夜明けの前の暗闇に

 テオとアルギスが後甲板に足を向けたのは、全くの偶然と気紛れによるものだった。
 船内から甲板に出、そこに立っている男を見たとき、二人は一瞬言葉を失った。
 男はこちらに背を向けて佇んでいた。柵を両手で掴み、身体を支えている。
 それだけなら特に問題ではなかったろうが、その男は柵の向こう側に立っていた。
 手を離せば、その身体は時空の狭間に落ちていくだろう。
「我在哪儿?(俺はどこにいるんだ?) 」
 哀しげな、そして恐ろしいほどに痛烈な響きを伴った声が二人の耳を打った。
「ちょ、カンさん、な、何やってるんですか!」
「景色を見ている」
 平坦な声で、男が――カンが答え、柵を握ったまま上体をひねる。
 ふり返ったカンは微笑を顔に貼り付けていたが、その顔はひどく青ざめていた。まるで幽鬼か何かのように思われた。
「と、とりあえずこっちに……!」
 おろおろとテオが声をかける。
「――殺すしかないと思った」
「え?」
「――こちらが殺される前に、殺すしかないと思った」
 二人の存在を忘れているかのように、正面を向いたカンは単調に言葉を続けた。二人に聞かせるためというよりは独語に近い。
「人殺しに生きている価値がないのなら――俺には、生きている価値はない。あるいは……俺はあの戦場で死んでいるべきだったのかもしれない。……ああ、そうだ。俺は生きているべきじゃ――」
 カンの手が柵から離れるよりも早く、駆け寄ったアルギスがその腕を掴んでいた。
 ぎょっとした様子で、カンが身体を捻ってアルギスのほうを向く。
 灰色の髪の下から、生気のない目がアルギスを見ていた。
 大きく溜息をついたカンは、離してくれるか、と低い声で言った。
「飛び降りないのなら」
「ああ、わかってる」
 力が緩んだアルギスの手を外し、慎重に身体を反転させたカンは柵を乗り越えた。
 甲板に足をつけ、カンは力が抜けた様子でずるずるとその場に座りこんだ。
「……きついな」
 うなだれたカンが、両手に顔を埋めて低い声を漏らす。
 これまでは何か聞かれても「大丈夫」、「何でもない」と答えてきたカンが、はじめて心情を吐露した。
「寝ても覚めても、戦場のことが頭から離れない。ずっと誰かに責められている。……一度くらいは、夢を見ずにゆっくり眠りたい」
 ほとんど聞き取れるか聞き取れないかというくらいの、平坦な弱々しい声。しかしそこにこめられた絶望は恐ろしいほど激しく、そして悲痛なものだった。
「俺は人殺しだ。人殺しには――人など救えない」
 呻くような呟き。
 それを聞いて、テオがきつく拳を握る。
「そんなことないです!」
 後甲板に声が響く。迷いを打ち払うような声。
「俺も、貴方にはこれまでずっと助けられている。だから、今、貴方が押し潰されそうなら、その重荷を取り去りたいと思っている。一人ではどうしようもないことでも、二人や三人でなら、きっとなんとかできると思う」
 テオの声に続いて、落ち着いた、諭すようなアルギスの声がカンの耳に届く。
「もし……それでも耐えきれないくらいに辛いのなら、専門家に頼ることもできる。だから、人に頼ることも方法の一つだと思う」
「俺も、カンさんに戦い方を教えてもらって、すごく助けてもらってるんです! だから……救えないことなんかないです!」
「それにきっと、貴方に救われているのは俺たちだけじゃない」
 黙りこくっていたカンは顔を上げ、呆気にとられた様子で二人を交互に見た。
「救って……救えて、いるのか。俺、でも」
 二人がうなずく。
 ずっと、先の見えない暗闇を彷徨っていた。お前は人殺し、人でなしだと、見えない声に責められながら。
 だがそこに届いた二人の言葉は、闇の向こうに灯をともした。
 その灯はひどく遠くに見えていたが、それでも光は弱まることなく、北の空に輝く天極のように、確かな光を発していた。