北の国の挽歌

 歯車の扉を潜って外に出ると、涼風が肌に触れた。

 着ていたジャケットの前だけを開け、杏はふらりと足を進める。その後ろを、アイビーがどこか不機嫌そうな表情で歩いていた。

「いくら普段部屋に引きこもってるからって、拉致同然に外に連れて来なくても……」

 後ろで文句を言うアイビーに、振り返った杏は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「まあまあ、お詫びに何かおごってあげるよ」

 む、とアイビーは背後で口を尖らせる。

 人の負の感情を増幅させ、暴走させる『蟲』を退治する住人を乗せた船は今、ロシアに停泊していた。

 ロシアの気候は故郷の日本で言うと初夏くらいか。少し肌寒いが、これから多少は気温も上がるのだろう。

 ちょうど出会った女性に、何か食べ物を買うところはないかと聞いてみる。観光客だと思ったのか、女性はにこにこしながらこの近くに市場があると教えてくれた。

 教えられた方向に歩くと、そこそこの規模の市場が見えてきた。果物、野菜、花、そういったものが山と積まれて売られている様は、中々面白い。

 中には衣服や雑貨、土産物を売る店や、軽食を売る屋台もある。

 屋台で出来立てのピロシキを買う。湯気の立つそれを一つアイビーに手渡して、自分も一つ頬張った。

「熱ッ!?」

「はっはっは、そりゃさっき揚げたばかりだからな。お二人さん、観光かい?」

「まあね。ロシアは初めてなんだ。どこがおすすめ?」

「そうだな。この辺だと、赤の広場とか、クレムリン、買い物に行くならグム百貨店もいいな」

「へえ、ありがとう。あぁ、そうだ。最近急にものに執着するようになった人に心当りはある?」

 杏の問いに、屋台の主人は首を傾げる。

「変なことを聞くねえ? 悪いけど、心当たりはないなあ」

 そっか。と頷いて立ち去りかけた二人を、店主が呼び止めた。

「そうだ、そっちの黒髪の姉さん。最近、若い女性がいなくなることが増えてるんだ。それも、あんたみたいな黒髪の女ばっかりな。だから気を付けるんだぞ」

「はあい、ありがとう」

 ひらり、手を振って先を行く杏を、アイビーが慌てて追いかける。

「ちょ、待ってって、歩くの早い」

「あぁ、ごめん。それよりさ、『蟲』だと思う? さっきの話」

「まあ、タイミング的に、可能性はありそうだよね」

 執着の蟲に喰われた人間には、緑の斑点が見えるという。今のところ、そんな人間は見当たらないが、さっき聞いたことが、蟲によって引き起こされているのなら、喰われた人間と出会う可能性はある。

「ま、何かあるまでは物見遊山でも良いんじゃない?」

 言いつつも、ジャケットの内ポケットに触れ、そこにある重さを確かめる。

「モノミ……何?」

「観光気分でいいんじゃないってこと」

 はてなと首を傾げるアイビーに、杏はちょっと笑って左目を閉じる。左目を斜めに貫く傷跡が、一瞬一本の線になる。

 屋台の主人から聞いた場所を巡る。時折他の船員とも出会いつつ、観光半分、見回り半分で異国のあちこちを見て歩く。

「お、マトリョーシカ見っけ。一つ買って帰ろうか。おじさーん、これいくら?」

 土産物の露店でマトリョーシカを一つ買う杏と、珍しそうに土産物を眺めるアイビー。

「観光かい?」

 マトリョーシカを袋に入れながら尋ねる店主に、杏はそうそうと頷いて見せる。

「そうだ、最近急に執着心が強くなった人の話とか、聞かない?」

「うーん、ああ、そうだ。イーゴリ……俺の甥っ子が最近彼女に振られたらしくて、それを随分引きずってるって話だが、こんなんでいいのかい?」

「充分。ありがと」

「いやあ、お礼ってんならもっと何か買っていかないか? そこのネックレスなんかどうだい?」

 言われて杏は片隅にかけられていたいくつかのネックレスに目をやった。アイビーも興味を引かれたのか、杏の後ろから覗き込む。

 陶器の大粒のビーズを使った色とりどりのネックレス。少し考えて、杏はアクアブルーのネックレスを手に取った。

「じゃ、これ」

「おっ、本当かい? そっちのお嬢さんはどうだ。何か買っていかないか?」

 にこにこ顔でネックレスを袋に入れながら、店主がアイビーにも声をかける。慌てたアイビーが思わず杏の後ろに縮こまると、店主は気にした様子もなく軽く笑っていた。

「もう、そんな小さい子みたいなことをしない。ほら」

 ぐいっとばかりに引っ張り出すと、アイビーはすっかりどぎまぎした様子で、真っ赤になって突っ立っていた。

「やあ、嬢ちゃん。どれがいいね?」

 にこやかな店主とは対照的に、すっかりあがってしまったアイビーは、しかしどうにもできずに固まっていた。

「え、えと……」

「そっちの緑のとかいいんじゃない?」

 そう助け舟を出すと、アイビーは一も二もなく頷いた。

 買ってすぐにネックレスを首にかけた杏とは逆に、アイビーは紙袋に入れられたそれをバッグにしまい込む。

 やがて日が暮れ始め、肌寒さを感じる程度には気温も下がってきた。

「何か食べて戻ろっか」

 アイビーが頷いたのを見て、杏は近くのレストランへと足を向けた。

 その途中、視線を感じた気がして振り返る。

 大勢の人が行き交う通り。誰かが見ていたとしても、人に紛れてしまっている。

「杏?」

「あぁ、ごめん、今行く」

 駆け足でアイビーに追い付く。その手は無意識に、内ポケットを確かめていた。

 レストランでの食事を終え、薄暗い道を、一旦船に戻ろうと歩いていた途中だった。

「杏、バッグはどうしたの?」

「バッグ、って……あ、やば!」

 アイビーに尋ねられ、ショルダーバッグがないことに気付く。

「さっきのレストランに置いてきたか。ごめん、ちょっと取ってくるから、先に戻ってて」

「あ、杏――」

 アイビーが何か言うより早く、黒い長髪が大きく揺れ、長身の姿が元来た道を駆けていく。先に行ってとは言われたものの、なぜだか酷く胸騒ぎがして、アイビーは物陰に身を潜めるようにして縮こまり、杏が戻るのを待っていた。

 鈍い音。一瞬聞こえた怒声に身を竦ませる。

 バッグにつけていたキーホルダーウォッチで時間を確かめる。五分、十分、と時間は過ぎていく。

(遅いな……)

 時計を見る。既に杏がレストランに向かってから二十分以上経っている。ここからレストランまでは、まだそれほど離れているわけではない。十五分もあれば、行って戻ってくるには充分なはずだ。

 立ち上がり、レストランに向かって歩く。その途中、街灯に照らされて、何か青いものが光った。

 青い陶製のビーズだ。よく見れば、辺りにはビーズが散乱している。

 このビーズを通したネックレスを、杏は買って着けていた。それがここに散乱しているということは。

 きゅっと唇を真一文字に結んだアイビーは、歯車の扉に向かって走り出した。

 

 ゆっくりと目を開ける。どういう訳か身体はろくに動かせず、辛うじて首だけが動かせる状態だ。

 目の焦点が合い始める。それと同時に、どこかの部屋にいるらしいということと、自分が座った姿勢で縛られているということが分かってきた。

 天井から吊るされた電灯が、部屋を照らしている。部屋の中には自分以外にも、複数の女が縛られていた。全員、杏と同じ、黒髪の女だ。

(あー、バッグ取りに行った帰りに襲われたんだっけ、そういえば)

 記憶が繋がる。

「あの、大丈夫ですか?」

 意識がしっかりしてきたところへ、すぐ後ろから声がかかる。

「ああうん。そっちも襲われたクチ?」

「ええ、まあ。あなたも、なんですね」

 声からして、相手も女だろう。

 肯定の返事を返しながら、肩をひねる。

「そうだ、アンタ、名前は?」

「ターニャ」

「ターニャ、誰が襲ってきたとか、覚えてる?」

「その――」

 ターニャが言いかけたとき、みしりと軋む音が杏の耳に届いた。背後でターニャが息を呑む。ぐずぐずしてはいられない。杏は息を止めて、思い切り肩を捻った。

 左肩から嫌な音。同時に痛みが走る。少し緩んだ縄から手を抜き、次いで足の縄も解く。

(よし)

 昔覚えた縄抜けの術が、こんなところで役に立つとは。人生分からないものだ。

 左肩を庇いつつ、荷物を探していると、壁際の箱の中に、自分のジャケットとバッグが入っているのを見つけた。何もなくなっていないことを確認し、ジャケットを手に取った、その時だった。

 ドアが開いた。戸口に人影が立っている。黒に近い焦茶色の髪に、同じ色の目をした眼鏡の男。

 光に照らされたその肌に、浮かび上がるのは緑の斑点。

 すっと目を細めた男が腕を伸ばす。とっさに杏がターニャと共に床に伏せるのと同時に、伸ばした腕の先が微かな音と共に火を噴いた。

 杏の後頭部をかすめ、弾丸が壁にめり込む。

「ターニャ? ちゃんと言うことを聞かなきゃ、駄目じゃないかぁ。君が逃がそうとしたんだろぉ?」

 絡みつくような男の声。イーゴリ、と何か言いたげにターニャが口を開きかける。

 その前に一つ鼻を鳴らして、杏は立ち上がった。

「馬ァ鹿。縄はアタシが解いたんだよ。黒髪の女に執着してるって話、さてはアンタのことだね?」

 周囲からかすかなざわめきが広がる。

「執着? やだなぁ、僕が悪いんじゃないよ? そこのターニャが悪いのさ。僕を捨てたりするから……他の男と行ったりするから……女はいつもそうだ。僕に気がある風をするくせに、結局は僕を捨てていくんだ。だからさぁ、教えてやることにしたんだよ。僕の恨みってやつをねぇ? 皆泣いて、命乞いをしてたよ。あははは、そんなことをしたって許すわけないのにさァ――!?」

 鈍い音。杏の拳がイーゴリの顎を正確に捉えていた。冷え冷えとした目が男を見下ろす。

「一人前に御託並べてんじゃねェよ、三下。んなもん手前ェの勘違いじゃねえか。勘違い野郎が、一人前に執着してんじゃねェ!」

 至近距離から放たれた銃弾が、杏の耳元を掠める。

「お前に何が分かる……女に……女に何が分かるッ!」

 イーゴリが叫ぶと同時、その後ろから男に寄り掛かるように、蟻に似た『蟲』が姿を現した。

「おーいおい、大型のがいるとは聞いてたけどさ」

 掲示板の文面を思い出す。

『通常より大きな蟲が5体ほど確認できています。』

 知っていたとはいえ、成人男性並みの大きさは想定外だ。

 杏は咄嗟にジャケットの内ポケットから武器を引き出した。エアガン――十八歳向けの、高威力のものに更に改造を加えたもの――が、杏の蟲退治の武器だ。威力を高め、重さも本物の拳銃と変わらないそれは、鉛玉ではなくBB弾を放つ。『人を殺す』武器ではなく、『蟲を殺す』ための武器として、乗船時に杏が選んだのがこれだった。

 縄から抜けるときに脱臼させた左肩を庇いながら、右手でエアガンを持つ。引き金を引いたが、発射された弾は蟻の外殻に弾かれる。

 入れ違いに放たれた弾丸が、今度は左腕を掠める。

「嫌……嫌、死にたくない、死にたくない!」

 背後でそんな声が聞こえた。まさか、と思った瞬間、がしり、と後ろから抱きつかれる。

「ター、ニャ?」

 前に回された女の腕にも、緑の斑点が浮かんでいた。

 杏が縄から抜けたとき、後ろで縛られていたターニャの縄も緩んでいたのだろう。彼女が脇目もふらずに逃げていれば良かったが、そうはならず、この空間の中で、ターニャは生に『執着』してしまった。

 脱臼している肩を掴まれ、思わずくぐもった呻きを漏らす。

 黒い銃口が、杏に向けられる。イーゴリの口が笑みを作る。気のせいか、蟲すらも嬉しそうに見えた。

 そして、銃声が響いた。

 一瞬、撃たれた、と思ったが、それにしては撃たれた感覚がない。そもそも、消音器の付いた拳銃から、辺りに響くような銃声がする訳がない。

 銃声に驚いたのか、イーゴリが怯み、ターニャの腕が緩む。その機を逃さず振りほどくと、ターニャに向き直り、エアガンを持ったまま当て身を喰らわせた。

 声もなく崩れ落ちたターニャに、周囲から再びざわめきが起こる。

「死んじゃいないよ。死にたくないなら、そこでじっとしてな!」

 幸いと言うべきか、他の女達は皆縛られたままだ。ターニャのように蟲に食われたとしても、動くことは難しいはず。

 とはいえ、杏も反撃のきっかけを掴めずにいた。未だに銃口は自分に向けられており、下手に動けば鉛玉が飛んでくるのは間違いない。

 その時、蟲の向こうに長い金髪と、光を受けて反射する銀の刃が見えた。

 何をするより先に、杏はエアガンを天井に向け、揺れる蛍光灯目掛けて弾を発射した。

 他よりも柔らかな関節部に剣の一撃を受けた蟲が、カチカチと牙を鳴らす。まるで悲鳴をあげるように。そこへ追撃のように、銃弾が浴びせられる。

 割られた蛍光灯から光が消える。廊下から差し込む光が、今や唯一の光源だった。

「何だお前――」

 言い終わる前に、玉散る刃がイーゴリの身体を深々と切り裂く。その一閃は、彼の命を奪うには充分だった。

 返り血を気にした様子もなく、佇む人影。杏が何か言う前に、人影の背後で蟲が頭をもたげる。

「ルシャーチ! 後ろ!」

 ぱっと振り返ったルシャーチが、手にしていた血塗れの剣を蟻に突き立てる。

 その間に杏は、倒れているターニャにジャケットを被せ、ルシャーチから肌が見えないように隠していた。

 ターニャが蟲に食われたことを彼が知れば、ルシャーチは必ず彼女を殺すだろうから。

 イーゴリが殺される分には何とも思わないが、ターニャは殺させたくなかった。例え彼女に、何か非があったとしても。

 そうしている間にも、蟲は弱っていく。幾度も関節部に剣を受け、銃弾を受け、ついにその頭が、ぽとりと床に落ちた。

 生命を絶たれた蟲が、崩れるように消えていく。どうやら、蟲はこの一匹だけだったらしい。

「サンキュ、ルシャーチ。助かった」

「いや」

 言葉少なにルシャーチは答え、剣に付いた血を拭う。

「大丈夫?」

 階段から、オリビアとアイビーが顔を覗かせる。オリビアが手にしている拳銃からは、まだ薄く煙が上がっている。

「ありがとう。アタシは平気。それより、中の人達の縄を解いておかないとね」

 ターニャを含め、この部屋にいたのは七人。二人ずつ縛られていた女達は、かなり長時間縛られていたのか、立つことも容易でない様子だった。

 他に人はいないかと、隣の部屋のノブに手をかける。僅かにドアを開き、顔を顰めた杏はパタンとドアを閉めた。

「どうしたの?」

「こっちは駄目だ。誰かいたとしても、……多分、生きてない」

 低い声で、オリビアに答える。ドアを開けようとして、杏が真っ先に気付いたのは、鉄錆にも似た、血の臭いだった。イーゴリがこの部屋で何をしてきたのか、彼の言葉を思い返すでもなく容易に想像がつく。

「戻ろう。後はアタシたちの仕事じゃない」

 額に浮いた脂汗を拭いつつ、声をかける。

 船までの帰り道では、来た方向へと向かうパトカーと何度かすれ違った。誰かが通報したのだろう。

「あなた、肩をどうかしたの?」

 三台目のパトカーとすれ違った後、左腕をだらりと垂らす杏の様子に、オリビアが気付いた。

「いや、縄を抜けようとして外したのはいいんだけど、はめてる余裕がなくてさ」

 まあ、とオリビアが目を丸くする。

 オリビアの手を借りて肩をはめ、有り合わせの布で固定する。

「でも、よくあそこにいるって分かったね?」

「ええ。アイビーちゃんが知らせに来てくれたし、あの辺りで黒髪の女性がいなくなってるって話は、私も聞いていたし、それに、あの家に蟲が入っていくのを見つけたから。とにかく、無事でよかった」

 オリビアの笑みに合わせ、杏も口の端を上げた。

 

――後日。ロシアのとある地方新聞。

 ×日夜、イワン・ユージン氏の自宅にて、同氏の息子イーゴリ・ユージン氏が何者かによって殺害されているのが、通報を受けた警察官によって発見された。

 ユージン家の地下室には数名の女性が捕らわれており、また彼女達の証言から、イーゴリ氏が最近の失踪事件に関わっていたことが発覚した。

 警察では、イーゴリ氏が共犯者と仲間割れを起こした末に殺害されたものとして捜査を進めている。

 また、現場の状況から、捕まっていたとみられる女性が一名行方不明となっており、警察では何か事情を知っているものとして、その女性の行方を追っている。

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