蒼穹に朱は散る
「あれ……?」
チェーニに頼まれた服の繕いをしようと裁縫箱を開け、アイビーは首をかしげた。
使おうと思っていた白い糸が見あたらない。
(そういえば……)
以前、人形のホリーに服を作ったときに使い切っていたのだった。
(糸、だいぶ減ってるから、買い足さないと)
手芸店の場所は覚えている。
ポーチを取って腰に留め、アイビーは部屋を出た。
今日も外は晴れていた。
覚えのある通りを歩き、目的の手芸店に向かう。
店のショー・ウィンドウには今日も、色とりどりの生地や小物が並んでいた。
縫い糸を買って、店を出たときだった。
「アイビー? アイビーでしょ?」
聞き覚えのある声に、ぎくりと身体が強張った。
「マリオン」
フランスに停泊してまもなく知り合った大学生のマリオンが、ほっとした様子で立っていた。
まさか店の中に逃げこむわけにもいかず、アイビーはいくらか顔をうつむけた。
一時期、マリオンの描く絵のモデルになっていたアイビーだったが、蟲に関わる一件で、彼女とは会わないようつとめていた。
彼女を嫌っているわけではない。ただ、自分と関わることで、彼女によくないことが起きるのではないかと怖かった。
「会えてよかった! 気を悪くさせたんじゃないかって、ずっと気になってたの。それとね、あなたを描いた絵、すごく評価が高くて……だから、よかったら見に来てくれない?」
「今日は用があるから……明日ね」
「ええ、待ってるわ」
持っていたチラシをアイビーに渡し、マリオンがぱたぱたと走っていく。
貰ったチラシを畳んでポーチにしまい、船に戻る。
買ってきた糸を取り出し、慣れた手つきで服のほつれを繕っていく。
それが終わると、アイビーはポーチに入れていたチラシを広げて眺めた。
展覧会、と聞いていたが、どうやら学園祭のようなものらしい。
(面白そう……)
そうしていると、船室のドアが激しく叩かれた。
「こんにちはー!」
いきなりの大声に、反射的に身体を強張らせる。
「びっくりした……。チェーニ、服、直ってるよ」
「ありがとう! そうだ、杏からお菓子もらったんだ、一緒に食べない?」
「え、あ、うん」
ひとしきり、チェーニが持ってきたクッキーを食べたり、話をしたりしてすごす。
またねー、とチェーニが出ていくと、部屋は途端に静かになった。
静かだね、と思わずホリーに呟き、アイビーは一人で小さく笑った。
翌日、アイビーはチラシを片手にマリオンの通う大学へ向かっていた。
敷地には学生が出す屋台や、地域の店の出張販売の露店が並んでいる。
アクセサリーが売られているのを見ていると、後ろから軽く肩を叩かれる。
ぎくりとふりかえると、同じ船員の古谷杏が立っていた。少し後ろに、黄康もどことなく落ち着かない様子で立っている。
「っと、ごめんごめん。来てたんだ」
「うん」
「そういやさっき、紅花も見かけたんだよな。すぐどっか行っちゃったけど」
俺がいたからかな、と苦笑して康が呟く。杏が眉を上げて康を見やり、視線を受けた康が肩をすくめる。
露店で青い石がついたネックレスをひとつ買い、展示が行われている建物へ向かう。
「アイビー!」
マリオンがぱっと顔を輝かせる。
展示場には絵ばかりでなく、学生がデザインした衣装も飾られていた。
マリオンが描いたアイビーの絵は、入ってすぐの、誰もが見る場所に飾ってあった。
カフェで外を見ながら座っているアイビーを描いたものだった。自分を見るのが面映ゆく、絵から目をそらす。
ドレスを見て目を輝かせているアイビーを見、後ろでマリオンが頬を緩めていた。
「こういうの好きなの?」
「うん、服とか作るのも好き」
「それじゃここに入る?」
マリオンの隣にいた女性が、冗談めかして口を挟む。
「グレース、アイビーはアメリカに住んでるんだから、難しいんじゃない?」
「冗談よ。でもほんとになったらそれはそれで嬉しいけどね」
「そうなったら、いいんだけどね……」
苦笑いで二人に答える。
世界から嫌われ、いないものとなることを選んで船に乗った自分には、大学生活など望むべくもない。
(たぶん、乗らなくても無理だっただろうけどね……)
「あら、この子がモデルの子?」
「ルイーズ」
緩く波うつ金髪の女性が、つかつかと三人に近寄ってきた。ルイーズ、と呼ばれたその女性がちらりとアイビーを見る。
どこか値踏みでもするようなその視線に、アイビーは思わず目をそらした。
「へえ、マリオン、あんたずいぶん美術の腕あがったのね? 顔の暗い感じとか、本人よりよっぽど本物らしい絵じゃない」
「ルイーズ!」
ルイーズの言葉には棘があった。アイビーが顔を少しうつむける。
顔をさっと赤くしたマリオンが、抑えた、しかしきつい声を上げる。
「なによ、ちょっと批評しただけでしょう? 批判されるのが嫌なら出さなきゃいいのよ」
「そういう問題じゃないでしょ。自分がすごく失礼なこと言ってるってわかってる?」
隣の会話を聞き流していたアイビーは、ルイーズの一点に目を留めて声を立てかけた。
バッグを持つ左手。腕に、紫の斑点が見える。
(ど……どうしよう)
武器は持ってきている。だがまさか、ここでふるうわけにもいかない。
そのとき、ルイーズの肩ごしに、見慣れた人影が見えた。
ポニーテールにした茶髪。紺のワンピースにスキニーパンツ。赤い目。
アイビーと同じ船員――紅花である。
入ってきた紅花が部屋を見回し、アイビーに目をとめた。こっそりとルイーズを指差すアイビーを見て小首をかしげ、ルイーズを見て、つかの間、その顔から表情が消える。
「お姉さん、ちょっと」
「私ですか?」
「ウン。ちょっと会いたいっテ人がいるカラ、来てもらっていいカナ?」
「え、ええ……」
ルイーズを連れて、紅花が展示場を出ていく。
「あ、わ、私もちょっと用があるから……またね、マリオン!」
紅花の後を追うように、アイビーも展示場を飛び出した。
途中で出会った杏と康にも、事の次第を伝える。
「状況はわかったけど、その二人どこ行った? たぶん人の少ないところだろうけど……」
「たぶん、六号棟の方だと思います。そっちの方に行くのが見えました」
後ろから聞こえた声に、アイビーがぎょっとしてふりかえる。
「マリオン!? な、なんで……」
「だって気になるじゃない。急に顔色変えて飛び出していくんですもの」
マリオンの答えに、杏が渋い顔になった。
「あー……危ないから戻ってたほうがいい。六号館はどっち?」
「向こうです、向こうの赤い建物」
マリオンが指さした先、外階段の踊り場に、紅花とルイーズの姿が見えた。
無表情のまま、紅花はルイーズと向かい合っていた。
喰われた証の、紫の斑点。綺麗に粧った顔の上に現れたそれは、ひどく場違いに思えた。
どうにか人気のない場所までルイーズを連れてきたはいいが、どうしても、決定打がつかめない。
思考に余計なものが混じる。
遠くのざわめきが耳につく。
(誰か、呼べばよかったな……)
ルイーズの後ろから、“羨望”を喰らう、百足によく似た蟲が姿を見せた。
気が逸る。
雑念だらけの思考のまま、蟲に向かって床を蹴った。
身体に熱が走る。
直後に激痛が全身をとおり抜けた。
(あ……)
浮遊感。
青空が見えた。
わかっていたはずだった。雑念のある思考のまま動いても、ろくなことにはならないと。
誰かの叫び声が、聞こえた気がした。
紅花がルイーズに肉薄したと見えた瞬間だった。
「下がれ、紅花!」
はっとした康が叫んだ瞬間、何かがきらりと光った。大きくよろめいた紅花が手すりに勢いよく打ち付けられる。
手すりの一部とともに、紅花の身体が落下する。
マリオンが悲鳴をあげる。
「くそっ!」
毒づいた康が駆け出した。かろうじて、落ちてきた紅花を受け止める。
「紅花!」
康の顔は青ざめていた。紅花を見て、アイビーも小さく声を上げる。
目を閉じている彼女の胸元は、赤く染まっていた。
康が上着を脱ぎ、傷にあてて押さえつける。
「お嬢さん、包帯とガーゼを貰ってきてくれ。学校ならそれくらいはあるだろう」
「あ……わ、わかりました!」
マリオンが走っていく。
鮮やかな血がついた大ぶりのナイフを持ったルイーズが、ゆっくりと階段を降りてくる。
「やれやれ、あんなのどこにあったんだか」
杏が呆れたようにぼやく。そこには明らかな怒りがこもっていた。
アイビーも唇を引き結び、鞭を取り出す。
大きく跳ぶようにして、杏がルイーズとの距離を詰める。
跳ねあげるように放たれた蹴りが、ルイーズの手首を打ち、ナイフを弾き飛ばした。
転瞬、杏が大きく飛び退る。一瞬前まで立っていた場所に、鉄パイプが音を立てて振り下ろされた。
「い、いつの間に……」
周囲を四人の男が取り囲む。全員、顔に紫の斑点が見えた。
「あー、そうだよな。展覧会なんて、コイツにとっちゃ食い放題と変わんねえよな」
ぎらりと杏の目が光る。
「康、こいつらはアタシらでどうにかする。お前は紅花つれて船に戻れ!」
「わかった」
杏が拳を鳴らす。
ナイフを拾い上げ、飛びかかろうとしたルイーズの腕に、アイビーがふるった鞭が絡みつく。
ぐいと鞭を引くと、ルイーズは大きく後ろによろめいた。
きっとアイビーを睨むルイーズの視線を、アイビーも唾を飲んで受け止めた。
一方の杏は、鉄パイプを持った四人を相手にしていた。
一人の腹に拳を叩きこみ、悶絶した男が落とした鉄パイプを拾い、刀のように構える。
「ったく、こんなもん使うなんて危ねえじゃねえか。手加減できなくなるんだからさ」
はじめて、杏がにやりと笑った。
黒い、鋭い目が、ぎろりと残る三人を睥睨する。
「あいにくと、お上品にはできないからね。それでもいいならかかってきな!」
一歩大きく踏みこんで、勢いよく鉄パイプをふりぬき、一人をあっさり地に沈める。
流れるように横に動いて、頭を狙ってきた鉄パイプをはねあげ、大きく隙ができた相手の腹を蹴り飛ばす。
息をつまらせ、男が倒れる。
「後は任せる」
その隙を逃さず、紅花を抱きあげた康が一言残し、鉄パイプで鍔迫り合いを演じている二人の横を走り抜ける。
相手がそちらに一瞬気を取られたのを見逃さず、次の瞬間には、杏が躊躇なくその腕に鉄パイプを叩きつけていた。
絶叫が響く。男が腕を押さえて転げ回る。
「離しなさい!」
アイビーと対峙するルイーズが、腕を鞭でからめとられたまま、ヒステリックに喚く。
「離さない」
きっぱりと、アイビーが答える。いくらかその顔は青ざめていたが、鞭を持つ手には力がこもっている。
「よくやった、アイビー!」
身をひるがえして戻ってきた杏が、サマーベストの内側からエアガンを取り出した。
そのまま銃口を蟲に向け、引鉄を引く。
杏の武器はエアガンとはいえ、かなりの改造が施されている。大抵の蟲なら充分撃ち抜けた。
続けざまに弾を撃ちこまれ、蟲はたちまちさらさらと消えていった。
その後、船に戻った二人を康が迎えた。
「紅花は!?」
「……ナタリアのおかげで、命だけはなんとか。だがまだ目を覚ましていないし、傷が深いのと、すぐに止血もしたが、それでも出血がひどかったから、油断はできない、と」
「そうか……」
ふと、杏の顔が曇る。
自室に戻ったアイビーは、ベッドの傍にひざまずいた。
祈る習慣などすっかり忘れていたと言ってもいいアイビーだったが、このときは心から友人の回復を祈った。