出逢うは遠い人の影

 そろそろどこかへ停泊するだろうかと思っていた矢先だった。
 甲板での軽業の練習のあと、部屋に戻るときに何気なく見た掲示板。停泊地は中国。それはいい。何度かあったことだし、もとより祖国の土を踏むことに抵抗はない。
 問題はその続き。『異文名称:泅魏シュウギ』。
 本来の歴史とは全く別の歴史をたどって続いてきた平行世界。人の絶望から生まれる蟲を狩る者たちを乗せるこの船では、そうした世界を『異文』、あるいは『異文世界』と呼称する。
 大地のほとんどが海となっていたり、機械を捨てた世界であったり、内容は様々だが、どの異文も、本来の歴史から大きく外れていることは共通している。
 詳細に目を通す。
(世界大戦が続いている世界――)
「お、紅花ホンフア。今度はどこって……うわ、異文か。場所は……中国?」
 そこへ古谷杏がふらりとやってきた。紅花ホンフアの隣で掲示板に目を向け、その眉がふと寄せられる。
「どうかシタ?」
「また物騒な異文だと思ってさ。しかも最前線だし。行くなら気をつけなよ?」
「そうするネー」
 軽い口調で返し、部屋に戻る。愛用のヌンチャクを、財布やその他細々したものと一緒に鞄にいれようとして、ふと、手が止まる。
 脳裏をよぎる、二人の面影。
 これまで何度も、中国に停まるたびに逢いに行こうとして、結局一度もあっていない、かつての座長・梁建新リャン・ジェンシンと親友・梁可馨リャン・クーシン
 だがただでさえ、元々旅回りの一座で居場所が掴めないというのに、戦場、それも最前線で、どうやって探すつもりか。
 とはいえ、まったくあてがないわけでもない。紅花ホンフアのいた一座が多く興行をするのは農業が一段落する秋の終わりから冬にかけてで、それに中国全土を移動するわけではない。毎年だいたい同じような道筋をたどるため、うまく歯車の扉から近くに出られれば、会える可能性はあった。
 しかし、会ってどうする?
 向こうは自分のことなど覚えていない。蟲を倒すために契約し、船に乗った自分は世界から“いなかった”ことになる。
 つまり、会いたい相手にとって、自分は他人なのだ。かつての座員の一人では、なく。
 迷いを断ち切るように頭を振り、鞄を肩にかける。ただ少しだけ、垣間見られればいい。思うことはそれだけだ。


 何年かぶりに降り立った祖国の景色は、硝煙のためか記憶に輪をかけてくすんでいた。
 見える建物に無傷のものはなく、廃材で粗雑に補修がされていればいいほうで、ほとんどは崩れたまま放置されている。
 折よく行きあった男に、ここは泅魏シュウギのどのあたりかと訊ねてみる。中年の男は訝しげに紅花ホンフアを見たが、それでも、ここは――市だと教えてくれた。
 建新ジェンシンの故郷、阿――村は、――市の北方にあったはずだ。距離はあるが、徒歩で行けない距離ではないと覚えている。
 男に礼を言い、なるべく人気のない道を選んで進む。なにせ最前線である。目立たないにこしたことはない。
 本来の――市なら、紅花ホンフアにも土地勘はあるが、戦地となった町では、その土地勘にも頼れない。
 かろうじて残る建物と、自分の記憶を重ねながら進んでいく。
 その途中、こちらに近づいてくる足音が聞こえ、紅花ホンフアはすばやく近くの建物の陰に身を隠した。
 息を殺してじっとしていると、兵士の一団が紅花ホンフアの歩いてきた方向へ向かって足早に通りすぎていった。
 充分に距離があいたことを確かめて、先を急ぐ。
 思った以上に北を目指すのは時間がかかっている。日も傾いてきていた。
 一応どこかで一晩すごすことも考えていた紅花ホンフアだが、すごせる場所はあるだろうか。
 少しずつ暗くなりはじめたころ、紅花ホンフアはこれ以上先へ進むのを止め、今日の宿を探すことにした。
 曇った空から、ぽつぽつと雨が落ちてくる。雨の勢いはたちまち強くなり、紅花ホンフアはたまらず近くの建物へ飛びこんだ。
 もとは集会所かなにかとして建てられたのだろうが、戦禍でほとんど崩れている。崩れた場所に修繕の跡はところどころに見えたが、その修繕のあともかなり古いものだった。
 玄関部分と傍の小部屋だけは、かろうじて雨がしのげる程度の場所はあった。
 小部屋の中で壁にもたれかかり、一息つく。
 そのままうとうとしていた紅花ホンフアは、勢いよく駆けこんできた足音に、はっと目を覚まされた。
 そろりと首を伸ばしてうかがうと、兵士が一人、荒く息をしながら入ってきた。三十代の半ばくらいの、鋭い目の男だった。
 男の軍服は土で汚れ、あちこちが破れ、手で押さえている右の上腕のあたりは血に染んでいた。だらりと垂れた右の指先から、ぽつり、ぽつりと血が落ちている。
 玄関の、外から見えない場所に座りこみ、男は低声で毒づいた。
 その声を聞き、紅花ホンフアは思わず、喉の奥で押し殺した声を立てた。それが中国語だったからではない。その声が、知人のものだったからだ。
 黄康ホアン・カン
 紅花ホンフアがいた一座の座員で、剣を飲む芸を得意としていた。五、六十センチはあろうかという細い剣を、彼が次々に飲んでいくと、観客からは驚きの声とともに歓声が上がったものだ。
 カンは紅花よりもおよそ一回り年上で、何かと気にかけてくれていた。紅花ばかりではなく、他の年下の座員に対しても。
「誰かいるのか?」
 紅花ホンフアの声が聞こえたのだろう。カンがうつむけていた顔を上げ、かすれた声を投げかけた。
 一瞬、紅花ホンフアは出ていくのをためらった。自分の格好はまず兵士に見られることはないだろうが、だから安全とはいえない。
 様子を見るために立ち上がろうとしたカンが顔を歪め、ふらりと倒れかかる。
 反射的に、紅花ホンフアは飛び出していた。ぎょっとしたカンにはかまわず、その身体を支える。
 ぐっと人一人の重さが肩にかかる。血臭が鼻をついた。
「誰だ?」
紅花ホンフア
 警戒をあらわにしたカンに短く答え、彼に肩を貸して紅花ホンフアは小部屋へ戻った。
 持ってきていた携帯用の救急セットから包帯を取り出し、カンの傷を止血する。
 手当が終わると、カンは壁にもたれて座ったまま、じっと鞄をさぐっている紅花ホンフアを注視していた。
 そうするうちに、どうぞ、と紅花ホンフアに鞄から出した携帯食を差し出され、カンは面食らった様子で目をまばたいた。一拍、間をおいて、カンがためらいがちに携帯食を受け取る。
「お前、どこから来た?」
「南から」
「どこに行くんだ?」
「阿――村」
「阿――村? 誰か知りあいでもいるのか?」
 カンの声音にはまだ、紅花ホンフアを怪しむ響きがあった。
「人を訪ねに。梁建新リャン・ジェンシンって人、知ってる?」
 紅花ホンフアの言葉に、普段の奇妙な訛りはなかった。このあたりの発音で、彼女は問いかけていた。
「あの人か。何の用があるんだ?」
「昔、お世話になったから、お礼が言いたくて」
「……あの辺には行かないほうがいい。西の陣営との小競り合いが頻発しているし、何よりこのところ、戦闘が増えてる」
「戦闘が?」
「そうだ。それも兵同士の戦闘だけじゃなく、民間人同士でも戦闘が起きてる」
「ありがとう。気をつける」
「……行かない、とは言わないのか」
「うん。次いつここに来られるかわからないから」
「そうか。忠告は、したからな。俺は部隊に戻る。世話になったな」
「気をつけて、お兄さん」
 つい昔のように呼びそうになり、慌てて口を塞いだ紅花ホンフアを、カンは怪訝そうに見て出ていった。


 一晩を過ごし、朝から北へ向かって進む。そうして彼女が阿――村についたときには、昼近くなっていた。
 建新ジェンシンの家は村の端にあり、そこで彼は娘の娘の青娘チンニャンこと、梁可馨リャン・クーシンと住んでいると、出会った老婆が教えてくれた。
「でも、気を付けた方がいいよう。娘と二人で暮らしてるけども、偏屈な男だから」
 別れ際の、老婆の言葉を思い出す。
 会えたところで、彼にとって自分は知らない人間なのだ。船に乗った以上は、世界からの否定を、受け入れるより他はない。
 道はいつしか、舗装されなくなり、土を固めたような地面が続いている。田舎のこのあたりでも、景色には、戦火の爪痕が鮮やかに残っていた。
 聞いたとおり、村の端に建つ一軒家から、娘が一人現れた。紅花ホンフアと同い年で、彼女が船に乗ったのは今から九年前、十九のときだったから、もう三十近くになるのだろうが、年月が経っても、紅花ホンフアの覚えている可馨クーシンの面影が、まだその顔には残っていた。可馨クーシンが家の中に向かって何やら声をかけると、中からは一人の男が杖を手に、ゆっくりと出てきた。
 男の姿を見て、紅花ホンフアは小さく息をのんだ。可馨クーシンと住んでいるからには、建新ジェンシンで間違いないはずだが、その姿は、彼女の知る建新ジェンシンとは程遠いものだった。
 利き腕のはずの右腕は、中身のない袖だけが垂れ下がり、顔の半分には大きな火傷の跡が見えていた。黒かった髪もすっかり白くなり、かつて座長として皆を引き付けた、堂々とした立ち居振る舞いも、その男からは感じられなかった。
「こんにちは。こちらは梁建新リャン・ジェンシンさんのお宅ですか?」
 この地域の発音で、言葉を注意深く選びながら、歩み出た紅花ホンフア可馨クーシンに声をかけた。
「そうですよ。あなた、何の用です?」
 言葉の端々から、警戒をにじませる可馨クーシンに、紅花ホンフアはにこりと笑ってみせた。その人懐こい笑みを見ても、可馨クーシンの鋭い視線は変わらなかった。
「ワタシ、建新ジェンシンさんの一座が小さいときから大好きで、一度お会いしたかったんです」
 可馨クーシンが眉を寄せる。その横で、建新ジェンシンが渇いた笑い声を上げた。その目は開かれていたが、白く濁っていた。見えていないのは明らかだった。
「はは、からかうんじゃないよ。声からしてまだ若い娘さんのようだが、ねえ、見ていたわけじゃないのだろう、本当は。こんな戦争中に、興行をしようとしていた物好きがいると知って、物珍しさで見に来ただけなのだろう」
 ぞくりと背筋が冷える。ちりちりと、うなじの毛が逆立つ。
 不意に、蝉の声が耳に届いた。目の前の二人の身体に、靄が絡みつく。
 耳が痛くなるほどの鳴き声を上げながら、二人の背後から、蝉の姿をした蟲が、その姿を現した。
 すっと、紅花ホンフアの顔から表情が抜け落ちる。素早くハンカチを裂いて耳につめ、さっとヌンチャクを引き出した。
 一歩。地面を蹴る。
 二歩。目の前の柵を蹴る。
 可馨クーシンの頭上を、紅花ホンフアは軽々と飛び越える。
「何を……!」
 可馨クーシンの鼻先を、紅花の振るったヌンチャクが音を立てて疾る。可馨クーシンがたじろいだその一瞬で、紅花ホンフアは二人から距離を取っていた。
 死角から振り下ろされた建新ジェンシンの杖を、すんでのところでかわす。再び地を蹴って宙に躍り上がり、ヌンチャクを天へと投げ上げる。
 飛びかかってきた可馨クーシンの背を踏み台に屋根へと飛び移り、手を伸ばす。ヌンチャクが、吸い込まれるように紅花ホンフアの手の中に納まった。
 近くなった蝉の声に、わずかに顔をしかめたものの、紅花ホンフアは流れるような動きで屋根の上を駆けていく。蟲に向かって。
 板切れを寄せ集めたような屋根は、どう見ても動きやすい場所ではないだろうに、紅花ホンフアは体の平衡を失うことなく疾駆する。
 契約の結果、身体能力が向上したためでもあるのだろうが、それでも恐ろしいほどの身軽さと平衡感覚だった。
 少し膝を曲げて、勢いをつけて飛び上がり、蟲に肉薄し、そのままヌンチャクで打ち払う。
 鈍い音。そこへ二撃、三撃と、続けて打ちこむ。
 そのときだった。
 空を裂いて、鉛玉が、紅花ホンフアの頬をかすめて通り過ぎる。転々と、白い肌に血の玉が浮く。
 蝉の声が、高まった。
「貴様、何をしている! 降りてこい!」 
 横目に見ると、兵士の一団が紅花ホンフアに向けて銃を向けていた。
 きり、と歯を噛む。
 蟲は一般人には見えない。紅花ホンフアが対峙しているものを、契約していない彼らが知ることは不可能だ。
 だからといって従うわけにはいかない。今、ここであの蟲を見逃せば、災害は広がるだけだ。
 時間はない。一度息を整え、ヌンチャクを構える。
「待ってください!」
 カンの声が遠くで聞こえた。
 銃声。一瞬間があって、右腕に熱が走る。
 それには構わず、勢いよく蟲の眼前に飛びこんだ紅花ホンフアは、その勢いのまま、ヌンチャクをふるった。
 そのひと打ちで、さらさらと蟲が崩れ、空気に溶けるように消えていく。同時に兵士たちは何があったのかとあたりを見回し、建新ジェンシン可馨クーシンも、夢から覚めたかのような顔を見合わせている。
 その間に、屋根から降りる。耳に詰めていたハンカチを取ってようやく、腕の痛みに意識が向いた。残っている包帯でとりあえず止血する。
「あんた……何者だね?」
「昔、アナタが買った子供。今日はお礼をしに来たの。アナタの一座で過ごせて、ワタシは幸せだった、って。ありがとう、座長」
 ぽかんとした二人に向けて、意識して笑顔を作る。
 船に戻ろうと、踵を返した彼女が、村の入口のあたりまで来かかったときだった。
紅花ホンフア
 名を呼ばれ、顔を上げる。カンが物陰からそっと手招いていた。
「何か、あそこにいたのか?」
 あたりをはばかるように、低くカンが訊ねる。
「いた、と言えばいた、かな。今はもう、いないけど」
 謎のような言葉に、カンが眉をひそめる。
「腕、見せてみろ」
 血を吸って赤黒くなった袖を裂き取って、カンがしっかりと血の流れる腕に包帯を巻き直し、頬の傷にも薬を塗ってくれた。
「今はこれでいいだろう。早く医者に診てもらえ。――市なら、まだやっている病院はあるだろう」
「うん。ありがとう」
 カン兄さん、という言葉を飲みこんで、紅花ホンフアは笑ってそう言った。