花と蔦の一幕
船室から見る外は夜だった。
部屋の外からは足音や物音が聞こえてきて、船に何人か残っている者がいることを伝えてくる。
しかしまだ、外に出ている者もいるのだろう。航行中と比べると、それらは心無しか、少ないように思われた。
人の負の感情を暴走させる、『蟲』と呼ばれる生命体。一般人には知覚できず、この船の住人となることで初めて知覚でき、そして討伐も可能となる。
今月初めに、新たに蟲が発生したと連絡があり、船はその場所、イギリスに停泊していた。
蟲が倒されたという報告は数日ごとにあちこちから上がっている。停泊期間も残すところ十日ほどとなった今日も、また誰かが蟲を討伐したらしい。
この部屋の住人、アイビー・トラントゥールは、ちらりと壁にかけた鞭を見た。
ウエストポーチと巻いた鞭を腰につけ、そっと部屋を出る。一瞬、誰かに声をかけようかと思ったが、夜のことだし、と思い直して、一人で歯車の扉に手をかけた。
出た場所は、人通りの少ない道で、そこに建っていた廃墟の扉を開けて外に出る。
誰にも見られていない、と思ったが。
「おい」
肩を掴まれる。振り返ると、厳つい顔の警官が、アイビーの背後に立っていた。
「こんな時間に、ここで何をしていた?」
「何、って、別に」
言いつつ、アイビーは一人で来たことを後悔した。
時間も時間、そして自分は――船に乗ったことで老化しなくなったとはいえ――見た目も年齢的にもハイティーンである。怪しまれないはずがなかった。
「別にってことはないだろう。お前たちみたいなガキが、夜な夜なここで良くないことをしているのは分かっているんだ。そんな鞭まで持ち出して、鞭打たれるのはお前の方だろう。で、今日は何人で、何をやってたんだ? うん?」
迂闊だったと言うべきか、運が悪かったと言うべきか。まさか非行を疑われた上に補導されるとは思わなかった。
完全にパニックになった頭は、上手い言い訳を思い付いてはくれず、それでも何とか弁解しようと口を開く。
「あの、だから、違うんです」
「話は署で聞く。さあ、来るんだ」
腕を引かれる。二、三歩行きかけた時。
「アイビー、何してル?」
後ろから、場にそぐわない、呑気な声が飛んできた。
警官がじろりと声の方を見る。月明かりを背に、アイビーよりも少し背の高い人影が立っている。
「紅花?」
「そうヨー」
「お前もこいつの仲間か? そんなものを持って、ここで何をしている?」
警官が目に止めたのは、紅花が手にしていたヌンチャクだった。
「コレ? 練習ネ、練習。今度の公演でコレ使って出し物するからネ。行くヨ、アイビー。暗いカラ、早く戻んないと、座長に怒られるヨ」
腕を引かれる。後ろから警官が何か怒鳴っていたが、紅花は気にせず駆け出した。
どこに向かっているのかと聞く余裕はなく、ついて行くのに精一杯。
ようやく追ってくる声が聞こえなくなったときには、二人は大きな通りに出ていた。腕時計で時間を確かめると、二十三時を回っている。
「あ、あそこで休んで帰るネー」
二十四時間営業のカフェを見つけ、再び紅花がアイビーの腕を引く。
空いた席に案内され、紅茶をオーダーする。
「ありがとう」
「んー? 気にしなくていいネ。ワタシがけーさつ、嫌いなだけネー」
運ばれてきた紅茶に角砂糖を五つ六つと入れながら、紅花がのんびりと言葉を返す。その様子を眺めていたアイビーは、紅花の額に血が固まっているのに気付いて、色の違う目を見開いた。
「あ、頭……、どうしたの、それ」
「昼に蟲退治してたら、ちょっとネー。へーきへーき、もう血も止まったしネ」
「でも……」
ごそごそとウエストポーチを探り、絆創膏を取り出す。
「これ、使って」
紅花は、差し出された絆創膏とアイビーとを、きょとんと見ていた。アイビーの胸に焦りが生まれる。
「迷惑、だったよね――」
「違うヨー。ありがとネ」
紅花の手が、ひょいと絆創膏を取った。コンパクトミラーを見ながら額に絆創膏を貼り、にっこりと笑う。
おどおどと視線をそらせたアイビーに、紅花は軽く口を尖らせた。
「んー、アイビーももっと笑った方がいいネ。もったいないカラ」
「でも、私の笑った顔は、気持ち悪い、から。皆、そう言って――」
紅花の顔が近付く。
「それは違うネ。人にそういうコト、言う方がおかしいノネ。ダカラ、そんな言葉は早く忘れるコト、約束ネ」
そう言う紅花の顔は酷く真剣で、日ごろの彼女にも似合わない権幕だった。
「う、うん……」
その勢いに押され、思わず頷く。
「ん。ところで、船、どこダッケ?」
「ええ!?」
しかし、続いた紅花の言葉に、アイビーは思わず素っ頓狂な声を上げることになったのだった。
二人が船に帰り着いたのは、明け方頃だったという。
→ 雨の街角