二、始末屋の百のこと
将領を流れる柚羅川は、珂国でも有数の清流である。珂国の名川はとひとに訊ねれば、将領なら柚羅川、皇領なら羽瀬川と名があがる。
夏になれば鮎がとれ、人々の口を喜ばせる。
その反面、柚羅川は暴れ川としても有名であった。特に広く知られているものは、十四年前の大水害であろう。数日続いた雨と、その直後に珂国を襲った台風によって引き起こされたこの水害は、これまでに類を見ないほど凄まじいものだった。あふれた川の勢いに、川沿いにあった町や村のいくつかは押し流され、未だに生死の知れぬ者も多い。
尾上右京が荒谷町で見とがめた女は今、下手町の川沿いを歩いていた。
荒谷町から下手町まで歩く間に、冬の日はすっかり暮れきってしまい、半分欠けた月が、弱々しい光を落としている。
女は提灯一つ持っていないが、その足取りは確かである。
この女は、名を百という。右京が看破したとおり、鬼人の女である。
鬼や鬼人は夜目がきく。今のあかりらしいあかりは、近くの船宿の軒行燈と、後は月光くらいであるが、百にはそれで充分だった。
百は、柚羅川の川緑に並ぶ船宿のうち、〔島屋〕と看板を出しているところへ入った。
顔馴染の主と世間話をしていると、船着きから、灰茶の袷の裾をはしょった鬼の男が姿を見せた。島屋の船頭の一人、玖善である。彼もまた、百とは以前からの顔馴染であった。
玖善は壮年の男で、肌はよく日に焼け、黒い髪を革紐で雑にまとめている。
額にかかる髪の間から、一対の角が伸びている。鬼の特徴である先尖りの耳にも、黒髪が少しかぶさっていた。
たすきをかけられた袖からのぞく太い腕には、白い包帯が巻かれている。
「喧嘩でも?」
「これかい? いや、それがな、ちょいと妙な話なんだよ。百ちゃん、西澤淵まで帰るんだろう? 川ぁ下るついでに聞いてくんねえか」
「よし、聞こうよ」
舟に乗りこみ、玖善が川へ漕ぎ出す。
川面を渡る夜風は冷たく、肌が粟立つほどだったが、二人とも平気な顔をしている。
「昨日な、休みだったんで、南井佐町の〔松井〕って居酒屋に行ったんだよ」
「ああ、松井なら知ってる。あそこの鯉の甘露煮は美味しい」
「おう、知ってるなら話が早い。あそこで酒を飲んでよ、夜更けてから……もう二十二刻(午後十時)回ってたかな。まあ、遅くなってから帰ろうとしたのさ。そうしたら、道で子供とすれ違ってな」
「子供と?」
「おう、五つか六つくらいの子供さ。金で模様を描いた、高そうな黒い着物を着て、どこかの大店の子供みたいな格好をしてたよ。で、迷子かなんかだと思って声をかけようとしたのさ。普通ならおかしいと思うんだろうが、そんときゃ酔ってたからな。そうしたら、その子供がいきなり走ってきて、そのままぱっと横を通り抜けてな。引き留めようとしたときに、腕をすっぱりやられたのに気付いたんだよ」
「腕を?」
思わず、百は玖善の顔を見直した。
前述のとおり、玖善は鬼である。その上、昔は荒れていたらしく、鬼ということを差し引いても腕っぷしは相当強い。そんな彼に何一つ悟らせず腕を斬るというのは、ただの子供にできるわざではない。
「で、だ。ありゃたぶん、百ちゃんの領分だろうぜ。ただの子供に、そんな真似ができるわけねえからな」
百と同じことを、玖善も考えていたらしい。
ふむ、と暗い水面を睨みながら、百はじっと考えこんでいた。
やがて、舟は柚羅川から引かれた水路に乗り入れた。
「よし、着いたぜ」
「ありがとう」
船賃を払い、舟を降りる。
水路のそばには、藁屋根の粗末な百姓家が建っている。この百姓家が百の家である。
百の家は、将領の西澤淵と呼ばれる場所にある。この家の他に人家はなく、夜が更ければ狐狸も出てくるような、うら寂しい土地である。
玄関にかけてあった『他行中』の木札を外し、中に入る。
土間には、朝、家を出るときにはなかった籠が置いてある。中には立派な大根が三本、きれいに泥が落とされて入っていた。
百の口元がふっとほころぶ。
こうした届け物は、別段珍しいものではない。
百の生業は〔始末屋〕である。
この世に生きているものは、人間ばかりではない。代表的なものは、鬼や、鬼と人との間に生まれる鬼人であるが、他にも人外の存在はいる。そういったものの中には、ひとびとを脅かし、危害をくわえるものもいる。そうしたものの多くは妖だが、鬼や、時には鬼人、あるいは人間であることもある。そういったものたちに対するのが〔始末屋〕である。
百は四年前から、この百姓家に住んでいる。始末屋として独り立ちするとき、養父であり、始末屋の師でもある梶春臣から餞別にもらった金で、土地ごとこの家を買ったのである。
西澤淵に住みだしてから、百は近隣の村人が持ちこむ悩みごとをよく手掛けていた。それにくわえて村祭の手伝いや、寄り合いに顔を出すなどして、村人たちといい関係を築いていた。
それゆえ今日のように、畑の作物や川でとれた魚や田螺、蜆などをもらうことはこれまでにも何度もあった。
機嫌よく鼻歌など歌いながら、百は夕飯の支度にとりかかった。
冷飯に大根と葱の味噌汁、朝に作った煮染めの残りが今日の夕飯である。
ゆっくりと、時間をかけて飯を食い、熱い茶を一杯飲んで、百は早々に床に入った。
翌朝、百の家に天秤棒を担いだ少年が顔を出した。
少年は八十村に住む魚売り、平助の子供で六助という。
平助は四、五日前から、腰を痛めて寝こんでしまっているらしく、このところは六助が父のかわりに魚を売り歩いていた。
十そこそこの六助だが、不平も言わずに毎日魚を売りにくる。
「六坊、父の具合はどうだい?」
「うん、だいぶよくなってる」
「そりゃよかった。今日は何がある?」
籠から蜆をひとつかみ買い、代を払ってから、
「これで飴でもお買いよ」
銅貨を三枚、手に落としてやると、六助は顔中を口にしてにんまりと笑った。
六助が伊崎町のほうへ歩いていくのを見送って、百は家へひっこんだ。
今日は夜まで、内で繕いものなどしてすごすつもりだったのである。
夜になってから、百は身支度を整えて外に出た。格好は昨日と同じ、太刀を背負い、腰に脇差を帯びた姿である。
半刻(約一時間)ほどをぶらぶらと、伊崎町から下手町まで歩き、そこから少し考えて南井佐町に向かう。
歩きながら革眼帯を外す。白黒逆の左目が、その下から現れた。
周囲を見回すと、様々な色をしたもやのようなものが目に入る。生物の発する気の残滓である。
百の左目は、普通では見えぬものを視る。もっとも、これは百に限ったことではない。鬼や鬼人は皆そうなのである。
目に入る情報が増え、ずきりと頭が痛む。これが鬼ならこうしたものを視ないでいることもできると聞くが、生憎、百のような鬼人はそれができない。好もうと好むまいと、何もかもが目に入ってくる。
一旦目を閉じ、ゆっくりと目を開く。それでも、目と身体が慣れるまでには少しかかった。
あたりに気を配りつつ、歩みを進める。
南井佐町をぐるりと一巡りし、橋を渡って井佐町に入る。気を視ながら井佐町を通り抜け、茅町に入ったときだった。
前方の闇の中で、呻き声があがる。何かが遠ざかっていくのと同時に、前方でひとが倒れるのが見えた。
百はとっさに、倒れた影へ駆け寄った。
倒れたのは鬼の男だった。首元が朱に染まっている。
(黒の巻羽織……捕方か)
「しっかりしろ、傷は浅いぞ!」
耳元に口をつけて怒鳴る。
「う……」
男は低く呻いたが、目を開ける様子はない。
着物の片袖を引き裂き、刀の下緒も使って傷を止血する。
かろうじて息があるとはいえ、場所は首だ。安心はできない。
幸い、百はこのあたりにいくらか土地勘があり、さほど遠くないところに、町医者の山本安仁の家があることを知っていた。
男を担ぎあげ、安仁の家へ駆ける。
鬼の血を引くため、百は人間相手なら、並みの男よりも力が強い。しかしそれでも、人間以上の体格を持つ鬼の男を担いで走れたというのは、火事場の馬鹿力とでも言うべきものであっただろう。
安仁によると、男の傷はかろうじて急所を外れており、また止血が早かったこともあって、どうにか一命をとりとめそうであった。
安仁が男の手当にかかっている間に、何か男の身元がわかるものはないかと、彼の持ち物をあらためた百は、奉行所の印が入った印籠と名札を見つけた。そこでこの男が胡堂という同心だと知り、百は安仁に後を頼んで、奉行所にこのことを伝えるべく、夜道を奉行所のある保利町まで走り出した。
この夜、奉行所では、奉行・長谷部平内が尾上右京を相手に酒を飲んでいた。
「そういえば、昨日見かけたという女、今日は見かけたか?」
「いえ……あのあたりの者ではないのではないかと思われます」
「ふむ……」
そのときであった。
門番の乙蔵が、
「た、大変でございます!」
慌てた様子で庭先へ現れた。
「どうした、乙蔵?」
「茅町で、胡堂様が何者かに襲われたと……さきほど、蘇芳が知らせてまいりまして……」
「なんと申す」
門前に現れた蘇芳は、胡堂が襲われたことと、彼がいる町医者の家を伝えると、そのまま早足に去っていったらしい。乙蔵が引き止め、詳しい話を聞く暇もなかった。それに、蘇芳はまるで乙蔵とは初対面のような様子であったという。
右京ともう一人、剣術に長けた同心・戸岳を医者のもとに走らせ、平内はじっと沈思していた。
一方、百は奉行所からまっずぐ茅町に戻っていた。
闇の中には何者の気配もない。しかし左目に映る気の中には、異様なものが混じっていた。
(金気と、それに絡む血……ふむ)
気を辿ってみようとしてみたが、時間が経っていることもあって、百はすぐにそれを見失ってしまった。