風簫-フウショウ

 昼過ぎの商店街。石村京子は、藤色の留め袖にヒスイのかんざしをつけた姿で商店街を歩いていた。
 空は今にも雨が降りそうに曇っているが、京子の心は、空よりも曇っていた。
 京子の夫、良和(よしかず)は、とある外資系企業に勤めている。今年銀婚式を迎える二人は、傍目にはおしどり夫婦に見えるが、実際は、数年前から夫婦仲は冷えきっていた。
 まだ子供達が手元にいる時は良かったが、三年前に末の娘が結婚してから、急速に二人の会話は無くなっていった。
 また、良和は出張する事も多く、その事が余計に二人のすれ違いを加速させていた。
(もう、終わりかしらね)  最近では、良和との離婚も考えるようになっていた。外に出る度に、このまま市役所へ離婚届を取りに行きたいという衝動にかられる。そして、日一日とその衝動を抑えるのが難しくなってきていた。
 京子が、今日こそは本当に市役所へ行こうと思った時、どこからか、にゃあ、と鳴き声が聞こえた。思わずきょろきょろと辺りを見回すと、すぐ近くの路地の入り口に、真っ黒い猫が座っていた。
 猫は、赤い首輪に小さな金の鈴を付けられており、飼い猫のようだ。
 再び猫が京子を見上げ、にゃあ、と鳴いた。そのまま路地に入りかけ、京子から三歩ほど離れた所で立ち止まり、振り返って鳴いた。
「ついて行けばいいの?」
 猫は再び鳴いた。まるで京子に答えるように。
 猫について行くと、瓦屋根の建物が見えてきた。
 建物の前に置かれた白木の長椅子の上に、『呪屋』と書かれた看板が置かれていた。
「のろいや……?」
 足元で、猫が何かを催促するようににゃおにゃおと鳴く。
 中に入りたいのかと、引き戸に手をかけようとした時、引き戸が内側から開けられた。
 開けたのは、十二、三歳位のおかっぱ頭の少女だった。朱色の地に黄色い菊をあしらった振袖を着て、紅い鼻緒の草履をはいている。
 にゃあ、と猫が少女に向かって鳴きながら体をすりつけようとした。
 少女は、ひょいと黒猫を抱き上げて、京子に頭を下げた。
「いらっしゃいませ、御客様。私は、呪屋(まじないや)店主、 彩雅(さいが)と申します」
 京子は、入る気は無かったものの、その言葉に誘われるように、店の中へ入った。
 店の中は、両側の棚にきっちりと商品が並べられていた。
 少女はカウンターの後ろに座って、京子を見たり、猫をかまったりしている。
「何を売っているんですか?」
「はい。様々な呪い(まじない)道具を扱っております」
 呪い道具と聞いて、京子の頭に浮かんだのは、丑の刻参りに使われるような、藁人形や五寸釘だった。
 その思いを見抜いたように、少女がくすりと笑った。
「一口に呪い道具と申しましても、呪具だけではございません。弊串(へいぐし)や天児(あまがつ)、懸守(かけまもり)といった守るための道具も取り扱っております」
 説明を聞きながら、棚に並ぶ商品に目を走らせる。と、一つの商品に、目が留まった。
 両手で持てる程の桐の箱。蓋を開けると、何も入っていない。ただ、だいたい四分の一の所が仕切られ、蓋がついている。蓋の左上には穴が開いており、そこから小さな棒が一センチほど飛び出していた。
「これ、何ですか?」
「それは、風簫(ふうしょう)で御座います」
「ふうしょう?」
 聞き慣れない言葉に、京子は首を傾げた。
 箱をよく見ると、側面に小さな穴が開いている。
 カウンターをなにやらごそごそとあさっていた少女が、小さな紙袋を取り出した。
 紙袋の中からは、金属製のネジが出てきた。
「どうぞ、巻いてみて下さい」
 言われるがままに京子は、ネジを取って巻いてみた。
 少女が箱の蓋を開けると、中から、メロディーが流れ出した。京子が学生の頃に流行った曲だ。
「これ、いくらですか?」
 少女は黒目がちの瞳で京子をじっと見た。
「一万円になります」
 京子はしばらく悩んでいたが、欲しい気持ちの方が強く、 少女に一万円を渡した。
「御買い上げ、ありがとうございます」
 少女は丁寧に紙で箱を包み、 紙袋に入れた。
 京子が店を出ようと戸を開けると、大粒の雨が勢いよく降っていた。
「これ、お使いになって下さい」
 横を見ると、少女が朱い蛇の目傘を差し出していた。
「ありがとうございます」
 京子は、傘を差し、紙袋を片手に歩き出した。
 後ろを振り返ると、少女が深々と頭を下げていた。京子も慌てて会釈を返した。
 京子が家に帰るとすぐに良和が帰って来た。
「どうしたんだ、この傘」
「借りたのよ」
「借りたぁ?」
 良和は明らかに信じていなかった。
「お前まさか、浮気してるんじゃないだろうな」
「馬鹿な事言わないで」
 苛立った口調で京子は言った。
 夕飯を食べている間も、二人の間に会話は無かった。
 良和が風呂に入っている間に、京子は風簫を取り出してじっくりと見た。
 蓋には菊の花が象眼で表され、側面にも、菊の花が描かれている。
 曲を聴こうと京子がネジを巻くと、店で聴いたのとは違う曲が流れ始めた。
「お? 懐かしいな。覚えてるか? この曲」
 風呂から上がって来た良和が缶ビール片手に言った。京子は頷いた。初めて二人で映画を見に行った時に上映していた映画の主題歌だ。
「見る前までは文句言ってたのに、見たら気に入って、毎週見に行ったなあ」
「それから二人で映画館の隣の喫茶店に行ったわね。あなたったら、飲めもしないのにブラックコーヒーなんて頼んで」
 二人の顔には笑みが浮かんでいた。

 数日後、良和が珍しく会社を休んだ。
「京子、出かけよう」
 やや強引に連れて来られたのは、駅前にある映画館だった。
 二人は映画を見た後、近くの喫茶店に向かった。京子は紅茶、良和はブラックコーヒーを頼んだ。
「これ、受け取ってくれないか」
 照れ屋そうに良和は、手の平に乗るくらいの箱を差し出した。
 中に入っていたのは、小さな銀の指輪だった。
「まあ!」
 指輪は京子の指にぴったりとはまった。
「ありがとう、あなた」
 良和は心底嬉しそうだった。

 駅前の映画館。そこから杖をついた老爺と、着物を着た品のある老婆が手に手を取って出て来た。
 二人はそのまま、近くの喫茶店に入り、男性はブラックコーヒーを、女性は紅茶を頼んだ。
「あなたったら、飲めるんですか?」
「たまには良いじゃないか」
 老婆が笑いを含んだ声で言うと、老爺も同じ調子で返した。
「今日で、金婚式か。早いものだ」
「本当に。これからも、お願いしますね」
「こちらこそ」
 夕日が差し込む窓際の席で、京子と良和の二人は和やかに語り合っていた。