三、百、夜中に奇禍に遭うこと
翌日も、百は太刀を背負い、脇差を佩はいて西澤淵の自宅を出た。
時刻はそろそろ二十一刻(午後九時)になる。夜空はよく澄んでおり、月が明るい。夜風は痛いほど冷たく、袷の下で肌が粟立つ。
(雪も近いな、これは……)
夜中になると辻斬りが出る。その噂は、すでに将領じゅうに広まっていた。それゆえか、井佐町まで来ても夜道は静まりかえっており、見える範囲に人影はない。
この夜の百は、家を出たときから左目の眼帯を外し、逆眼の左目で、道に残る気を視ながら歩いている。
人通りが少ないぶん、気の残滓もまた少ない。視る側としては楽だが、怪しいものは一向に見当たらない。
百が井佐町の老舗の呉服屋〔長嶋屋〕の前へさしかかったとき、
「あ……」
口の中で低い声を立て、物陰に身を潜めた男がいた。
肩まで伸びた蓬髪と、髪の間からのぞく一対の角。すっかり着古し、垢じみたつづれ衣の尻をはしょって、太刀のみを腰に差している。いかにも無頼漢、といった風体の男である。
百が目の前を行き過ぎるのを待って、男はそっと彼女の後をつけはじめた。
気をたどることに注意をはらっていた百はこれに気付かず、井佐町から南井佐町に向かっていた。
二つの町をわける小谷革にかかる橋まで来たとき、
(ん……?)
橋上に淡く残る気の残滓の中に、百は見覚えのある、金気に血の絡んだ気を認めた。
そのとき。
「よう、紅菊! お前、まさかこの俺を忘れたんじゃないだろうな?」
背後から太い声を聞くと同時に、百は、こちらへ向けられた殺気を感じ取った。
百はとっさに、橋板を蹴って走り出していた。
今ふりかえったなら、間違いなく斬られる。ふりかえって刀を抜く、その動作が、相手にこちらを斬る隙を与えるのだ。
幼いころから剣術の修行をつんできている百だけに、理屈立てるまでもなく、そう直感していた。
一気に橋を渡りきり、背の大太刀を片手で引き抜くや、ぱっと身をひるがえして、追い迫る曲者を薙ぎ払う。
曲者は百の頭上を踊り越えんばかりにまで高く飛びあがり、そのまま鋭い刃風とともに、斬撃を送りこんできた。
打ち合わされた白刃が火花を散らす。
「何者か!」
相手の刀を弾きあげ、飛び退った百が、凛とした声で誰何する。
男は答えず、つかのまじっと百を見ていたが、やがてにたりと嫌な笑みを浮かべた。
太刀を正眼にかまえ、
(こいつ、つかうな)
百はふっと口の端をつりあげた。
曲者も、こちらはなんと太刀を上段にふりかぶり、百の隙をうかがっている。
百はこの男に見覚えはなかったが、もしも今、奉行所の捕方が男を見たら瞠目することだろう。
半月前の〔大首の儀兵衛〕の捕物で、捕方の囲みを斬り破り、蘇芳に深手を負わせて逃走したのがこの鬼、覚円であった。
気合とともにふりおろされた刀を、渾身の力で受け止める。
流石に鬼が相手となると、腕力では向こうに軍配があがる。しかし剣術の腕であれば、百も相手には劣らない。通っていた皇領・富田村の道場では、他の高弟二人とあわせ、〔三羽烏〕と呼ばれていたほどの腕なのである。
二度、三度、刀が噛み合い、火花を散らす。互いに一歩も譲らず、斬れば避け、突けば下がり、せりあっては飛び離れて睨み合う。
「鋭!」
「おおっ!」
凄烈な気合声を同時に発し、打ちこんだ二人の立ち位置が入れ替わる。
一拍置いて、覚円の身体がぐらりと揺れ、そのまま、暗い水面へ吸いこまれるように落ちていった。
鈍い水音が、一度聞こえた。
やや息を弾ませながら、太刀を鞘におさめる。
(紅菊……)
覚円が自分を呼んだ名を思い出す。
百にとっては知らない名、だったのだが。
(妙な……)
その名を聞くと。妙に胸が騒ぐ。こうしてはいられない、という焦りさえともなって。それは同時に、何か大事なものを失った、という喪失感も呼び起こしていた。
「……紅菊」
半ば無意識に、ぽつりとこぼした自分の呟きを耳が拾ったとき。
(あ……)
百の脳裏へ、不意に、自分によく似た少女の面影がよみがえった。
ずきりと頭が痛む。
このとき、百が眼帯を外していたのもいけなかった。もともと目に視えるものが増えているところへ、更に抱えるものが増え、それらが百を苛む。
ふっと気が遠くなり、そのまま倒れかかったところへ、
「おい、しっかりしろ!」
呼びかけられて、百は我に返った。見覚えのある若い浪人が、彼女を抱き留めていた。
この浪人、尾上右京である。
このところ辻斬りが跋扈し、日ごろから親しくしている胡堂までも襲われたことで、
(何か、手がかりはつかめぬものか……)
と、浪人に変装して探索に出たのである。
胡堂は一命こそとりとめたものの、まだ昏睡が続いている。
胡堂が斬られたというのは茅町で、そこは胡堂が見回りを受け持っている地域――北井佐町から下手町にかけての一帯――に含まれている。辻斬りが最も多いのも、やはりその一帯であった。
探索の途中、覚円を見かけたときには驚いたが、
(もしや、奴が関わっているのでは?)
と、右京は彼の後をつけ、橋のたもとでの斬りあいも見届けていた。
覚円を斬って倒した女が、ふらりとくずおれるのを闇に慣れた目で認め、右京は慌てて彼女に駆け寄った。
(斬られた……?)
そう思った右京だったが、女の身体に傷は見られない。
「どこか、怪我は?」
「いや、大丈夫……」
口ではそう言っていたが、女――百の顔はまだ青い。
「しかし、顔色が優れぬようだ。こうして見かけたからには、このまま放ってもおかれぬ。この先に、私が寄宿している料理屋があるのだが、そこでしばらく休まれてはいかがか?」
右京の気遣いは心からのものであることは、百にも察せられた。少し悩んだものの、百は結局その言葉に甘えることにした。
〔尾ノ上左京〕と名乗った右京の案内で訪れたのは、井佐町の〔八総〕という小料理屋だった。
先に入った右京が、板場に立つ女将の佳代に目くばせすると、佳代は心得た様子で、目でうなずきかえした。
佳代は右京の幼馴染で、彼の仕事のこともよく心得ている。店の者もしっかりとしこんであり、右京が突然やってきても、誰もうかつなことを言わなかった。
二階の小部屋で、女中が運んできた鴨鍋を挟んで差し向かいに座る。鴨鍋は八総の名代と呼べるもので、
「鴨鍋は八総にかぎる」
という客も多いそうだ。
鴨の脂がとろりと溶けこんだ鍋を口にし、百が目を丸くする。
「美味いでしょう。出汁が秘伝らしいのですよ」
そんなことを話しながらも、右京は如才なく、百から彼女の名と生業、そして先刻あったことを聞き取った。
「ふむ……。百殿、その鬼に覚えは?」
「いえ全く」
「では、紅菊、という名に心当たりはおありか?」
「いや……ない、かと」
それまではしっかりと答えていた百が、急にその調子を変えた。どこか自信のなさそうな、その様子に、
「何か心当たりがあるのなら、お話いただけませんか。決して悪いようにはいたしませぬゆえ……」
右京がそう言葉を重ねると、百がふと、悲しげに微笑した。
「心当たりと言われても……思い出せませぬので」
「思い出せない?」
「昔、どこかで聞いたような名ですが……それ以上はどうにも」
百の、いかにも苦しげな様子に、右京はそこで追及をあきらめた。
それから半刻(約一時間)ほどを八総ですごし、百は重いものを抱えたまま帰途についた。
右京には詳しく話さなかったが、百には幼いころ――九歳より前の記憶がない。彼女は九歳のとき、珂国を襲った例の大水害に巻きこまれ、水に流されて半死半生の状態で皇領の富田村に流れ着いたところを、梶春臣に助けられた。
九死に一生を得たものの、息を吹きかえしたとき、百は何も覚えていなかった。”百”という名も、身につけていた守り袋に入っていた臍の緒書きに、それらしい字があったからと呼ばれているもので、本名ではない。
これまではいくら記憶をたどっても、何も浮かんでこなかった。
(なぜ、あのときだけ……)
紅菊、ともう一度呟いてみる。しかし今は何も思い出せない。
早足で歩みながら、百はもう何度目かになる溜息をついた。