古都に巣食う蟲
時空の狭間を航行していた船が、現実世界に停泊する。
今回の停泊地は日本の京都。夏は連日三十度を超えていたという京都も、十月も下旬となればさすがに朝晩は涼しく、日中もおおむね二十度台を保っている。
夏の間は盆地という土地柄に特有の蒸し暑さにげんなりとしていた人々も、このころには生気を取り戻している十月二十日、日曜日の正午過ぎ。
京都市を通る地下鉄のK――駅の出口から、ふらりと出てきた人影がある。
その人は濃紺の丈の長い上着を着てフードを目深にかぶり、右手に白木の杖を持っている。
小柄ではあるが背筋がしゃんと伸びており、外にのぞいている口元や手に皺のひとつもないところを見ると、まだ若者らしい。
大学の多い京都という土地柄、これは珍しいことではないが、K――駅は歩いて十分とかからないところにK大学がキャンパスを構えており、駅から出てくるのも学生らしい若者が多い。
若者――ミスルトウは少し首をひねっていたが、やがて、
「あの、御免なさい。ここから植物園にはどう行けばいいのかな」
そばを通りかかった女を捕まえてそう訊ねた。
船がどこへ停まろうが、よほどのことがなければ実家のしきたりと言い張って頑なにフードを下ろさないミスルトウだが、意外にも停泊地で現地の人間から遠巻きにされることは少ない。
穏やかな声と仕草が相手の警戒心や緊張を緩めるのかもしれない。
ミスルトウに捕まったのは二十歳くらいの若い女で、黒い髪をショートカットにし、眼鏡をかけ、大きなショルダーバッグを斜めがけにしている。
相手が自分より背が高いので、ミスルトウは自然と首をあおる格好になり、かぶっていたフードが後ろにずれた。
ぱっと顔面を緊張させたミスルトウは、慌ててフードを押さえた。
乗船した今となってはその必要がないのはわかっているが、それでも無闇に素顔を人前に晒すことには抵抗が強い。
女のほうでは度の強い眼鏡の奥の細い目をしばたたき、きょとんとミスルトウを見ていたが、それでも邪険にすることもなく、親切に道を教えてくれた。
「いや、有難う」
ぺこりと頭を下げ、ミスルトウは教えられた方向へ歩き出した。
植物園の入り口は駅の出口から西に歩いて五分ばかりのところにあり、開催されていたり、開催予定の展示会のお知らせがあれこれと貼りだされていた。秋のバラ展に菊花展、秋の洋ランと着生植物展、きのこ展……。
入園料を支払い、中を見て回る。
広い。
噴水を横目に通りすぎるとその先は竹笹園に牡丹・芍薬園。そこから少し歩くと道の両側にクスノキの並木、幹越しに右手側には芝生が見え、左手側には薔薇園がうかがえる。
植物園という場所が物珍しく、ゆっくりと見て回っていたミスルトウは、どこかでひと息つこうと入口でもらった園内の地図を取り出した。
地図によると、今いる場所からもう少し歩いたところにカフェがあるらしい。
カフェをのぞいてみると、昼どきをすぎているのと平日ということもあって、思っていたほど混んではいない。
紅茶の食券を買ったミスルトウが、運ばれてくるのを座って待っていると、ひと組の男女がやってきた。
「ユキ、どれにする?」
「え、うーん、どれにしようかな……あ、牛丼とか美味しそう。シンヤは?」
「牛丼? やめとけよお前、そんなの誰かに見られたら恥ずかしいじゃん。インスタにもあげるんだろ? ほら、ピラフにしとけよ。そっちのが写真撮っても映えるだろ? 俺は中華丼にする」
「ええー……わかったあ……」
小耳に挟んだ会話。横目に見ると、若い男女が食券機の前で話をしていた。
ユキと呼ばれた女は二十歳くらい。背の中ほどまで届く黒い髪を下ろし、白いカーディガンにグレーのロングスカート、茶色いブーツをはいて、小さなバッグを肩から提げている。
連れのシンヤなる男のほうも女と同年くらい。背が高く、がっちりとした体格で、何かスポーツでもやっているように思われる。髪を金色に染め、耳に小さなピアスをつけている。紺色のパーカーに黒っぽいパンツ、スニーカー。
話の内容は理解できない部分もあったが、どうやらシンヤがユキが選ぼうとしたメニューに対してケチを付けているらしいことはミスルトウにも知れた。
そこへ紅茶が運ばれてきた。温かい紅茶を少しずつ飲みながら園内の地図を広げる。
「うわ、なんだあいつ、ヤバい奴いるじゃん」
「ちょっと、やめなよ」
カシャ、と音。
ちらりと見ると、シンヤがスマートフォンをミスルトウのほうへ向けていた。
状況がのみこめないミスルトウが、紅茶がまだ半分ほど残ったカップを手にぽかんとしている間に、さらにカシャカシャとシャッターが切られる音がする。
「僕を撮っているのかな」
「あ? だったら何だってんだよ」
ようやく声を出すと、ぎろりと睨まれる。もっとも、ミスルトウにとってはそれくらいは大したことはない。
「やめなって、シンヤ……」
ユキが弱々しく男を止めたが、シンヤは歯牙にもかけない。
「撮るのを止めてもらえないかな」
「だから、撮った証拠があるのかって言うんだよ」
「それ、写真を記録しているんだろう。見せてもらえないかい」
「は? バッカじゃねえの。渡すわけねーじゃん。大体そんな格好してるから悪いんだろ」
不意にシンヤが腕を伸ばすや、さっとミスルトウのフードをはいだ。
肩すれすれに切りそろえられた、真っ白い髪があらわになる。
「うわ、なんだよお前、気持ち悪ぃ」
思わず凍りついたミスルトウとは逆に、また何枚か写真を撮ったらしいシンヤは勝手な言葉を吐いている。
「気の毒に。此方はどうやらおツムにまで血がめぐっていないようだね」
怒りと屈辱に小さく身体を震わせ、冷ややかにそう吐き捨てたミスルトウだったが、表面上は落ち着いてフードをかぶり、こつこつと杖の音を立てながらその場を後にした。
後ろではなにやらざわついていたが、ミスルトウはそちらにはもう目もくれなかった。