一、尾上右京、鬼人の女を見ること

 冬の日の入りは早い。
 十七刻(午後五時)にもなれば、あたりには薄闇がおりかかり、商家の軒行燈には火が入れられ、道に火あかりを投げかけている。
 雪こそまだ降らないが、珂国かのくにの暦は霜ノ月(十一月)からついノ月(十二月)に移り、寒さも日毎に厳しくなる。このぶんでは初雪も近いであろう。
 珂国・将領の奉行所で同心をつとめる尾上右京は、この日、午後の市中見廻りの途中で、荒谷町の番屋に立ち寄っていた。
 右京は髪を総髪に結い、根の着物に灰色の羽織を身に着け、腰に大小を帯びた浪人ふうの出で立ちをしている。
 通常同心は縞の着物に黒羽織、といった格好が主だが、将領の奉行・長谷部平内はそのあたりにこだわっていない。平内本人にしてからが、市中見廻りに出るときには、着流しに大小を落し差し、笠をかぶった浪人ふうの姿をしているのである。
 番屋に詰めている番人と話して、町に異常がないことを確かめ、表に出る。
 そのとき、右京はすぐ先の薬種問屋〔大村屋〕と、蝋燭問屋〔小川屋〕の間の小路から、女が一人、出てくるところへ行きあった。
 その女は格子縞の着物を着て、腰に脇差をき、背には四尺あまりはあろうかという朱塗りの太刀を負っていた。からす蛇のごとく艶めく緑の黒髪は、結い上げるのではなく無造作に一つにまとめられ、蜻蛉玉のついた朱い髪紐がその根元に結ばれている。
 女の前髪の間からは、一対の小さな角がのぞき、左目には革眼帯をあてている。
 はじめはただ、いっぷう変わった女だと思っただけであったが、夕闇の中で女の顔を見たとき、右京は思わずはっと息を呑んで立ちすくんだ。
(蘇芳?)
 女が何気なく右京を見、二人の目がぴたりと合う。
 後で思いかえせば、それはごく一瞬のことだったのだろうが、このときの右京には、ひどく長い時間に感じられた。
 微笑した女が、右京に目礼して歩いていく。
 やや早足に通りを北へ進む女を、右京はつかのま呆然と見送っていた。
(いや……まさか。ありえぬことだ)
 そう思いながらも、女と同じ方向へ歩いていた右京は、結果として、女の後をつけるともなくつけていくかたちになった。
 右京が思い起こした”蘇芳”とは、奉行・長谷部平内が使っている女密偵である。
 しかし蘇芳が今、外を歩いているはずはない。というのも、蘇芳は半月前、凶盗〔大首の儀兵衛〕の捕物の際、儀兵衛の手下に斬りつけられ、今も奉行所の役宅で傷の養生をしているのである。
 傷は肩から腹への一太刀。かなりの深手で、一時は医者も眉をひそめるほどだったが、幸い容態は峠を越し、平内も、
「このぶんなら、心配はあるまい」
 と、愁眉を開いたのが二日前のことであった。
 右京も当然このことは知っていた。なんなら今日も、奉行所への出勤前に、役宅内にいる蘇芳を見舞っている。それでもなお見紛うほど、女と蘇芳はよく似ていた。
(まるで双生児ふたごのような……)
 内心で呟き、右京は太い眉を寄せた。
 しかし、当人が言うには、彼女は天涯孤独も同然の身だという。
 女賊〔竜灯のおきつ〕の下にいた蘇芳は二年前、お橘や他の手下とともに、平内率いる捕方に捕縛された。
 竜灯一味は珂国の商家を荒らしまわり、くわえて手がかりを残さぬために、忍びこんだ商家の者や奉公人を皆殺しにするのが常だった。中には二歳の子供までもが犠牲になった家もあり、その血も涙もないやり口には、奉行所の誰もが激怒した。
 お橘にたまりかねていたのは、蘇芳も同じであったらしい。諌めても聞く耳を持たないお橘に愛想をつかした蘇芳は、二年前、死を覚悟して奉行所を訪れ、竜灯一味について、知るかぎりのことを白状におよんだ。
 それからも、蘇芳は詮議の場で聞かれたことに正直に答えた。
 そのとき、蘇芳は自らの出自について、かつて将領にあった須久奈の村の出身であること、一年前、奉公していた皇領の生薬屋〔西屋〕から突然暇を出され、自棄になってさまよっていたときにお橘に拾われたのであると申し立てた。
 その後、お橘や他の一味の者が極刑に処されるなか、平内は蘇芳に密偵として働くことを持ちかけた。これをはねつければ、蘇芳も首を切られるわけである。
 蘇芳は二日間考えたすえ、密偵となることを承知した。
 この経緯を知っていてなお、例の女が蘇芳とは何の関係もない赤の他人だと思えなかったのは、女が蘇芳と同じ、鬼と人との混血――鬼人であると気付いたからだ。
 鬼人は額に小さな角を持ち、左右どちらかの目が逆眼――本来白目の部分が黒く、瞳が白い目――となっている。
 逆眼は鬼人の特徴だが、中にはそれを気味悪がる者もいる。それゆえ鬼人は逆眼を隠していることが多く、蘇芳もその一人だった。
 それに、鬼人というのはかなり珍しい。鬼人の蘇芳に瓜二つの女、しかも同じ鬼人となれば、右京が血縁を疑っても不思議はない。
 先を歩く女は、やがて菓子舗〔水瀬みなせ堂〕の前の道を右へ折れた。
(ここまでか)
 奉行所へ戻る右京は、この道を左へ行かねばならない。
 ただ顔が似ていると言うだけで、女は何か法に触れることをしたわけではない。これ以上追うわけにはいかなかった。
 諦めた右京が足を速め、左へ曲がろうとしたとき、
「もし」
 不意に声をかけられる。
 はっとした右京が声のほうを見ると、あの女がそこに立っていた。
「なんぞ、御用でございましたか?」
 右京とそう変わらぬ背丈――女としては長身である――の女は、背筋をまっすぐに伸ばし、小首をかしげて右京を見ている。
 行きあったときにはちらりと見えただけだった小さな角が、今度ははっきりと確かめられた。
 きりりとした童顔のなか、黒目がちの目が、油断なく右京を見つめている。
 それでも、女から殺気は感じられない。
「いや、こちらの人違いのようで……失礼をいたした」
「左様でしたか。いえ、こちらこそ不躾に、失礼をいたしました」
 落ち着いた調子でそう答え、会釈をした女は、踵をかえして問屋町のほうへ歩き去った。
 やはり追いかけて素性を確かめるべきではないかと思い直し、右京がふりかえったときには、女の姿はもう暗がりと人に紛れていた。
(蘇芳に、心当たりがないか訊ねてみるか)
 そう思いながら荒谷町を西へ歩んでいると、前方から小さな影が近付いてきた。
(む?)
 見れば、その影は振り分け髪の童子であった。
 童子は黒字に金で模様を描いた着物をまとっており、一見すると裕福な商家の子供であろうかと思われた。
 しかし、それならば近くにお付きの一人も見つからないのは奇妙だ。大店おおだなの子供がこんな時間に、ただ一人で出歩くなど、親が許しはしないはずだ。
 軽やかに駆けてきた童子が、風のように右京の横を通りすぎる。
 ふわりと着物がひるがえる。
 転瞬、右京は左腕に鋭い痛みを覚えた。
 見れば、着物の左袖が大きく切り裂かれ、左腕には血がにじんでいる。
 右京は根津流の一刀流を修めており、同心のうちでも手だれの一人だと評されている。
 そんな彼が、気配さえ悟れずに斬られたとは……。
 とっさに童子を追いかけようとした右京だったが、その姿は深まってきた夕闇に紛れたのか、あたりには見当たらなかった。