嵐は未だ去らず

「やめたまえ」
 読んでいた本に、栞代わりに指を挟んで、ミスルトウはそう言った。
「なんで? 仲が悪いよりいいほうが断然いいじゃん。それにあの二人、元々知り合いなんだよ? そりゃカン紅花ホンフアのこと忘れてるみたいだけど、知り合いだったら仲良くすべきだって!」
 いくらかそりかえって、リーガン・クロフォードが力説する。
 ミスルトウはフードの下で深々と眉間に皺を寄せ、その語調にたっぷりと呆れを含ませた。
「人の感情は、得てして思いどおりにいかないものだよ。だいいち此方こなたは、紅花ホンフアなりカンなりから、仲を取り持ってくれと頼まれたのかい? 頼まれたならかまわないが、そうでないなら此方こなたくちばしをいれることではないのだよ」
 十中八九頼まれてなどいないだろうと推測したが、案の定、リーガンは頼まれてはいないけど、と口を尖らせた。
「でもあたしは間違ってないでしょ! 間違ってないんだからいいじゃない!」
「間違っていないことが、必ずしもいいことではないし、間違っていないから何をしてもいい、ということにはならないよ」
 なんでよ、とリーガンが苛立った声を出す。
「これは特に、人の心が関わってくることだからだよ。此方こなた自身の心なら、此方こなたの思うとおりになるかもしれない。けれど此方こなたが動かそうとするのは他人の心だ。そしてそれは決して此方こなたの思うとおりにいかない。だから余計なくちばしをいれるのはやめたまえと言っているのだよ」
 穏やかに諌めたつもりではあったのだが、
「なによ、えっらそうに! 見てなさいよ、絶対仲良くさせてみせるんだから!」
 荒々しくドアが閉まる。ミスルトウは一人、部屋で溜息をついた。
 リーガン・クロフォードという人間は、決して悪人ではない。しかし彼女は、どうにも余計なことをしたがるのだ。
 自分には関わりのない事柄に首をつっこみ、自分の思う“最善”に持ちこもうとする。
 しかしその“最善”は、あくまでもリーガン本人の主観である。加えてその“最善”はほとんどの場合、当事者からすれば最善ではないのだ。
 彼女が首をつっこんだ結果、ことが大きくなったばかりでなく、どうしようもなくこじれたことも一度や二度ではない。
 それをよく知るミスルトウは、リーガンが何かしようとするたびに、どうにか諌めて止めようとしていたのだが、これまでそれに成功したことはなかった。
 何せリーガンはこうと決めたら話を聞かない。ミスルトウが何を言ったところで聞く耳を持たないのだ。
(ともかく……相談だけはしてみようか)
 読みかけの本に栞を挟み、ミスルトウは立ちあがった。
 こういうとき、ミスルトウが頼るのはもっぱら古谷杏である。
 杏は部屋にいなかった。
 探し歩きつつ、ミスルトウは考えを巡らせる。
 リーガンが嘴をいれる以上、どうで厄介なことになる。
 それでいて事をこじれさせた張本人は懲りないのだから始末に負えない。
 甲板に出る。
 杏が手すりに寄りかかっていた。
「今、いいかな」
「どうしたよ」
「ここじゃ何だ。部屋に来てもらえるかい」
 状況がよく呑みこめないまま、それでも杏はうなずいた。
 ミスルトウの部屋で、簡潔に事情を話す。
「実はね――」
 話をひと通り聞いて、杏がみるみるうちに渋い顔になった。
「仲取り持つって、大怪我して死にかけて、この前やっと目ぇ覚ましたばっかの紅花ホンフアのとこにカンを連れて行く気なのかあの馬鹿。断言するけどろくなことになんねえだろ」
やつがれはよく知らないのだけど、あの二人、そんなに仲が悪いのかい?」
「……悪い、と言うよりか、紅花ホンフアがまだ感情的なところが整理できてねえんだよ、たぶん。本人もそれはわかってるみたいだし、だからアタシも口出ししないでいるんだけどさ。本人も、そのうちちゃんとカンと話すって言ってたしな。なのにリーガンが出てきてみろ、こじれないほうが無理な話だよ。『誤解を解いて仲直りするため』って、いじめっ子といじめられっ子を同じ部屋に閉じこめかねないような人間だぞ、あいつ」
やつがれもそう思って止めたのだけどね」
 止めて止まるようなリーガンではない。
「これはいよいよ一度、しっかりと灸をすえようかとね」
「……それで――懲りるかね」
「懲りればいいんだがね」
「とりあえず、アタシは様子見てくるよ」
 そう言って、杏は部屋を出ていった。


 病室には、薬の臭いが漂っている。
 ベッドの上で、紅花ホンフアは身体を起こしていた。
 フランスで負った傷はまだ痛むし、出血がひどかったせいであまり顔色も良くはない。加えてまだ貧血気味でもある。
 とはいえじっと天井ばかり見ているのも退屈だった。
 誰かに頼んで、自室から適当な本でも持ってきてもらおうかと思ったとき、ドアが軽く叩かれた。
紅花ホンフア、具合はどう?」
 リーガン・クロフォードが顔を出す。
 大丈夫、と言いかけて、リーガンの後ろに立つ影が目に入る。
 言葉が、喉で止まった。
「大丈夫か?」
「康……さん」
「もう、またそうやってつんけんしてる。仲良かったんでしょ? ほら、一緒に映ってる写真も持ってたじゃん? いい加減意地張らずに仲良くしなって!」
 リーガンの言葉が耳を抜けていく。
「あ、それとも中国でカンが死んじゃったから、それで遠慮してたりするの?」
「え――」
 すっと、全身が冷えた。つい先程まで、熱でもあるのかと思うほど火照っていたのに。
「でもさあ、こっちのカンは生きてるんだし、前みたいに仲良くしなよ! カンだって紅花ホンフアと仲良くしたいんでしょ?」
 ざあざあと、耳の奥で音が鳴っている。
「――黙って」
 やっと出た声は、ひどく乾いて掠れていた。
 鼓動に合わせて、きりきりと頭が痛む。
 リーガンを睨みつけたその眼光は鋭い。
 紅花ホンフアの身体はわなわなと震えていた。
「え?」
 耳の奥の音がおさまらない。ざあざあと、水が流れるような音。

「出てって!」

 悲鳴のような声だった。
 喉と胸がずきりと痛む。
「ちょ、ちょっと紅花ホンフア、そんな意固地になっちゃだめだよ?」
「出てってってば!」
 視界がはっきりしない。
 伸ばした手が、何かに触れた。
 ほとんど反射的に、それを掴んで投げつける。
 投げられたコップは壁にぶつかり、派手な音を立てて粉々になった。
 カンの口が動く。
 そのままリーガンは、カンに半ば引きずられるようにして出ていった。
 結局最後まで、カンの顔は見られなかった。


 杏が紅花ホンフアのいる病室に近付いたとき、中から甲高い叫び声と、何かが壊れる音が聞こえてきた。
 思わず鋭い舌打ちをしたところで、カンに引っ張られながらリーガンが出てくる。
 ふくれっ面のリーガンとは対照的に、カンは無表情だった。
 病室から離れたところに二人を呼び、黒い瞳に冷ややかな光を浮かべてリーガンを見る。
「何をした?」
「二人を仲良くさせようとしただけだよ! なのに紅花ホンフアってば、意固地になっちゃってさ。いくら自分の知ってるカンが死んだからって――」
「何で知ってんだよ。てか言ったのか?」
「だって前、紅花ホンフアがあんたに話してたじゃない? それに言ったって、何を?」
カンが、死んだと、言ったのか?」
 杏の声は低かった。
「うん。だってほんとのことじゃん? それで意地になってんのかなーって思ったし――」
 乾いた音が、一度。
「ふざけてんじゃねえぞ、手前テメエ。ミスルトウにだってやめろって言われてたんだろうが。前にも余計な口出しをしてひどいことになったのをもう忘れたのか。いっそ手前テメエの歯全部へし折って、口きけなくしてやろうか」
「なんでよ、あたし間違ったことしてないもん! 紅花ホンフアが意地張ってんのが悪いんでしょ」
 二度目の打音。舌を噛んだらしいリーガンの口から、血が顎を伝う。
 涙目になって、リーガンがぱたぱたと駆けていく。
カン……」
 佇む彼に声をかける。
 ちらりと杏を見て、カンは唇を曲げようとした。しかしわずかに唇が震えただけで、その顔はどこか放心したような無表情になる。
 やや目を伏せた、険しいその顔は、乗船して魔もないころの彼を思い出させる。
「今から俺が言うことが、もし正しかったらうなずいてくれ。――紅花ホンフアがいた世界で、紅花ホンフアと俺は少なくとも知り合いだった」
 杏が小さくうなずいたのを、カンは横目でしっかりと捉えた。
「……独り言だけどね。とても仲が良かったと聞いたよ」
 そうか、とカンが口の中で呟く。
「大丈夫か?」
「ああ。ただ、しばらく一人にしてくれ」
 大きく息を吐いて、カンもその場から立ち去った。