寄生木が枯れた日

 それから二、三日後。
「阿刀」
 長兄・静馬の声だった。
「なあに?」
「ちょっと、降りておいで」
 いつもの調子でない、やけにしわがれた兄の声。
 読みかけの本を置いて、急な階段を降り、兄を認めて――阿刀はその場に立ちすくんだ。
 薄暗い電球に照らされて、寂しげに笑んだ兄は、その手に赤い薄紙を持っていた。
(赤紙――)
「兄様、おめでとう」
(行かないで)
「ありがとう。元気にしているんだよ」
「ええ、兄様も……どうかお国のために、戦ってきてくださいませ」
(逝かないで)
 胸のうちの言葉など、言えるわけもなく。
 精一杯、笑って言祝ぐ。
「それじゃあ、準備があるから」
 静馬が去って、一人残されて。
 阿刀はきつく唇を噛みしめた。
 ほんの何年か前までは、こんなふうではなかった。
 青い目の人形が贈られて、日本からも人形を贈って。
 けれども戦争が始まってからは、鬼畜米英などと言われ、贈られた人形も多くが処分されたと聞く。
 国のために死ぬことが美徳で、玉のように砕けることが誉れで。帰ってきてほしい、などと言えば、非国民と謗られる。
 のろのろと二階にあがり、枕に顔を埋める。
 誰にも聞かれてはならないとわかってはいても、嗚咽する声は抑えられなかった。


 その翌々日。静馬が出征するというので、朝から近所の人が祝いに来ていた。家人も共に静馬を見送るのを、阿刀は土蔵の扉の隙間から覗き見ていた。
 誰も彼も、笑顔で兄を祝い、静馬も笑顔で答えている。
 ただ一人、次兄・静弍の顔は、笑ってはいてもどこか苦苦しげだった。
 静弍も当然徴兵検査を受けたのだが、彼は生まれつき目が悪く、幼少期には中耳炎を発症して、右の耳がよく聞こえないため、兵役には適さないと言い渡された。
 それから、静弍がどこか暗い面持ちを崩さないことを、阿刀も気付いていた。
 本心を言うなら、静弍までが死にに行くようなことにならなくて良かったと思う。
 もっとも、そんなことは口が裂けても言えないのだが。

 その日の夜のことだった。
「あら、このお膳、誰の?」
 夕餉の片付けを手伝おうと台所に来た花は、片隅に置かれていた一人前の膳を見つけて首をかしげた。
 麦飯とすいとん、香の物が並んだ膳は、すっかり冷めてしまっている。朝に同じものを食べたことを、花は思い出した。
「ああ、大変だ。お嬢様にご飯運ぶの、すっかり忘れてたよう」
「しっ!」
 女中のお幹が膳を見て声をあげ、花がいることに気付いた別の女中が慌ててお幹をたしなめた。お幹がはっとして口を押さえる。
「お嬢様? 誰のこと?」
 花が訊ねると、お幹は困った様子で口ごもった。
「はあ、あの……」
「これ、朝のご飯でしょう。ずうっと置いてたの?」
「はあ……静馬様のお見送りで忙しかったもんですから……それにいつもなら里ちゃんが運びに行くんですけど、ほら、里ちゃん、今朝手をくじいたんで、たぶんそれから誰も運ばずにそのまま……」
「ならその人、今日は一日何にも食べてないんじゃないの!? いいわ、私が運びます。どこへ持っていけばいいの?」
「はあ、その……」
「土蔵にだよ」
 男の声が、お幹の言葉を遮る。
「静弍さん」
 たまたま話が聞こえたから、と、静弍はぶっきらぼうに言葉を継いだ。
「義姉さん、兄貴から何にも聞いてなかったの?」
「え、ええ……」
 全く、と、口の中でひとしきりぶつぶつ言って、静弍は厚い眼鏡の奥の目をお幹に向けた。
「お幹さん、何やってんの。汁くらい温めてやんなよ」
「は、はい」
 慌ててすいとんを温め直すお幹から花へと、静弍の視線が移る。
「義姉さん、土蔵に行くなら一応俺もついていくよ」
「静弍様、それは……旦那様に知れたら大変ですよ」
「知ったことか。話もしてないほうが悪い」
 やがて、麦飯と、温め直したすいとんを盆に乗せ、花は静弍とともに土蔵へ向かった。
 重たげな扉を開き、壁につけられた電灯のスイッチを入れる。
 ぼんやり明るくなった蔵の一角にある階段の下から、静弍は上に向かって、阿刀、と声をかけた。
 二階は静まりかえっている。
 ため息をついた静弍は、階段に足をかけた。手招かれ、花も階段をのぼる。
 二階にも壁に寄せて長持や行李、それから様々な種類の本が積み重なっていた。
 本の影には三味線やらお手玉、端切れや裁縫道具が見えた。
 その中に布団が敷かれ、こちらに背を向けて横になっている人影がある。
「阿刀」
 静弍に鋭く呼ばれ、人影が不機嫌そうにこちらにふりかえった。
 真っ白い髪を肩のあたりで切りそろえた、寝間着姿の女。しかし老女ではない。まだ若い娘だった。
「阿刀、義姉さんに挨拶しろ」
 ぴょんと飛びあがった娘が、不満げな目を静弍に向ける。
「何だよ」
「兄様、そういうことは先に言ってください」
 着崩していた寝間着をなおし、布団の上に正座した娘は、阿刀です、と頭を下げた。
「花です。挨拶が遅くなってごめんなさい。それに今日のお食事も遅くなってしまって、ごめんなさいね」
「お里は?」
「今朝、手をくじいてしまってね。本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫。静馬兄様が出征するんで忙しかったんでしょう」
 阿刀はそう言って、にっこりと笑ってみせた。

「花さんは、こういうことは信じないってわかってるから言うけど、阿刀は忌み子なんだ。この辺、ああいう子供は忌み子だと言われていてね。だから親父は、阿刀をああして閉じこめているんだ」
 母屋へ戻る途中、静弍が低くささやいた。
 そんな、と眉を寄せる。
「酷い話だろ。あいつが悪いわけじゃないっていうのに。兄貴もどうして言わなかったんだ」
「きっと静馬さんも、もう少し落ち着いてから話すつもりだったんじゃないかと……」
「それならいいけど」
 それじゃ、と静弍が部屋に引き上げる。花も部屋に戻った。


 この日から、花は人目を盗んで土蔵の阿刀を訪ねるようになった。
 日がな一日、本を読んで過ごしているしかない阿刀にとっては、人に――特に父親に――知られないかと不安な反面、兄嫁と話ができるのは楽しかった。
 阿刀ができるのは本の話くらいだったが、嫁ぐまでは学校の教師をしていた花は話題も豊富で、話も弾んだ。
 ときには花の頼みで、阿刀は静馬のことを話すこともあった。幼いころの思い出話――小学生のとき、全校生徒の前で理科の実験をしたことや、川に落ちた子犬を静弍と一緒に助けて家に連れてきたこと、小学校の講堂から椅子を持って帰って、そのまま家で使っていたこと――などを思い出せるかぎり話すと、花はときに感心し、ときに笑い声を立てた。
「ねえ、阿刀さん、これは秘密だけれどね。私、毎日、静馬さんが無事に帰ってくるように、村のお宮にお参りしているの」
 ある日、花が声をひそめて阿刀にささやいた。
「こんなこと、阿刀さんにしか言えないんだから、内緒よ?」
「うん、わかってる。静馬兄様、無事に帰って来るといいね」
 花と仲良く話をしたのは、この日が最後になった。
 その夜、荒々しく土蔵の扉が開く。
 何事かとうろたえているうちに、鬼の形相の父親が階段を登ってくる。
「お前、あれほど人に会うなと言いつけたというのに、家に凶事を呼びこむつもりか!」
 口を開く間もなく、殴り倒される。
 落ちてくる拳の合間に、ごめんなさい、とくりかえすことしかできなかった。

 濡れた布が、顔に触れる。
 動こうとすると、身体のあちこちが痛んだ。
「動くな、じっとしていろ」
「に……さ、ま?」
「ああ。そのまま寝ていろ」
 ぶっきらぼうな兄の声を聞きながら、阿刀は意識を手放した。

 それから数日、阿刀は熱を出して伏せっていた。
 女中のお里と、ときおり静弍が様子を見に来る以外、人が来ることはなかった。
 花が密かに阿刀と会っていたことは、土蔵から花が出てくるのをたまたま見かけた女中のお幹が、他の女中に話したことから父の耳に入ったのだと、阿刀はお里の口から聞き知った。
 あれから花は厳しく叱られ、土蔵の扉には鍵が付けられ、父に申し出なくては開けられないようになった。
 静弍はどうやら別の方法で鍵を開けているようだが、そのやりかたは話さなかった。
 いくらか熱が下がり、起きあがれるようになってから、義姉にすまない、としょげる阿刀に、気にするな、と静弍は声をかけた。
「お前が悪いわけじゃない」
「そう言われても……」
 自分が拒否すればよかった。知れたらどうなるか、わかっていたのに。
「お前が悪いんじゃない。なあ、阿刀。戦争が終わったら、一緒にこの家を出ていかないか」
「え?」
「ここばかりが日本じゃないし、日本に住みたくないなら他の国へ行くことだってできるだろう。どうだ?」
「……それが、できるといいね」
 呟いて、阿刀は白湯をすすった。