暗夜に翔ぶ

「最近さ、妙な奴らを見ないか?」
 夜の見張りの途中、友人の王栄文が黄康にささやいた。
「そうだな」
 カンもうなずく。
 このところ、町で見慣れない人間を見かけることが増えていた。
 西ヨーロッパに属するどこかの国の諜報員ではないかという噂も流れており、彼の所属する部隊では、怪しい者を見つけたら、殺害もやむなしと命令が下っていた。
 以前出逢った娘を思い出す。
(もしかしたら、彼女も……)
 その、見慣れぬ者たちの一員だったのだろうか。
「なあ、次に休みもらったら、どうする?」
 栄文の語調が変わる。いくらか弾んだように。
「そうだな。姉に顔を見せに行こうかと思ってる」
 笑んで答える。
 戦況が芳しくないことは、薄々感づいている。
 栄文の言う、“次の休み”など、いつもらえるかわかったものではない。場合によっては翌日、永の別れとなってもおかしくはない。
 康が生まれる前から、この戦争はずっと続いている。
 戦火の中で育ち、長じてからは兵士となった。銃の扱いを覚え、人を撃つことを覚え、心を殺すことを覚えた。
 すぐ後ろに“死”が立っているような日々が当たり前だと、このときは思っていた。
 その後、規定の時間まで見張りをつとめ、上官に異常なしと報告して、康は硬い寝台に横になった。


 数日後、康の小隊は――市に駐屯していた。
 ここも建物は戦禍を被り、とてもではないがまともに使うことはできない。上官が使う部分を寄せ集めの廃材で整えはしたが、康のような兵卒は隊舎代わりの天幕を張って使っていた。
 近くに西側の一小隊がとどまっており、早晩戦闘が起こると言われていた。
 しかし、
「壊滅した?」
「らしいぜ」
 夜、歩哨に立ちながら、栄文の言葉に目を丸くする。彼はどうやら、上官の話を――曰く、聞くともなしに――聞いてきたらしい。
「だが、このあたりに東の軍は……いたか?」
「全然いないってことはないだろうが――」
 栄文の声を遮るように、爆音が響いた。
「っ、何だ、襲撃か!?」
 天幕のひとつから、火が上がっているのが見えた。
 怒声、悲鳴、銃声、爆発音。
(何だ!?)
 混乱しつつ、その場に走る。
 新兵の一人が、足元で倒れている別の兵士に軍刀を突き立てていた。
「何をしている!」
「うるさい!」
 正気の失せた表情で、彼が軍刀を振るう。
「栄文!」
 康の眼前で、栄文の右腕が落ちる。
「て、めぇ……!」
「ま、待て、栄文、今医務官を呼んで――」
「うるせえ!」
 顔を歪ませた栄文に思いきり殴りつけられ、康は呆然と彼を見返した。
「いつもいつも、すかした顔しやがって」
 栄文の目の中に、憎悪が揺れていた。
「馬鹿、そんなことを言っている場合か!」
 ぞくりと、背に氷を入れられたような悪寒が走る。
 身に染みついた動きで反射的に飛び退いた刹那、彼がいた場所に軍刀が突き出された。
「死ね、死ね死ね、死んで、しまえっ!」
 別の兵士が、やはり憎悪に顔を歪ませ、軍刀を康に向ける。
 とっさに近場に転がっていた軍刀を拾い、振り下ろされた刃を受け止めた。
 そのまま相手の軍刀を叩き落とす。
 破裂音。右肩の不意の激痛に、軍刀を取り落とす。
(とにかく、人を呼んでこなければ……)
 ありあわせの布で肩を縛り、急いで上官のいる隊舎へ向かう。
「大変です! 暴動が……え?」
 部屋に駆け込んだ康が見たのは、卓上に広がる赤色と、その中にうつ伏せる上官の姿だった。
(何が、起きているんだ?)
 騒ぎはどんどんと大きくなっているようである。
 どうにかして騒ぎを鎮める方法を探しに隊舎を出た康の前を、見覚えのある娘が横切った。
 娘は飛び交う銃弾をすり抜け、人の間を飛び抜け、空中に狙いを定めて手にしたヌンチャクを振るう。
 以前見たときと同じだった。彼女は闇雲に、空に向かってヌンチャクをふるっているわけではない。その場にいる“何か”を狙っている。
 そう感じたのは、二十年近くの戦いの勘だろうか。
 軽々と空中に飛び上がった娘が、無表情でヌンチャクを振る。
 やがて、駐屯地は静かになった。そのあとに、惨状を残して。
 そこにはつい先程まで、肝胆相照らしていた仲間の躯が転がっていた。顔がわかるのはまだ良い方で、もはや誰だかわからないほどになった者もいた。
 その中にただ一人、茶髪の娘が立っていた。自分の血が、誰かのはねた血か、顔にも服にもところどころ赤い染みが見られるが、本人は気にも留めていない。
 何かを探すように辺りを見回し、小さくうなずいて踵を返そうとする娘を引き止める。
「待て、紅花ホンフア
 呼び止められ、紅花は一瞬だけ怪訝そうに康を見返した。
「……何?」
「お前、何か知ってるんだろう。話してくれ」
「話したところで、いくら康兄さんでも信じない」
 あ、と紅花が口を押さえ、康はさっと顔色を変えた。
「なぜ、俺の名を知っている?」
 以前会ったときにも、康は自分の名を教えていない。彼女が自分の名を知っているはずがない。
「偶然、じゃない?」
「そんな偶然があってたまるか」
 紅花の腕を掴む。傷に響いたのか、彼女は一瞬顔をしかめた。
 来い、と紅花を有無を言わせず自分の天幕に引っ張っていく。
 抵抗するかと思ったが、紅花は案外あっさりと彼に従った。
「説明しろ」
 天幕の入口に立ち、紅花の退路を絶った上で、鋭く言葉を投げる。
 はあ、と紅花が小さく息を吐いた。観念した、と言いたげに小さく肩をすくめる。
「……わかった、話すよ」
 ようやく、紅花が口を開いた。

 人の感情を喰らう『蟲』。
 人が抱いた負の感情を増幅、暴走させ、災害をもたらす生命体。
 最近増えている小競り合いも、先日の阿――村での騒ぎも、先程の暴動も、『蟲』が引き起こしたものだと言う。
 厄介なことに、『蟲』は、一般人には見ることができない。『蟲』を認識し、倒すことができるのは、その契約を結んだ『船』の乗員だけなのだ。
 しかし契約をした瞬間、その人間は世界から嫌われる。誰の記憶からも、いかなる記録からも、その人間は失われ、辻褄があわせられ、その人間は、いないものになるという。

「蟲、か……」
 荒唐無稽な話だと、他人が聞いたら一蹴するだろう。
 しかし……。
「契約するには、どうすればいいんだ」
 沈黙。じっと康を見る紅い瞳には、冷ややかな色がある。
「……契約したらどうなるか、言ったよね」
「聞いた。それでも、だ。……姉に、やっと子供が産まれたんだ」
 その知らせを聞いたのは、先月のことだった。
 幸い、姉が嫁いだ家は田舎にあり、戦火にさらされる可能性は――この辺りと比べれば――まだ低い。加えて義兄の実家はこんなご時世でも比較的余裕があり、親子三人が暮らしに困ることもないという。
 しかし、『蟲』が発生したら話は別だ。兵士でもない一般人や乳飲み子など、ひとたまりもないだろう。
「姉は、親が死んでから、ずっと俺を育ててくれたんだ。義兄あにも、あんないい人はいないだろうって人なんだ。だから……蟲なんかに、喰わせるわけにはいかないんだ。教えてくれ。どうすれば、契約できるんだ」
 康は今や、紅花にほとんどすがりつかんばかりになっていた。
 と、康の前に一枚の紙と羽ペンがどこからともなく現れた。それを見た紅花が、再びため息をつく。
「これは……」
「契約書。名前を書けば、契約できる。……書いたら、もう戻れないよ。それでも、いいの?」
 真剣な問いに、強くうなずいた。
「……ああ。構わない」
 ペンを取り、名を書き入れる。途端に、契約書は消え去った。
「……特に、変わった気はしないな」
「はじめはね。でも、あなたはもういない人だから。……船に、案内するね。ここにいるの、よくないでしょ」
 康の横をとおり抜ける瞬間、紅花がかすかに、どうして、と呟いたように聞こえた。

→ 古谷の名