センチ程度の人型をした人形だった。
 白い布で作られたそれは、目、鼻、口が刺繍してあるだけの、人形と言えるかどうかも微妙な物だったが、なぜかひどく気になった。
 他の商品も見て回ったが、その人形以外には、気になる物は見つからなかった。
「これ、何ですか?」
「人形(ヒトガタ)で御座います」
「ひとがた?」
「はい。かつて丑の刻参りで使われていた藁人形が、形を変えたもので御座います」
 丑の刻参りなら、杏奈も聞いたことがあった。誰かを呪い殺すために藁人形を神木に打ち付けるあれだ。
「ひょっとして、これで嫌な人を呪えるんですか?」
 少女はただ意味ありげに笑うだけで答えなかった。
 杏奈はどうしてもこの人形が欲しくなった。
「これ、売っていただけませんか?」
 少女は、大きな黒目勝ちの瞳で、杏奈と人形を見比べた。
 しばらくそうやって見比べた後で、少女は大きく頷いた。
「分かりました。御売りしましょう」
 杏奈はほっとした。もし売れないと言われたら、人形を持って逃げようとまで思っていたからだ。
「いくらですか?」
「三千円になります」
 杏奈はその値段に驚いた。
「え? 高くありませんか?」
「いいえ。正しい値段で御座います」
 杏奈は悩んだ。しかし、高いからと言って、諦めるという選択肢は、今の彼女の中にはなかった。
 三千円というお金は、杏奈にとって大金だったが、今は人形を欲しい気持ちの方が勝っていた。
「御客様、『人を呪わば穴二つ』。この言葉を、どうか御忘れなきよう」
 どこか不吉な店主の言葉に送られて、杏奈は店を出た。
 家に帰ると、杏奈は買った人形が入れられた桐の箱を取り出した。中には人形と、一枚の紙が一緒に入っている。紙はどうやら、説明書のようだった。
『人形の中に、憎い相手の名前を書いた紙を入れれば、その人形に起こった事が全て、相手にも起こります。ただし、呪えるのは一人だけ。』
 最後に大きく『人を呪わば穴二つ、この言葉をどうか御忘れなきよう』と書かれていた。
 杏奈はしばらく悩んだ。もし出来るのなら、クラスの人間全員の名前を書いていれたい。しかし、呪えるのは一人だけ。
 どうしようかとしばらく悩み、結局、杏奈は『堺優香』と書いて人形の中に入れた。
 しかし、本当にこれに効果があるのかどうかは分からない。明日、学校で試してみようと杏奈は制服のポケットに人形を入れた。

 久しぶりに学校に行くと、机の上に花をいけた花瓶が置いてあった。
「杏奈ちゃん、宿題のレポート、貸してくれない?」
 花瓶をもとあった場所に戻してから、杏奈は何も言わず、優香にレポートを渡した。
 優香が席に戻ったのを見届けると、杏奈はそっとポケットから人形を取り出した。
 そして、同じ事が起きるならと、シャーペンで右腕を突いてみた。
「痛っ」
 突くと同時に優香が声を上げた。右腕を押さえている。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
  杏奈は心の中で笑った。今まで散々自分をいじめてきた相手に、ようやく一矢報いる事が出来る。
 杏奈はそれから、優香に何かされるたびに、人形を濡らしたり、浅く切ったり、叩きつけたりした。
 そのたびに優香は、びしょ濡れになったり、怪我をしたり、どこかにぶつかったりした。
 初めは、そうした『ささやかな復讐』を楽しんでいた杏奈だったが、次第に人形を気味悪く思うようになっていった。
 この人形は、どれほど杏奈が濡らしたり、切ったりしようと、気がついた時には、買った時と同じ無傷の状態に戻っているのだ。
 それに、分かっていた事だが、この人形にしたことは、すぐではなくても、確実に優香に起きる。
 その事が今の杏奈には、気味の悪い現象に映った。
 『呪屋』を探して返品しようとしたが、どうしてもあの店が見つからなかった。

 人形を買ってから、十日が過ぎた。
 杏奈はもう人形を使わなくなっていた。というより、もう彼女は、人形の気味の悪さに耐えられなくなっていた。
 杏奈は、袋に石と人形を入れると、学校の近くの川に投げ捨てた。
 ここ数日の雨で水かさを増した川は、あっという間に人形を飲み込んだ。

 それから一週間後、堺優香が、死んだ。

 杏奈が捨てた人形と同じように、石の入った袋に入れられ、川に沈められていた。
 この知らせを聞いて、杏奈はぞっとした。
 あんな事をすべきではなかったのだ。捨てる事に気を取られ、人形の効果を忘れていた。
 優香が死んでから、杏奈へのいじめはぱったりと止んだが、杏奈は毎日、罪悪感にさいなまれた。
 二日後。杏奈はまた、『呪屋』を探していた。
 自分の住んでいる地域の路地という路地を歩いたが、一向に見つからない。
「どこにあるのよ……あっ」
 急な突風に、かぶっていた帽子を飛ばされ、杏奈は慌てて後を追いかけた。
 どうにか帽子を捕まえた杏奈は、近くに路地があるのに気がついた。
 駄目元で入ってみると決め、路地に入った杏奈は、突き当たりに店があるのを見つけた。
 店の前の長椅子に立て掛けられた看板には、『呪屋』と書かれている。
 引き戸を開けると、この間と同じ少女の声がした。
「いらっしゃいませ、御客様」
「この間、人形を買った者ですが、返品は出来ますか?」
 少女は申し訳なさそうに答えた。
「申し訳御座いません。一度御買い上げ頂いた商品の返品は出来かねます」
 それに、と少女は続けた。
「返品なさっても、一度起きた事を無かった事には出来ませんよ」
 杏奈はゆっくりと踵を返して店を出た。

 いつしか杏奈は、交通量の多い道路に来ていた。
 家に帰るには、この道路を渡った方が近い。
 きょろきょろと回りを見て、杏奈は渡り始めた。
 「危ない!」
 叫び声を聞いた時には既に遅かった。一台のトラックが、杏奈に向かって突っ込んで来た。
 最後の瞬間、杏奈ははっきりと少女の声を聞いた。
「人を呪わば穴二つ、この言葉を、どうか御忘れなきよう」