硝煙は遠く

 呻き声とともに、勢いよく突き飛ばされた兵士が泥の中に膝をついた。
 金髪に青い目。まだどこか幼さの残る、そばかすの散った顔――西ヨーロッパ側の兵士だった。
 部隊の様子を偵察に来ていた――。
 上官が話しているのを、黄康ホアン・カンは他の兵士と同様に黙って聞いていた。
 西側の兵士が偵察に来るのも、捕まるのも、決して珍しいことではない。特に最前線である泅魏ここでは。
 この後、この若い兵士がどうなるのか――考えるまでもない。
「黄康」
「はっ」
 不意に名を呼ばれ、反射的に返事をする。
「お前が殺せ」
 続いた命令に、一瞬言葉が詰まる。
 じろりと自分を睨むように見据える上官の瞳が、きらりと光る。
「どうした? 命令だ。はやくやれ!」
 命令、と言われれば、康に断るすべはない。
 銃口を哀れな兵士に向け、撃鉄を起こし、引鉄に指をかける。
 若い兵士が、すがるように康を見る。
(――すまない)
 そんな言葉を、口に出すことなどできず。
 引鉄を、引いた。


「――っ!」
 目を覚ました康は、荒く息をしながらベッドの上に起き直った。
 顔を両手で覆い、呼吸を落ち着ける。
 しばらくして、いくらか荒い呼吸をしずめた康は手を下ろし、ふと掌を見て再び息を呑んだ。
 康の掌には、べっとりと血がついていた。
 怪我をした覚えはない。それに身体のどこにも痛みはない。しかし掌についた血は、まだ鮮やかな色を保っている。
 きつく目を閉じ、軽く頭をふる。
 これは幻覚だ。それはわかっている。
 少し外の空気を吸ってこようと、康は部屋を出た。
 甲板に出ると、銀砂をまき散らしたような、一面の星空が広がっている。
 星空に目を向けることもなく、康は甲板の柵にもたれかかり、大きく息を吐く。
 十五で軍に入ってから、何人の命を奪っただろうか。
 数えたことなどない。そもそも数えられない。数えきれない。物心ついたときから、西ヨーロッパの人間は敵だと言われ続けた。敵なら殺せ、と、そう教えられた。
 そうしなければ、生きられないと。
 事実、そうだった。戦地、それも東西の軍がぶつかりあう最前線ともなれば、その日、その一瞬を生きるためには殺さなければならなかった。
 ぎしりと船板がきしむ。
「あ、あの……」
「……ん? あー、訓練か、アルギス?」
 声の主は船員・アルギス。康とは親しい船員であり、心得のある彼が武術を教えている船員の一人だった。
 彼のほうに首を煽り、精一杯の笑みを作る。
 康も背は高いほうだが、アルギスは康よりも頭ひとつ分以上背が高い。話すときには必然的に上を向くことになる。
 アルギスはどぎまぎと首を横にふった。
「あ、いや……なんだか悩んでいるようだったから……」
 はは、と康の口から乾いた笑いがこぼれる。
「参ったな。顔に出てたか。……いや、何でもないよ。またな」
 笑みこそ浮かべてみせたものの、そうとう強張った顔になっているだろうというのは鏡を見なくてもわかった。
 いつになく早口の、素っ気ない語調でそう答え、早足で自室に戻る。
 部屋に入るや後ろ手にドアを閉め、康はずるずると座りこんだ。
 気遣われているのは十分わかっている。それでも日ごろ人当たりのいい彼にしては珍しく、素っ気ない態度を取ったのは、不安げな、心配そうなアルギスの顔が、夢に見たあの若い西の兵士の顔と重なったからだ。
 あの兵士は最期まで、康をじっと見ていた。
 康が手にかけたのは、その一人だけではない。彼がいた部隊に捕らえられた西側の兵は、そのほとんどが殺された。それが上の命令だった。そして手にかけるのは、上官が命じた兵士の誰かだった。
 死がすぐそこまで迫ったことを悟り、必死で命乞いをする者もいれば、康にはわからない言葉で罵詈雑言を吐く者もいた。黙って死を受け入れる者もいた。
 両手をきつく閉じた目に押し当てる。
 赤みがかった黒の中に、いくつもの目が漂っていた。

 不意に背後から聞こえた音に、康は一瞬ぎくりと身体を強張らせた。
 それがドアを叩く音だと少し遅れて気付き、慌てて立ち上がる。
 勢いよくドアを開けたせいか、戸口にいた相手は驚いたように後ずさったが、康もその船員を見て目を丸くした。
「アルギス、どうした?」
「あ、あの……さっき、作ったんだ。もしよかったら……。口に合うかはわからないが、その、少しでも気を休めることができたらと思って」
 見ればアルギスは手にスープ皿の乗ったトレイを持っている。
 故郷の料理なんだ、とアルギスが説明する。
 ありがとう、と皿を受け取る。
 スープは野菜と茸が入ったもので、優しい味がした。
 ゆっくりと、噛むようにスープを飲む。固まっていた身体が、徐々にほぐれていった。
 スープの礼と、皿を返しに行こうと、空になったスープ皿を取り上げる。
 その手に見えていた鮮血は、拭ったように消えていた。