紅花の蟲退治

「――――!!」
 怒声。
「――、――――!!」
 罵声。
「――――!!」
 振り上げられた白刃が、振り下ろされる。
「……ッ!?」
 目を開ける。見慣れた自室の天井を見ながら、紅花ホンフアはベッドから起き上がった。夢だと分かっていても、いい気分はしない。
「うー、最悪ネー」
 船室で一人、ぶちぶち文句を言いながらクロゼットを開ける。紺色のワンピースに白いスキニーパンツ、空色のジャケットを選び出し、髪を纏める。
 一通りの身支度を終え、愛用のヌンチャクを入れたケースを腰に付ける。
 船室の窓から外を見ると、住宅街だろう、煉瓦造りの街並みが見えた。
 部屋を出る前に、むに、と頬をつねり、笑顔を作る。
「よし、行くネ」
 小さなバッグを肩から下げ、紅花ホンフアは船の外へと降り立った。
 人の負の感情を増幅させる生命体――『蟲』。感情を暴走させ、人を操る、厄介な存在。それに対するのが、『船』の住人達。不老となって『蟲』を退治する力を得、その代償として世界から嫌われる道を選んだ者達。紅花ホンフアもまた、その道を選んだ一人だった。
 石造りの町を歩く。
 今回確認された蟲は、蝶の姿をしているらしい。既に何匹か倒されたと聞いたし、ことにこの前は、家ほどもある蟲が倒されたと聞いた。それでも念のため、と、紅花ホンフアはこうして町を歩いていた。
 現在の停泊地はイギリス。石造りの町は紅花ホンフアには珍しく、半分観光のつもりで歩いていた。
 ふと、怒声が耳に届く。
『今回の蟲は『怒り』の感情を暴走させることが多いようです。』
 船の案内人の言葉を思い出す。
(まさか、ネ)
 そう思いつつも、声の方へと足を向ける。歩きながら、するりとヌンチャクを抜き出して。
 声の出所は、人通りの少ない細い道だった。瑪瑙めのう の柄の日傘を手にした女が、子供に向かって怒鳴っている。
 女の身体には、赤いモヤがまとわりついていた。女の前にいる少年は怯えた様子で女を見上げ、ごめんなさいと口にしている。けれど女の怒りは、その程度で治まるものではない。
 その様子を見て、紅花ホンフアの顔に浮かんでいた笑顔が消えうせた。
 地面を蹴る。少年の身体をさらうようにかき抱き、諸共に横に転がった。
「な、によ、アンタ!」
 女が怒鳴る。紅花ホンフアは少年を背に庇うようにして立ち、女と対峙していた。
「どきなさいよ!」
 振り下ろされる日傘を避けようとする紅花ホンフアの赤い目と、女の青い目が合った。
 青い目。怒声。青。怒声。
(――青娘チンニャン
 それが自殺行為だと知りながら、紅花ホンフアは動かなかった。動くことができなかった。
 衝撃と痛み。目の前に星が散る。怪我の功名とでも言うべきか、それが紅花ホンフアを正気に返らせた。
 再び振り上げられた日傘には構わず、紅花ホンフアは手にしたヌンチャクを横に振った。ヌンチャクは女の手に当たり、女が傘を取り落とす。
 それを逃さず、紅花ホンフアは女の顔すれすれを通るよう、距離を計算してヌンチャクを振った。怯んだ女から、ふわりと蝶が宙に舞い上がる。
 紅花ホンフアの目は、それを見逃さなかった。
 強く地を蹴り、同じく宙に舞う。冷静に自分と蟲との距離を計算し、手にしたヌンチャクを振り抜いた。
 刹那、ヌンチャクに捉えられ、蟲は痕跡すら残さず消え去った。
 同時に、女のモヤも消えたことを確認する。倒れた女は、どうやら気絶しているだけのようだ。
「ボク、ケガとかしてナイ?」
「う、うん。おねえちゃんこそ、血が出てるよ?」
 言われて、痛む額に手を当てる。眼前に持ってきた手を見ると、確かに赤く濡れていた。
 ヌンチャクをしまいつつ、それでも紅花ホンフアは少年に向けて、にっこりと笑ってみせた。
「大丈夫ネ、これくらい」
 バッグからハンカチを取り出し、痛む額に当てる。
「じゃあネ、ボク」
 そう、最後に呟いて立ち去る紅花ホンフアの後ろ姿を、少年はぽかんと眺めていた。
 蟲に喰われかけていた女も、襲われかけた少年も、何があったのか、本当のところは分からないだろう。ノイローゼ、癇癪かんしゃく、そんな適当な言葉で、片付けられてしまう。
 それは紅花ホンフアにも言えることだ。女も少年も、紅花ホンフアに助けられたことを覚えていられない。大切な人達を守るため、契約を交わして船に乗り、世界から嫌われた紅花ホンフア。彼女が船に乗る前にどこで何をしていたか、それは今や、紅花ホンフア自身しか知らない。
 世界に嫌われるということは、世界から生きた痕跡が消えるということ。顔も知らぬ両親も、家族のように過ごした、旅回りの一座の面々も、紅花ホンフアのことは名前すら憶えていない。いや、『紅花ホンフア』という人間がいたことすら、今の彼らは知らない。
 それでも紅花ホンフアは、それを良しとしてその日を生きる。永遠に、世界に嫌われ続けながら。