夜明けの前の暗闇に

 暗い船室で、黄康ホアンカンは壁にもたれて座っていた。
 しばらくうつらうつらと舟をこいでいた彼は、不意にぎくりと頭を起こした。
 浅い呼吸をくりかえしながら、額に浮いた汗を拭う。
(夢か……)
 戦地の――泅魏しゅうぎの夢。いつも見る夢だった。
 眼の前で人が死んでいく。仲間が、顔見知りが、敵兵が。
 死人は自分を罵倒し、なじり、苛む。
 なぜお前だけが生きているのか、と。人殺しの罪人、ただの人でなしのくせに、と。
 眠ればいつも戦場の夢を見る。眠って気が休まったことはない。
 ふと、濃い血臭が鼻をついた。
 はっとして自身を見下ろすと、全身がどっぷりと血に濡れていた。
 床にも鮮血が広がっている。
 血の海の中から、ずるり、と、幾本もの手が伸びてきた。
 喉の奥で低い呻き声をあげたカンが、再び自身の身体を見下ろすと、血は一滴もついていない。当然、床の血溜まりも伸びてきた手もない。
 大きく息を吐いたカンの目が、片隅に押しやるように置かれたテーブルに向く。
 テーブルの上には拳銃が乗っている。船に乗るときに持ってきた、大型の軍用拳銃である。
 のろのろと立ち上がったカンは、魅入られたようにその拳銃を見つめていた。
 全てを終わらせたいのなら、これを使えばいい。銃口を自分に向けて、引鉄ひきがねを引けばそれですむ。確実なものにするなら、銃口を咥えるか顎の下に当てればいい。
 かつて泅魏しゅうぎで、そうやって死んだ兵もいた。
 拳銃に手を伸ばす。
 掌に伝わったひやりとした感覚に、カンは我に返って手を離した。
 自分が死ねば、姉家族を護る人間がいなくなる。
 だが――人でなしの自分に、そんな資格はあるのだろうか。
 その後、半ば日課となっているテオとアルギスとの訓練を終えて、カンはふらりと後甲板に足を向けた。
 のろのろと、頭を垂れて歩くカンの姿からは、彼の煩悶と心痛とがはっきりとうかがえた。
 黒かった髪は半白となり、前髪が目を隠すように垂れている。落ちくぼんだ目の下には濃い隈ができ、その面には自嘲と自責が入り混じった表情が貼り付いていた。
「おい、聞いたぞ。お前、人を殺したんだって? 何が『人を殺せない』だよ、良い人ぶって、この人殺し!」
 すれ違った青年が、そう声を投げる。
「……」
 カンはその言葉に答えなかったが、その顔は苦痛をこらえるように歪んだ。
「何だよ、何とか言えよ。澄ました顔――」
 カンの右耳をかすめて、赤いものが青年の顔にぶち当たった。
 を゛、と濁った声を上げた青年が鼻を押さえてうずくまる。手の下から床へ、ぽたぽたと血が滴った。
 虚をつかれたカンの足元に、ころころと何かが転がってくる。未開封のジュースの缶だった。
手前テメエ、その台詞、アタシに言ってみろよ。どうせアタシには言えねえんだろチキン野郎」
 尖った声が後ろから飛んできた。
 カンの肩越しに声の主、古谷杏の姿を見て、青年は鼻を押さえたまま、その場からそそくさと逃げ出した。
 この青年は以前、カンに余計なことを言った挙句、そばでそれを聞いていた杏を激怒させたことがある。そのことを思い出したらしい。
 はあ、と息を吐いた杏は、気がおさまらなかったのか、怒りを顔に残したまま、いきなりカンの胸倉を掴んだ。
「アンタも! いい加減一人で抱えてないで愚痴の一つでも言いやがれ!」
「言ったところでどうなる!」
 はじめてカンが声を荒げた。生気のない、黒い瞳に一瞬だけ炎が燃える。
 反射的に、カンは杏の手を振り払っていた。
 ぱん、と鳴った音に、つかの間二人とも動きを止める。
 再び痛みをこらえるように顔をしかめ、杏をその場に残して、カンは先よりは少し足を早めてその場を歩き去った。
 廊下から甲板へ出る。
 後甲板には誰もいない。
 停泊していた世界から錨を上げ、蟲を追う船は時空の狭間を航行していた。
 甲板の柵に肘をつき、うなだれる。
 船が出航する前から、カンは懊悩し、苦悶し続けていた。
 直前の停泊地で、彼はその世界の人間を手にかけていた。
 命令されたわけでもなく、強制されたわけでもなく、彼はまぎれもなく自らの意思でもって、相手の生命を奪ったのだった。
 自分が何の躊躇ちゅうちょもなく、人を殺せる人間だと突き付けられた絶望、少年のころから多くの敵兵を手にかけてきた罪悪感、部隊の人間が次々と命を落とすなか、自分だけが生き残り、国を去った自責の念。そういったものが彼を押し潰さんばかりに積み上がっていた。
 故郷であれば、泅魏しゅうぎであれば、まだ自分の良心への言い訳は立っていた。戦場だった、上官の命令だった、逆らうことは許されなかった、と。それでも少しずつ、心はすり減っていたのだが。
 だが今いるのは戦場ではなく、命令する上官もいない。良心への申し開きはもうできない。
 人を撃てない、と思っていた。撃てないはずだった。その一事が、カンにとっての枷であり、支えでもあった。
 だがその枷は枷とならず、カンがかろうじて拠り所としていたもの、精神的に柱としていたものは崩れてしまった。
 自身を責め苛む相手が上官だったなら、彼もここまで苦悩しなかっただろう。
 上官から与えられる罰なら、その罰を決められた期間受ければ良い。それに少なくとも、自分の行動に対しての弁解はできる。
 だが彼は良心という上官に対しては、どういう態度を取るべきかわからなかった。この罰がいつまで続くのか、そしてどう弁解すればいいのか知らなかった。
 今のカンは、先のない闇の中を、出口を求めて彷徨っているようなものだった。
 既に彼は闇の中で自身を見失っていた。それでもなお、それを表に見せまいとする性格のために、彼はいよいよ自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
 カンの頭の中でずっと巡っている考えは、再び同じところへ戻ってきた。
 すなわち、自分は人殺しだ、と。
 自分が殺したのは、敵兵ばかりではない。
 軍規を破った同じ部隊の兵を殺したこともあった。兵士ではない民間人が戦闘の巻き添えになったこともあった。
 少年のころから、西ヨーロッパの人間は敵だと教えこまれてきた。だが、実際に対峙した西の兵は、別に角が生えた異形であるわけでも目が三つあるわけでもない。自分たちと同じ、喜怒哀楽を持つ人間だった。
 人の声が聞こえる。
 視界を土埃が遮る。
 飛んできた鉛弾が頬をかすめる。
 はっとしたその瞬間、視界は再び時空の狭間に戻っていた。
 カンは柵を掴み、肩を忙しく上下させていた。
 柵から身を乗り出し、カンはじっと狭間の景色を眺めていた。
 星のような銀砂の光以外で見えるものは、吸いこまれそうな闇ばかりだった。
 しばらく闇を注視していたカンは、不意の衝動に突き動かされるまま、柵を掴む手に力をこめて甲板を蹴った。