写真-シャシン
どこにでもいる普通の会社員、大垣 駿(おおがき しゅん)の趣味は、写真撮影である。さして珍しい趣味という訳ではない。
週末になると、愛用のカメラを片手に隣の市に向かう。時には海や山、別の県に向かう事もあった。
写真撮影の趣味は幼い頃から持っていたが、本格的に撮影に身を入れ始めたのは、彼が高校生の時だ。
彼の出身地ではトップの進学校――当然、非常に難しい学校だ――に合格した祝いにと、祖父が当時は高価で珍しかった、ポラロイド・カメラを買ってくれたのだ。
それから、インスタントカメラも、フィルムを入れ替えるタイプのカメラも、最新型のデジタルカメラも買ったが、一番よく使っているのは、例のポラロイド・カメラだった。
日曜日、駿はいつものようにカメラを片手に山を歩いていた。持っているのは、例のポラロイド・カメラだ。
風景を撮ったり、道端の花を撮ったりしながら、のんびりと登っていく。
一昨日降った雨のせいで、道はまだ少しぬかるんでいる。
駿は万が一にも転んだりしないように、慎重に登っていった。
頂上に着くと、駿は、大きく一つ伸びをして、カメラを構えた。
カシャ、カシャ、と写真を撮っては、出来た写真をポケットサイズのアルバムに入れる。
夕方になり、太陽が沈む瞬間を何枚か撮ったところで、アルバムがいっぱいになった。
足元に気をつけつつ、山を下りる。歩きながら、カメラをケースにしまおうとして、首から外した。自然に注意も、足元から手元にそれる。
しまった、と思った時には遅く、ぬかるみの残る地面に足をとられ、駿は見事に転んでいた。
カメラが手から離れ、地面にたたき付けられる。見なくとも、壊れている事は分かった。
自分の愚かさを呪いながら、駿はカメラを拾い上げた。ケースにそっとしまいこみ、山を下りる。家に帰った時には、いくつかの星が空に輝いていた。
駿にとって、カメラが壊れたショックは大きかった。大切な物だったから、なおさらだ。
修理をしようにも、彼が高校生の時ならばともかく、カメラと言えばデジカメが当たり前の、今の時代では不可能だ。新しい物を買う事も同じく。
月の最後の週末、駿は朝からあちこちのカメラ店やリサイクルショップを回っていた。
壊れたカメラを直せないか、せめて中古でもいいから買えないかと思っていたからだ。
しかしどの店も、直せない、置いていない、と言うばかりだった。
ため息をつきながら歩いていた駿は、自分が細い路地を歩いている事に、しばらく気付かなかった。
ようやくその事に気付いて、彼は舌打ちをした。ふと、突き当たりに一軒の店があるのが見えた。
どうせ駄目だろうと思いながらも、早足で近付く。
引き戸の前に置かれた椅子には、墨黒々と『呪屋』と書かれた看板が置かれている。
引き寄せられるように、駿は扉を開け、中に入った。
「いらっしゃいませ、御客様」
おかっぱ頭の少女が、駿に向かってペこりと頭を下げた。
菊らしき花を散りばめた振り袖に、赤い鼻緒の草履をはいた、可愛らしい少女だ。
駿もお辞儀を返し、店の中を見回した。
白い壁にそって置かれた棚には、巻物やら箱やら、白い布に目鼻と口を刺繍しただけの人形やらが並べられていた。
また、駿の目の前にも机が置いてあり、そこにも商品らしき物がいろいろ置かれていた。
その中の一つを見て、駿は思わず叫び声を上げそうになり、慌てて抑えた。
そこには、彼が壊してしまった物と全く同じポラロイド・カメラが置かれていた。
「ええと、店長さんはいる?」
少女はちょっと顔をしかめた。
「店主は、私で御座いますが」
「はいはい。分かったから、本物の店長を呼んで来てくれるかな。君に付き合っていられるほど、暇じゃないんだから」
少女はあからさまにむっとした顔をした。
「冷やかしでいらっしゃったのでしたら、どうぞお引き取り下さい。私も、貴方のような方の相手をしていられるほど、暇ではありませんので」
駿は怒鳴ってやろうかと思ったが、ぐっと抑えた。自分は買い物に来たのであって、喧嘩に来た訳ではない、と何度も繰り返し、気を静める。
「じゃあ、店主さん。あのカメラ、幾ら?」
少女は、『じゃあ』と言われたのが気にくわなかったのか、それとも駿の言い方が気にくわないのか、じろりと睨むと、無愛想に、
「一つ、約束を守って頂ければ、五万円で御売りいたします」
と言った。
「何を守ればいいんだい?」
「絶対に、人を撮影しないこと。それが偶然であれ何であれ、何があっても、人を撮影しないで下さい」
「分かった。約束するよ」
そう言って駿は、五万円を払い、店を出た。
店を出た時、携帯にメールが届いた。付き合っている、相沢 美里(あいざわ みさと)からだった。
いつもなら、かなりの長文メールを送ってくる美里にしては珍しく、文面は、
『明日、いつもの所で会える?』
という、簡潔なものだった。
すぐに、会える、と返信すると、一体何だろうかと思いながら駿は、家路についた。
翌日、買ったばかりのポラロイド・カメラを持って、駿は、いつも美里と待ち合わせをする、公園へ向かった。
美里はもう来ていて、夏らしい半袖のブラウスにロングスカート、白いサンダルという姿で、時々腕時計を見ながら立っていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、大丈夫。……ねえ、」
「今日は、どこに行く?」 美里の言葉を遮って、駿は言った。
「前から行こうって言ってた、木福寺に行こうか。天気もいいし、ちょうど今なら、いい写真が撮れるから」
そう言うと、駿は強引に美里の手を引いて、一番近くのバス停まで走った。
木福寺に着くと、駿は何枚も美里の写真を撮った。
駿はあの店主との約束を完全に忘れていた。そもそも覚えていたところで駿には、守る気など、これっぽっちもなかったが。
日が暮れる頃になってようやく、二人は公園に戻ってきた。
「楽しかったね」
「…………」
「どうかしたのか?」
「ねえ、駿。……別れましょう、私達」
「え?」
駿には、美里の言った事が理解出来なかった。
「何でだよ。楽しかったんじゃないのか? 俺といると楽しいって言ったじゃないか」
駿が戸惑いながら言うと、美里はきつい口調で返した。
「ええ、楽しかったわ。最初の内はね。でもあなたはいつも、自分の事しか考えてない。もっと会いたくても、たいてい写真撮影をするからって、会ってくれない。デートの時も、いつも場所を決めるのはあなた。私が行きたい所になんか、一度も連れて行ってくれないじゃない」
「じゃあ、次の時には美里が決めていいよ。だから、この話は、なかった事にしよう」
美里の言葉はどんどん荒くなっていった。
「次っていつ? 来週? 来月? 来年? 適当な事ばかり言わないで! だいたい、私と写真と、どっちが大事なの?」
駿は言葉に詰まった。美里はそんな彼に背を向け、去って言った。
駿は打ちひしがれて家に帰った。彼は美里を愛していた。彼女との将来を考えてもいた。
駿はアルバムを取り出すと、美里が写っている写真を、一枚ずつはがし、全てはがすと、細かく引き裂いていった。
初めて撮った物も、今日撮った物も、全て。
次の日から、駿には、世界の全てが憎らしい物に写った。
ある日、コンビニに入った駿は、突然とある衝動に取り付かれた。
彼は、その衝動のままに、辺りを見回し、店員が気付いていない事を確かめると、持っていたガムをこっそりポケットに入れ、そのまま何食わぬ顔で外に出た。
家に帰ると、コンビニでは、チクリともしなかった良心が頭をもたげてきた。
駿は、良心をどうにかして押さえ付けようと、それから何度も繰り返し、万引きをするようになった。
自分は悪くない。買い物もしている、などと身勝手な理由で自分の行為を正当化しながら。
とうとう、駿は、会社の同僚の荷物にも、手をつけるようになった。
月末の給料日。久しぶりにカメラの点検をしようと、ポラロイド・カメラを出すと、カシャ、カシャ、カシャと数回シャッターが切られ、何枚かの写真が出て来た。
何気なくそれを見た駿の顔から血の気が引いた。
それらの写真には、駿が万引きをしている瞬間や、同僚のかばんをあさっている瞬間が、はっきりと写っていた。
駿はカメラを床に投げつけた。いくつか部品が取れ、駄目になったであろうそれから、更に数枚、同じような写真が出てきた。
数カ月が経った。駿は会社を辞め、一日のほとんどを部屋にこもって暮らしていた。
あれからも、写真は出て来る。駿が外出して、戻ってくる度に、写真は増えていく。
カシャ、カシャ。
今日もシャッターの音が、閉め切られた室内に響いている。
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