古谷の名
「おー、思ったより高いなー」
福知山城の天守閣の窓から、眼下に広がる街並みを眺めていた杏が、そう感嘆する。隣でアイビーが小さくうなずいた。
京都市から電車でおよそ二時間。山に囲まれた盆地にある福知山市は、その昔、明智光秀によって平定された土地である。市に古くから伝わる民謡にも、「明智光秀丹波をひろめ ひろめ丹波の福知山」と謡われ、市内には光秀を祀る御霊神社が建つほか、市内を流れる由良川には、光秀が治水のために作ったとされる『明智藪』が今でも残っている。
現在では城の天守閣部分が復元され、資料館として運営されているが、最上階は展望台となっており、部屋の三方から、街並みと市を囲む山並みを眺められた。
ちなみに、入館料はかなり安い。城のそばに建つ美術館との共通券を買ったとしても、五百円あればお釣りがくる。
「一桁間違ってんじゃないのか、これ」
などと、値段を聞いた杏が不躾にものたまったほどだ。
「しっかしほんと、高い建物ってないんだな」
「ここくらい?」
「じゃないか? ……さて、ひと通り中は見たし、そろそろ昼だし、なんか食べに行くか。駅前に、色々食べるとこあったし」
駅前の蕎麦屋で昼食をすませると、杏は少し行きたいところがある、とすぐ近くのバス停に向かった。アイビーも慌ててついて行く。駅前とはいえ、人は少ない。はぐれる心配はないが、見知った顔がそばにいないと不安になる。
顔に大きな傷のある女と、外国人の女。どちらも人目を引くには充分で、二人にはちらちらと、道行く人の視線が向けられる。アイビーは縮こまっていたが、杏は素知らぬ顔で辺りを眺めていた。
普段の杏なら、何かとアイビーに話を振るのだが、今の彼女は珍しく無口だった。
「杏は、この辺りの出身?」
「いや、でも親戚が住んでたからね。昔はよく遊びに来てたもんだ」
「そこに行くの?」
「まあね」
やがて来たバスに乗り、小さな無人駅で降りて、歩くことおよそ二十分。たどり着いたのはT区と呼ばれる小さな集落だった。
「あんた、阿蘭さんとこのお孫さんやろ? どうしたん、その顔」
杏の顔を見咎めて、行きあった年配の女が、そう声をかけてきた。
「ああ、化粧です、化粧。これからちょっと、今度大学でやる劇の練習をするんで」
「ああ、そうなん。頑張ってなあ」
はーい、と笑って答え、杏はちょっと息を吐いた。
「やれやれ。ほんとに化粧してくりゃ良かったか」
「あの人、なんで杏のこと知ってるの?」
横で二人の話を聞いていたアイビーが、女が去るのを待ってそう尋ねた。蟲と戦う船の住人は、船に乗るために契約したその瞬間、世界から嫌われ、その存在はなかったことになる。だから、誰であっても、杏を知っている人間が、船の住人以外でいるはずはない。
「あー、たぶん、アタシを知ってるわけじゃないんだよ。妹と間違えたんだろ」
「妹、いたの?」
「ああ。アタシが船に乗ったときは、ちょうど中学入ったばっかりだったっけ」
ふと、杏の口調が昔を懐かしむものになる。ちらりとアイビーが見上げた杏の顔は、いつも強気な彼女には似合わず、どこか寂しげだった。
そうなんだ、とは言ったものの、アイビーはそれ以上話を続ける言葉が見つからず、自然、二人の間には沈黙が落ちてきた。
道を歩きながら、沈黙を破って杏が口を開く。
「あの鳥居、見えるだろ。水の神様を祀ってる神社なんだけどさ、ちょっと面白い話があるんだよ」
「面白い話?」
「そう。何でも神社が建つ前、沼のほとりに生えてた大木の枝に、夜な夜な赤い火が灯って、大騒ぎになったんだって。もちろん、誰もそんなことするやつはいないんだけど、毎晩毎晩、火が灯る……ん?」
その神社が見えるところまで来て、杏は足を止め、首を傾げた。道の先、左手には神社があり、右手には石の柵で囲まれた、小さな池がある。
「どうしたの?」
「……変だな。池、神社の奥にあったはずだけど」
「え? じゃあ、杏がいた世界とは違う、とか」
船が停泊する世界は、いつも同じとは限らない。自分が知る世界――すなわち、自分が生きていた世界ではない、平行世界であることもある。前回停泊した異文世界ほど、大きな差がある世界ではなくとも、平行世界ゆえの齟齬はありうる。
池のそばには、白い看板が二つ建てられている。片手で目庇を作って日差しを遮りながらその文章を読んだ杏は、なるほど、とうなずいた。
「あぁ、移築されたのか。道理で場所が違うわけだ」
「ところで、木に火が灯ってどうなったの?」
「ああ、それで、村人が相談してるところに山伏がやってきて、神社を建てることを勧めたんだって。言うとおりに神社を建てたら、その日から火は灯らなくなったらしいよ」
「……そういうの、紅花の方が好きだと思うんだけど」
珍しげに神社の敷地を見回しているアイビーと、ぐるりと社を拝んでまわる。
「こういうジンジャって、人が住んでるんじゃないの?」
「ここは小さいからね。普段は地区の人が管理して、祭りのときだけ呼んでくるらしいよ。さて、そろそろ行くか」
杏の目的は地区の外れ、他の家から離れたところにぽつんと建つ家だった。
決して小さな家ではない。どっしりとした構えの、いかにも田舎の旧家といった風情の家である。
ちょうど花の時期で、庭先の銀木犀が白い花を点々とつけ、独特の甘い香りが漂っている。
杏がそこで足を止めたのと、向こうからやってきた人影が、小さく息を呑んで立ちすくんだのはほぼ同時だった。
杏の背後から人影を見たアイビーの目が、丸く見開かれる。
「あ、あなた……」
「ん?」
二人の視線が、一瞬交錯する。
風にあおられる、黒い長髪。すっと切り込みをいれたような、鋭い目。違いはといえば、傷跡の有無くらいしかないほどに、その女は杏に良く似ていた。
「と……アタシに何か用?」
あっけに取られていたのはほんの一瞬。笑みを作った杏がそう問いかけると、女はきっと杏に険しい目を向けた。
女が、何か激しい言葉を浴びせかけようとしたとき、がたがたと玄関の引き戸が開き、中から弓のように腰の曲がった、ちんまりとした老婆が現れた。
「凍花ちゃん、お友達かい? 上がってもらい」
「こんにちはー」
「コ、コンニチハ」
「こんにちは。何もないけどゆっくりしていってねえ」
「ありがとうございます」
杏は如才なく笑って頭を下げ、それを見た女――古谷凍花は、ため息をついて二人を家に入れた。名を聞かれ、杏はすらすらと「木口アン」と答えた。
「いや、驚いたね。世界には自分に似た人が三人はいるっていうけど、まさか自分が経験するとはね」
あはは、と声をあげて笑いながら、杏がまっさきに口を切る。まだ怪訝な顔で、凍花は眉を寄せた。
「私はそういうことを信じませんので」
「おや、そうだったかい? ところでちょっと聞きたいんだけど、アンタ、何か無理してないかい?」
「あなたのせいです!」
座卓を拳で叩き、凍花が声を張り上げる。その剣幕にアイビーはびくりと肩を震わせ、杏の影に隠れるように縮こまった。杏は一瞬、あっけに取られたように目を見開く。彼女の視線は、凍花の首筋に向けられていた。色白の首筋から、一瞬青い色がのぞいたように見えた。
「どうしたん、凍花ちゃん。そんな怒鳴ったらあかんやないの。ほら、お茶いれたさかいに」
先の老婆が、盆に湯呑を三つ置いて顔をのぞかせる。そのおぼつかない手つきに、杏はつと手を伸ばして盆ごと湯呑を受け取った。
「おおけに(ありがとう)。ほんならごゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。ああ、すみません。連れがお手洗いを貸していただきたいそうなんですが、どちらにありますか?」
場所を教わってから、アイビーを小突き、杏が立ち上がる。トイレのそばに、人がいないことを確認して、杏は英語で早口に、アイビーにささやいた。
『アイビー、凍花から目を離すんじゃないよ』
『何で?』
『さっき、青いものが見えた気がする』
青いもの、と聞いて、アイビーの顔が緊張する。
“喰らわれている人には「青色」の輝きが見えます。”
“蟲の形状は「蜘蛛』に近いものとなります。”
掲示板に張り出されていた内容が、アイビーの頭をよぎった。
『わ、分かった。でも、夜はどうするの?』
『ま、そこはまかせときなって』
とん、と、杏が胸を叩く。その態度の通り、その後で杏はあっさりと、今夜泊まる許可を老婆から得てしまった。
夜、日付が変わるころ、寝室代わりの仏間に敷かれた布団の上で、アイビーはまんじりともせずに座っていた。慣れない場所で寝付けなかったのだ。隣の杏は、十分前には既に寝息を立てている。
慣れない環境で、神経が尖っていたアイビーの耳に、からからと玄関の引き戸をくる音が飛び込んできた。
(こんな夜中に?)
寝ていた杏を揺り起こす。誰かが出ていったと聞き、杏はすぐさま、借り物の、パジャマ代わりのトレーナーの上からジャケットを引っかけた。アイビーもそれにならって上着を着ている間に、杏は枕で布団を膨らませていた。
玄関から外に出ると、夜の寒さが二人を抱きすくめた。周囲には街灯もなく、闇が辺りを包み隠している。
そんな中を、白っぽい明かりがひとつ、揺れながら遠ざかっていく。
「行くよ」
ぐいっとアイビーの手を引き、杏が歩み出す。闇に目が慣れてくると、自分達が向かっているのが、神社の方向だと見当がついた。
前を歩く人影は、だんだんその輪郭がはっきりしてくる。手に持つ明かりのせいだけでなく、暗闇に、その人影が、青く浮かび上がってきたせいでもあった。
その人影が、紛れもなく凍花だと気付き、杏が舌打ちを漏らす。凍花は手に、ポリタンクを持っていた。
「杏、神社が建ってから、火が灯らなくなったって言ったよね」
「ああ」
「じゃあ、あれ、なに……?」
アイビーの指差した先、人影が向かう先には、石造りの鳥居がある。その上に、ぞろりと並んだ赤い光。その下に、青い輝きを放つ凍花が立つ。
「凍花!」
はっと振り返った凍花の顔は、怒ったときの杏そっくりだった。その姿を、青い輝きが縁取り、浮かび上がらせる。
瞬間、杏が懐から出したエアガンを、赤い光に向けて引鉄を引いた。光の主――蜘蛛に似た蟲が、ばたばたともがいて落ちてくる。それを見て、アイビーがウエストポーチから鞭を引き出し、だっと駆け出した。
「やめな、凍花。それはやっちゃいけないよ」
「邪魔しないで!」
ばしゃりと、凍花がポリタンクの中身をぶちまける。鼻をつくその臭いに、二人はそれが灯油だと気が付いた。
「あんたに何が分かるの? いつもいつも、皆私が古谷の人間だからってだけで、やくざだって言ってまともだって考えてもくれない! それならいっそ、思われてる通りの悪人になったほうがましよ!」
叫びに呼応するように、蟲がその身体を持ち上げた。転瞬、鋭く空を裂いたアイビーの鞭が、音を立てて蟲を打ちすえる。
「やかましい、この罰当たり! 須美ばあちゃんに迷惑かけんじゃねえ!」
鞭の音に被さるように、杏の怒鳴り声が響く。怒鳴ると同時に杏は凍花の腕、肘の近くを蹴り飛ばしたので、たまらず凍花は、今しも点火しようとしていたライターを、その手から取り落した。
「うるさい、うるさいうるさい! あたしに指図すんなッ!」
ライターを拾おうとかがんだ凍花を、杏はためらいもなく蹴飛ばした。
呻きつつも立ち上がり、ポリタンクを振り回す凍花。こぼれた灯油が、杏にも降りかかる。
知っている。“古谷”という名のせいで、どれほど彼女が苦労してきたのか。周りからは常に色眼鏡で見られ続ける日々が、どれほど辛いか。なぜなら、それは自分も通ってきた道だから。
(だからアタシは、船に乗った)
家族を守りたい。その思いはあった。だが、逃げたい、という思いもあった。船に乗れば、古谷杏という人間は、世界から消えるから。いなかったことになるから。
「悪いけど、指図はさせてもらうよ。アンタがやってることは、見逃せることじゃないからね」
黙れ、と叫ぶ凍花の後ろで、アイビーが、蟲の吐き出した糸を避けつつ、鞭をその足の一本に絡みつかせてもぎとっていた。
「あんた何なの! 何の権利があってあたしのやることに口を出すわけ!?」
「アタシがアンタの姉だからだ、よっ!」
突き出された拳を避け、蟲に向けてもう一発、弾を撃ち込む。
「はあ!? 何言ってんの、あんたなんか知らないよ!」
ふと、杏の口元に切なげな苦笑が浮かぶ。契約したその瞬間に、世界からいないことになった杏の記憶は、妹の中からも消えている。
「アンタが知らなかろうが、ほんとだよ」
重々しい声。凍花の腕を掴み、強く引き寄せざま、その腹に拳を沈める。ぐたりとなった凍花を鳥居に寄りかからせる。その向こうでは、アイビーが蟲の足をまた一本、もぎとったところだった。
すかさずまた一つ、杏が蟲の目を潰す。もはやまともに動けない蟲は、アイビーのひと打ちで、さらさらと消えていった。
ぽつり、と、鼻先に雫が落ちてくる。それまで雲ひとつなかった空に、急に黒雲が陰り、大粒の雨が降ってきた。
「恵みの雨、かねえ?」
杏が凍花を担ぎ、空のポリタンクをアイビーが持って家まで戻る。三人の外出は誰にも気付かれなかったらしい。
翌朝、老婆に見送られ、二人は家を後にした。
駅へ向かう二人の後ろから、クラクションの音。振り返ると、軽自動車が停まっている。
「送ってあげるわ。どうせ私も駅まで行くし」
「そりゃありがたい」
二人が乗りこんだのを確認して、車が走り出す。
「木口さん? あなたがあたしの姉だって、本当なの?」
「うん? アタシは一人っ子だけど?」
「え、でも昨日……」
「夢でも見たんじゃないか? 昨日アンタ疲れてるみたいだったし、なあ、アイビー」
「う、うん……」
こっくりうなずいたアイビーを、ミラー越しに見た凍花は、まだ納得しかねる顔で車を走らせる。
最寄りの無人駅ではなく、昨日バスに乗った市内の駅で、二人は車を降りた。
「じゃあ、元気でな、凍花」
降りるときにそう言い置いて、杏はすたすたと駅の構内に入っていく。
「お、お世話になりました! 待ってって、杏!」
遠ざかる二人を、凍花はつかの間運転席から眺めていた。
「蟲のこと、言わなくてよかったの?」
「ああ、いいんだよ。言ったところで信じないだろうし、それに、古谷の家で船に乗るのは、アタシだけでいいよ。どっちみち、今もし凍花が船に乗ったって、アタシを思い出すわけじゃないし」
そう言って、杏は座席にもたれかかって目を閉じた。