四、右京、蘇芳を見舞うこと

 奉行所内に設けられた役宅の一間には、薬のにおいが薄くこもっている。
 密偵の蘇芳は、この部屋で傷の養生を続けていた。
 二十三の蘇芳は、小作りの童顔ながら、きりりとした面立ちで、百とはまさに鏡写しといえる。しかしその顔、とくに目に染み付いた悲哀と諦観の色は、百には見られないものだった。
 身体のほうはようやく峠を越したとはいえ、立ち居はまだ不自由で、身体を起こすこともままならない。しかし、奉行の長谷部平内のいたわりや、奉行夫人の真冬の手厚い看護で、その容態は日に日に快方に向かっていた。
 傷を受けた蘇芳に対し、長谷部平内は旧知の医師、川居紀庵に治療を請うた。
 川居紀庵が当主を務める川居家は、代々珂国の将軍家の〔御典医〕を務める家である。身分の上下に厳しい珂国で、将軍家お抱えの医師が平民の蘇芳を診るなどということは、異例中の異例と言ってよい。
 しかし紀庵は、平内の頼みを快く受け容れて、役宅で蘇芳の治療にあたってくれた。
 これを知った他の密偵たちは、平内の情の深さに驚くとともに、感動の声をあげたそうである。
 夫人の真冬も、毎日のように蘇芳の部屋を訪ねては、まるで娘にするように手ずから看護をし、特に蘇芳がいっとき、その命が危ぶまれるほどの容態となったときには、自ら夜を徹してその枕頭に付き添っていた。
 後でそれを知った蘇芳は、声こそ立てなかったものの、ぽろぽろと涙をこぼしていたという。
「どうだ、具合は?」
 朝、見舞いに来た尾上右京に、ありがとうございます、と、蘇芳は固い笑みをかえした。
「あの、尾上様。小耳に挟んだのですが……私によく似た方がこちらに来られたというのは、本当のことでございましょうか」
「乙蔵が言うにはそうらしいな。お前と瓜二つの女で、刀を背負っていたと言うが、何か心当たりがあるのか?」
「白……いえ、なんでも。他人の空似でございましょう。そんな都合のよい話があるはずはございません」
「なんだ、言いかけて止められては、こっちが困る」
 蘇芳はそれでもためらっていたのだが、
「間違っていたとしても責めはせぬゆえ、話してみろ」
 右京に優しくうながされ、
「……白菊……かと、思ったのです」
 そう、ぽつりと呟いだ。
「白菊?」
「はい。双子の、姉でございます」
「なんと……」
 確かに百を見たとき、双子のようだ、と思った右京だったが、蘇芳の口から姉妹の存在を聞いたのは、これがはじめてのことだった。
「姉がいたのか」
「はい。姉が白菊、私が紅菊。昔は間違われることも多うございました」
 懐かしげな目をした蘇芳の面が、すっと陰る。
「しかし、姉ではございますまい。姉は病がちで、寝ていることのほうが多かったですから、刀を背負うなどとても……。それに、あの水害がありましたから……。家は村ごと流されてしまいましたし、とうてい生きてはおらぬでしょう」
「そう悲観するものではないぞ」
 なんとか蘇芳を力付けたいと、右京はそう蘇芳を励ました。その心情は蘇芳にも通じたらしく、彼女はにこりと笑ってみせた。どうにもそれが寂しげに見えたのは、おそらく右京の気のせいなどではないのだろうが。
 この日、右京は非番であったので、蘇芳を見舞ったあとで、彼は荒神町の洞縁寺へ赴いた。
 洞縁寺には、右京の竹馬の友、北村平助の墓がある。
 北村平助は、右京と同様に奉行所の同心をつとめており、その穏やかな人柄から、同僚たちからの評判も良かった。
 しかし四年前、非番の日に皇領の三仁町にある三宮神社へ出かけた平助は、そこで暴漢に襲われて惨死をとげた。その亡骸は、右京がこれまで見たことがないほどむごたらしいものだった。なにせ顔がろくにわからず、持ち物からやっと身元が知れたのである。
 平助の、無惨な死に様を思い出すたび、右京の胸には犯人への怒りとともに、なぜ、という疑問が浮かぶ。
 平助は右京と同じ道場に通っており、その腕は右京よりも優れていた。同心のうちでも、剣術なら五本の指に入る、と言われていた。
 そんな平助が、刀に手もかけずに殺されたというのは、右京には今もってうなずけぬことであった。
(刀を抜く余裕がなかったのか、それとも抜けぬ事情があったのか……)
 墓前に香華を手向け、手を合わせる。
 墓参をすませた右京は、寺近くの蕎麦屋で腹をこしらえ、そこから茅町へ向かった。
 朝方、山本安仁から、胡堂が目を覚ましたと報せがあったことを聞き、その見舞いに行くつもりなのである。無論このことは、平内にも報告している。
 山本安仁宅の、奥の一間で寝ていた胡堂は、顔に血の気こそなかったが、右京を見てにっと笑ってみせた。
「何があったのだ?」
「さあ、それが……」
 胡堂が顔をしかめる。
「黒い着物の子供が歩いているのを見かけて、どこの子供だか聞こうとして、声をかけたことまでは覚えているが、その後がどうも……蘇芳に声をかけられたような気はするが」
「そうか……」
 あまり多く訊ねることも、長居するわけにもいかないので、右京もこれ以上は聞かなかった。
 安仁家を出てから、右京は西澤淵へ足を伸ばした。百がいないかと思ってのことである。
 百がいたならば、己の身分と本名を明かし、探索への協力を頼むつもりの右京であった。
 胡堂の話を聞いて、
(これは、捕方こちらの領分ではない……)
 そう感じたからだ。
 しかし、ぽつんと建っている百姓家の玄関には、『他行中』と書かれた木札が下がっていた。
(やれやれ……)
 矢立から筆をとり、懐紙に一筆したためる。
 それを戸の隙間にさしこんで、右京は西澤淵を後にした。