歴史地区の戦歌

 轟音。
 頭上を軍用機が飛んでいく。
(あれは――)
 西の爆撃機。
 ちらと見た、その一瞬で、脳はその答えを弾き出した。

「師匠?」
 呼びかけられて我に返る。
 船内の空き部屋。しばらく前からカンとテオ、アルギスが訓練部屋として使っている部屋である。
「ああ、悪い。ちょっとぼんやりしていた」
「いや、大丈夫ですか。なんか、顔色悪いですよ」
「はは、大丈夫、大丈夫。……まあ、ちょっと早いけど、今日はそろそろ切り上げようか」
 どことなく喉に小骨でも引っかかったような声でそう言った康は、どうにか口元を曲げて笑みを作った。
 そんな康を、アルギスが気遣わしげに見やる。なんでもないよ、と言ったその声は、言葉とは裏腹にしわがれていた。
 一人後に残って、手で顔を覆う。
 乗船し、戦地を離れてすでに数年経つ。それでも――戦争はまだ、自分を捕えている。
 大きく息を吐いて手を下ろす。掌が赤く濡れているのは、見ないふりをして。
 本当に怪我をしているわけではないのだ。自分にそう見えているというだけで。
 元軍医の船員・ナタリアからは、兵士にはしばしば見られる症状だと言われ、カウンセリングを勧められたが、康は考えておく、とだけ答えていた。
 甲板に戻る前に、外の空気でも吸おうかと、ふらりと甲板に出る。
 薄暗い甲板に、小柄な影がひとつ。


 ここは御国を何百里
 離れて遠き満州の
 赤い夕日に照らされて
 友は野末の石の下

 思えば悲し昨日まで
 真先駆けて突進し
 敵を散々懲らしたる
 勇士はここに眠れるか

 嗚呼戦いの最中に
 隣におりしこの友の
 にわかにはたと倒れしを
 我は思わず駆け寄って

 軍律厳しき中なれど
 これが見捨てておかりょうか
 「しっかりせよ」と抱き起こし
 仮繃帯かりほうたいも弾丸の中

 折から起こる突貫に
 友はようよう顔上げて
 「御国のためだかまわずに
 遅れてくれな」と目に涙

 後に心は残れども
 残しちゃならぬこの体
 「それじゃ行くよ」と別れたが
 永の別れとなったのか


 物悲しい響きのその歌と、歌われる内容に胸がざわつく。
 ふと歌が途切れ、ゆるりと影がふりかえる。
 闇に紛れてしまいそうな濃紺の服装の中、唯一見える口元だけがやけに白く浮きあがって見えた。
「ああ……失敬。此方には、不快な歌だったかな」
「いや。こちらこそ、邪魔をしてすまない」
「なんの、やつがれは暇を持て余していただけだよ。あまり部屋にこもってばかりでも心配されるからねえ。たまにはこうして外に出ているのだよ」
 ふふ、と船員――ミスルトウが笑う。
「その歌は?」
「『戦友』という軍歌でね、やつがれも昔はよく口ずさんでいたのだよ。本当は歌っちゃいけなかったのだけれどね、確か厭戦えんせん的だとかいう理由だったかな。お上としては国民の士気を下げたくなかったのだろうし」
「……戦地にいたのか」
「いや、やつがれは出征していないよ。大東亜戦争を体験してはいるけれど……ああ、今はそう言わないのだっけ、どう言うのだったか……太平洋戦争、でもなく」
「第二次世界大戦?」
「そうそう、それだ。第二次世界大戦。やつがれは昔者だから、つい慣れた言いかたをしてしまっていけない。ああ、そういえば、そろそろどこかに停泊するらしいね」
 肩をすくめたミスルトウは、だいぶ強引に話題を変えた。
「そうか」
「うん、案内人から少し聞いたけれど、二、三日後には停泊するみたいだよ」
 次はどこに停まるのだろうね、とのんびりと言ったミスルトウは、それじゃ失礼するよ、と、康の横をするりと抜けて、足音のかわりにこつこつと杖の音を立てながら船内へ戻っていった。


 それから三日後、時空の狭間から出た船は欧州の小国へ停まった。
 案内人いわく、この国では一年ほど前まで激しい戦争があったという。
 確認された蟲は蝶、感情は憎悪、特徴は緑のもや。船の掲示板に書かれていた内容を頭の中で繰り返しながら康は街へ出た。
 黒い大きな鞄を肩から提げて歩く彼は、見る者が見ればそのはりつめた様子にも気付くだろうが、しかし多くの人間には、彼は単なる旅行者に見えるだろう。
 彼のほうでもそれは心得ていて、市場へ立ち寄ると、観光客を装って国の名物や観光地を訊ねつつ、近ごろ何か変わったことはないかとさりげなく蟲の情報を集めていた。
 人当たりがよく、加えて柔和な康は物腰もいたって穏やかで、この手の聞きこみにもそつがない。
 しかし名物や観光地の情報は集まったものの、蟲が関わっていそうな事件の収穫はなかった。
 市場をひと回りして、康は勧められた歴史地区へ足を向けた。戦争はかなり激しかったらしいが、奇跡的にその歴史地区は戦禍を免れたのだという。今では『奇跡の場所』として観光客も多いのだとか。
 昔、聖堂として使われていた建物があったためか、神がお守りくださったのだろう、と康に歴史地区のことを教えてくれた、信心深そうな老婆の店主は真面目な顔でそう付け加えた。
 特に信仰心を持っているわけではない康は、神という言葉には内心苦笑したものの、確かに地区ごと戦禍を免れたというのは、奇跡と言っても差し支えないだろう、とも考えた。
 市場でも街中でも人が行きかい、街の雰囲気は明るい。しかし大通りを外れるとまだ戦争の痕跡であろう弾痕や瓦礫がところどころに見られる。
 不意に甲高い声が聞こえ、康はぎくりとして足を止めた。
 鬼ごっこでもしているのか、子供たちが笑いさざめきながら康のそばを駆け抜けていく。
 息を吐いて、額に浮いた汗を拭う。
(ここは――泅魏しゅうぎじゃない)
 自分に言い聞かせる。
 それでもずっと、すぐ後ろに同じ部隊の仲間がいるような気がしていた。なぜ敵地ヨーロッパにいるのか、と恨みを抱えて。
 軽く頭をふり、余計な思考を払い落とす。
 結局、この日は康に収穫はなく、彼は歴史地区を見学しただけで終わった。

 数日後、康は再び歯車の扉から街へ出た。
 この日康が出た歯車の扉は以前とは違い、この前訪れた歴史地区の傍に通じていた。
 天気がよく、観光地、それに昼日中ということもあって人は多い。
 ちょうど近くに停まっていた移動販売のワゴンでサンドイッチを買うと、売り子がサービスです、と笑ってサンドイッチの紙袋と一緒に、レモンキャンディをひとつ手渡した。
 ありがとう、と受け取って、レタスとトマト、厚切りのベーコンが挟まったサンドイッチをかじりつつ、眼前の光景を眺めていた康は、ふと近くの一団に目を留めた。
 周りよりも頭ひとつどころか二つ三つ抜けているアルギスと、布を被せた盾を背負ったテオ、彼の服をつかんで立っているシュシュ。
「あ、康さん!」
「やあ、どうだ、調子は」
「今のところ、何にもないですね」
「そろそろ何かあってもよさそうだがな。っと、そうだ、シュシュ」
 不意に呼ばれ、少女がきょとんと康を見上げる。
 目線を合わせるようにかがみこんで、康は貰ったばかりの飴を取り出した。
「飴は好きか? よかったら食べるといい」
 白と黄色のフィルムで包まれた飴を渡すと、シュシュははにかむように笑った。
「あり、がと」
 シュシュの様子に目を細めていた康だったが、不意にその背にさっと冷たいものが走った。
 ばね仕掛けのように勢いよく身体を起こした康は、ほとんど反射的にあたりの気配を探っていた。
「あ、向こうに……」
 アルギスが示した方向では、二人の男が何やら言い争っている。
 殺気立ち、今にも取っ組み合いを始めそうな二人を、野次馬が遠巻きに見守っている。
 人垣の間から、争う二人に絡む緑のもやを、彼らは確かに認めていた。
 テオがさりげなくシュシュを自分の後ろに隠す。
 騒ぎが大きくなる。もやが広がっていた。
(――どこだ?)
 蟲の姿は見えない。しかし明らかに喰われている人間がそこにいる以上、このあたりにいるはずだ。
 提げていた鞄を足元に置き、康は中から小銃を引っ張り出した。
 それを見て、周囲の野次馬が悲鳴をあげて逃げていく。
 怒声とともに飛びかかってきた男を、康はとっさに小銃で殴り倒した。
 悲鳴と怒声、どこかで鳴るサイレンの音。
 同じ視界で、過去と現在が入り乱れる。
「蟲はいたか!?」
「まだ――」
 アルギスが言いかけたとき、康は一瞬、すぐ近くの建物の影、こちらに注意を向けたアルギスから死角になる位置に、きらりと何か光るものを見た。
 瞬時にそれが何なのか理解したのは、未だ衰えぬ、兵士としての勘だろうか。
「伏せろ、アルギス! テオ、前に出ろ!」
 そう怒鳴り、大きく横に跳んだ康は、そこに普通の蝶よりはひと回り大きな蟲と、緑のもやが絡みついた、銃を持った金の髪の男を認めた。
 アルギスに向いていた銃口がこちらに向く。
 同時に康は、男に狙いを定めて引鉄を引いていた。
 ざ、と頬に熱が走る。
 金髪の男が呆然とした表情を顔に貼り付けたまま、胸を血に染めてその場に倒れる。
 その陰から、蝶に似た蟲がひらりと飛び立つ。
 二度目の銃声と同時に蟲が散る。
 まだ熱を持つ銃と、目を見開いたまま死んでいる男を見て、息を呑んだ康はまなじりが裂けんばかりに目を見開いた。低い、絶望した呻き声が、彼の口からこぼれ落ちた。
「師匠……?」
 様子のおかしい康に気付いたテオが、そっと声をかける。しかし康の耳には、その声さえ届いていなかった。


 その後、どうにか――といっても道中の記憶などなかったが――船に戻り、自分の船室に入った康は、閉めた扉にもたれかかるようにして座りこんだ。
 両手で顔を覆う。頬の傷など気にならなかった。
 あの一瞬、自分はただ敵を排除することしか頭になかった。
 泅魏で敵兵を殺していたのは、そこが戦地で、そしてそれが命令だったからだ。泅魏は、敵兵を殺さなければ自分が死ぬ場所だった。それが自分の心を殺すことになっても。
 だからこそ、船に乗ったときには、これで人を殺さなくて済むのだと思ったのだ。それから戦うことはあっても、蟲相手なら銃を向けることはできたが、人に銃口を向けたときには、どうしても引鉄が引けなかった。引けないはずだった。
 だがそれは――錯覚にすぎなかったのだ。
 乾ききった低い声が、長く尾を引いて零れ落ちる。
 窓のない、暗い部屋の中でうなだれる康の顔に落ちかかる髪は、今では半白となっていた。