蔦の心は雨に迷う
ぷつりと留めた糸を切る。
作っていたホリーのジャケットに、満足気に頷いたアイビーは、針刺しに針を戻すと、ボタンを入れている箱をごそごそとかき回した。
ひとしきり中を探して、唇を尖らせる。
小さめのボタンをあれこれと集めていたのだが、ちょうど良さそうなボタンが見つからない。
(買いに行くしかないかなあ)
はあ、と独り、溜息をつく。
人の負の感情を増幅させ、暴走させる蟲を討つ役目を負った乗員を乗せた船は、昨月からフランスに停泊していた。空間の狭間を航行しているときと違い、外にさえ出れば針でも糸でもボタンでも、買いに行くことくらいはできる。
もう一度溜息をついて、アイビーはポーチを手に立ち上がった。
外へつながる歯車の扉から外に出る。扉が通じるのは人の少ない場所だ、人目を引いた様子はない。
手芸店の場所は、一応事前に調べてはいた。パリの繁華街、ルーヴル美術館も近くにある。
(ユゴー記念館、行けたら良いなあ)
地図でちらりと見た場所を思いつつ、道筋を確かめながら街を歩く。
落ち着いた雰囲気のカフェとブティックの間に、その店はあった。カラフルな看板の下のショー・ウィンドウには、誰かに作られたのだろう作品が並んでいる。ネックレス、ブレスレット、薄手のショール、キルトの小さな壁掛け。
落ち着いた雰囲気の店内にも、布や毛糸の他、色とりどりのボタンやビーズが瓶に入れられて陳列されている。
知らず、アイビーの目が輝く。
船に乗る前から、こういった店は好きだった。船に乗る前は、自宅も学校も、どこに行っても息苦さしか感じなかったが、友人と共に、こうした店を回り、一緒に何か物を作っているときだけは楽しかった。
どれを買おうか、と瓶に詰められたボタンを眺める。欲しかったのは黒いボタンだったが、他にもあれこれと、使いそうなボタンを吟味する。
飾りボタンなどは、ストラップを作るのに使えるかもしれない。
薔薇を象った、赤と青の色違いのボタンを見つけ、アイビーは思わずそれを手にとった。アンネリースとアンネリーゼにこれで何か作ったら、喜んでもらえるだろうか。
そう思った次の瞬間に、恐怖がこみ上げる。
――こんなもの! 喜ぶとでも思ったの?
ヒステリックな母。ばらばらに散らばる布とボタン。よぎった記憶に小さく震える。
「大丈夫?」
はた、と我に返る。客の一人、ブルネットの女性が心配そうにアイビーを覗き込んでいた。
「はい。大丈夫、です」
どうにか笑顔を作る。
「そう? 何だか顔色が良くないけど……。良かったら、そこのカフェで休まないこと? 私ものどが渇いたし」
ええと、とアイビーは言葉を探す。こういった誘いを断るのは苦手だった。気を悪くさせるのではないか、と考えてしまうから。
結局その誘いに頷き、ボタンを買ったアイビーは女性について隣のカフェに入った。
女性はモンタロー(ミントシロップの水割り)を二つ頼み、にこにことアイビーに笑いかける。アイビーもぎこちなく笑い返した。
マリオンと名乗った女性は、運ばれてきたモンタローを飲みながら、美術大学に通っていること、画家を目指していることを快活に語った。メロンソーダに似た色のモンタローはよく冷えており、ミントのすっきりとした風味が口の中に広がる。
「観光? どこから来たの?」
「ええと……アメリカ、から」
「そうなの? 何だか意外。そうだ、ねえ、まだここにいる?」
「うん」
「なら……明日も会えない? あなたにモデルになってほしいの」
突然の申し出に、アイビーは色違いの目をぱちくりさせた。
マリオンが言葉を続ける。
「今度、私の大学で展覧会があって、そこにあなたの絵を出したいの」
「私、の?」
「どうかしら? 無理にとは言わないし、お礼もするけど」
「うん、その、私でいいなら」
「ありがとう!」
マリオンに笑顔で感謝され、アイビーはどぎまぎして口の中で何か呟いた。
明日の朝、十時にこのカフェで待ち合わせることを約束して、その日はマリオンと別れた。
翌日、マリオンと待ち合わせたアイビーは、彼女のアパートへ向かった。その小さなアパートは、パリの郊外に建っていた。マリオンの通う大学からは少し距離があるが、家賃が安く、一人暮らしをするにはちょうどよかった。
アトリエも兼ねたその部屋は、入ると絵の具の匂いが鼻をついた。
「ごめんなさい、散らかってて」
「ううん。えっと、何をすればいい?」
「くつろいでて」
マリオンはぱたぱたと部屋中を歩き回っている。その様子を目で追いながら、アイビーは部屋を見回した。
画用紙、スケッチブック、様々な大きさのキャンバス、イーゼル、絵の具とパレット、壁に掛けられた絵。
そんな中に、広告が混じっていた。大学で開かれる展示会を知らせるものだ。中央には、赤いドレスの写真が載っていた。二種類の生地と、黒いレースで作られたドレスだった。
「綺麗でしょ、それ。友達が去年デザインしたんだ。評価が高かった作品は、そうやって載せてもらえるの」
「そう、なんだ。いいなあ」
大学のことは、アイビーにはよく分からない。五年前、船に乗ったときは十七歳だった。乗っていなければ、自分も今のマリオンと同じくらいの年になっている。
とはいえ、大学に通う自分は想像ができなかった。高校に通っていたときも、行きたい大学はあったが、行けるとは思っていなかった。両親とも、学費どころか受験の費用すら、出すのを惜しがっていることを、アイビーは感じ取っていた。
大学には行きたかった。被服や服飾を学びたかった。だが、誰もそれを認めても、分かってもくれなかった。ただ一人、人形のホリーを作ってくれた友人、キャロルを除いては。
一度作業に取りかかると、マリオンはぴたりと口を閉ざし、キャンバスに木炭を走らせた。
描いては消し、消しては描いて。すぐそばでそれを見ていたアイビーは、顔が強張らないよう、全神経を傾けなければならなかった。
時間は飛ぶように過ぎていく。辺りには夜の帳が降りかけ、電気のついていない部屋もまた暗くなりかかっていた。
何度目かに顔を上げて、ようやくそれに気が付いたマリオンは、慌てて木炭を置いて立ち上がった。
「ごめん、すっかり遅くなっちゃった! 言ってくれれば良かったのに」
「邪魔したら、悪いから」
帰り際、マリオンが礼だといくらかの金を渡そうとしたのを断り、代わりに明日も来ていいかと訊ねた。
勿論、と快諾したマリオンは、それでも持って行けとアイビーに金を握らせた。
その翌日から、絵には少しずつ色がつけられていった。絵の中のアイビーは、部屋の中ではなく街角に座っていた。描かれた自分は、なんだか自分よりも生き生きして見えた。
色を塗っていく合間、マリオンはしばしば、友人のことを口に出した。
幼い頃から、他の誰より絵が上手かったこと。何度も展示会で賞を取っていること。大学でも、評価が高いこと。
まるで自分のことのように話すマリオンは楽しげで、アイビーもにこにこと話を聞いていた。
翌日も、その翌日も、アイビーはマリオンの元に顔を見せた。絵は少しずつ完成に近付いていた。
それと共に、少しずつ、マリオンの表情は険しくなっていった。
四日目、雨の中、その日も顔を出したアイビーを迎えたマリオンは、それまでよりも険しい顔つきを隠せていなかった。
「何かあった?」
「昨日、グレースが来たの」
グレース。マリオンの友人の名だ。
「もう作品は作ったんだって。いつも早いの。私はいつだって、ぎりぎりまでかかるのに」
青、緑、白、紫と、絵の具がついた手が握られる。
マリオン越しに絵を見る。その絵に紫は使われていない。
――喰らわれている人には『紫の斑点』が見えます。
掲示板の文章を思い出す。
気のせいであればいい。紫色は別の作品のせいで、蟲は関係ない。そう思いたかった。
「マリオン!」
叫んで手を伸ばし、マリオンの腕を掴む。ぎくりとマリオンがこちらを向いた。
「き、気分転換に、外に出よう?」
「駄目、時間がないの。あなたは時間があるから、気分転換だってできるけど」
アイビーの目の前で、マリオンの肌に、紫の斑点がその数を増やす。
なぜ。いつの間に。
そんな疑問を振り払い、マリオンの腕を掴んだ手に力をこめる。
一瞬の後、振り払われたアイビーが勢いよく床に尻餅をつく。
「ちょっとだけ、ね? 外の空気吸うだけでも」
そうして強引に、半ば引きずるようにして、アイビーはマリオンをアパートの外へ連れ出した。
「呑気なのね。こっちは早く絵を仕上げなきゃいけないのに。呑気で羨ましいったら」
呑気さは、アイビーには正直なところ当てはまらない言葉ではあったが、そんなことに構ってはいられない。
目の前を、銀が横切る。すんでのところで上体をそらし、振るわれたナイフは、アイビーのシャツと肌一枚を浅く切り裂いただけに留まった。
マリオンの肌には紫の斑点が浮き上がり、ぞろりとその陰から百足が這い出してくる。普通の大きさよりも一回り大きい。
嫌悪で身が震える。それでも、放っておくわけにはいかない。退治のために、自分は船に乗ったのだ。
雨の中へ飛び出し、腰のポーチに手を伸ばす。
革紐を編んだ一本鞭。ひゅう、と音を立て、伸びた鞭はマリオンの手にしたナイフに絡み、やすやすとその手からナイフをもぎ取った。
飛びかかってきたマリオンが、まともにアイビーにぶつかる。二人はもつれ合い、泥と水溜まりの上を転がった。
渾身の力をこめてマリオンの身体を押しのけ、起き上がる。額に張り付いた髪を泥と一緒にかきのけ、息を弾ませる。
鞭は地面に落ちたままだった。アイビーはそれを拾おうとはしなかった。
ひと打ちで、革の鞭は容易く皮膚を破る。その傷跡がどれほど醜いか、そして残り続けるものか、アイビーは知っていた。マリオンに振るう気にはなれなかった。
再度、掴みかかってきたマリオンを掴み、その勢いのまま、地面に倒れ込む。
泥の上にマリオンを倒す。伸ばした手に、ナイフの柄が触れた。
とっさにそれを取り上げ、頭上高く振り上げる。
目を見開いたマリオンが何か叫ぶ前に、アイビーはナイフを振り下ろした。
呼鈴が鳴る音に、我に返る。
「大丈夫?」
気遣わしげなグレースが顔を覗かせる。玄関にぺたりと座り込んだまま、マリオンはのろのろと顔を上げた。
頭は靄がかかったようにぼんやりとしている。寝起きのように。
マリオンは全身ずぶ濡れで、そこここにまだ乾いていない泥がべったりとついていた。
「んー、うん……」
髪から泥混じりの滴をしたたらせながら、力なく頷いたマリオンに、グレースが眉を寄せる。
グレースが持ち前の世話焼きを発揮して、マリオンの服を着替えさせる。そのとき、テーブルの上の書き置きに目が止まった。
――ごめんなさい。もう来られない。
急いで書いたのだろう、走り書きの読み辛い文字は酷く震えていた。
雨の中、歯車の扉まで駆け戻る。見られていようといまいと構わずに、アイビーは船の中へ飛び込んだ。
自分の部屋へ駆け戻る。どさりと椅子に腰を下ろし、身体を丸めて目を閉じ、耳をふさぐ。
かちかちと歯が鳴る。
恐ろしかった。蟲ではなく、自分が。
マリオンが蟲に喰われたのは、自分のせいではないのか。自分が彼女の家に行かなければ、そもそも自分が彼女と会わなければ。
声を上げる代わりに、血が出るほどきつく歯を噛み締め、両手をいよいよ強く両耳に押し当てる。いつもそうやって、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
嵐は中々過ぎてくれなかった。雨どころか、ハリケーン並みの暴風雨が荒れ狂っていた。叫びださないようにするのが精一杯だった。
ふわりと柔らかいものが降ってきた。タオルだった。
「風邪引くネー」
タオル越しに紅花の顔が見えた。口調も何も普段どおりの紅花だった。
紅花はごしごしとアイビーの髪から水と泥を拭い、乾いた服をひと揃い取り出して並べる。
一旦は鎮まっていた感情が、ここにきて再び突き上げてきた。着替えを途中で放り出したまま、アイビーは紅花に縋りつき、わっと声を上げて泣き出した。
紅花は面食らったように目を丸くして、しばらくされるがままになっていた。やがて紅花のしなやかな腕が、そっとアイビーの背に回された。
紅花は何も言わなかった。アイビーがしくしくとしゃくりあげ、涙が止まってしまうまで、そうしてじっとしていた。
きまり悪そうに身体を離し、着替えを済ませたアイビーは、ぽつりぽつりとここ数日のことを紅花に話した。自分の抱える思いも全て打ち明けた。話の間中、紅花は一言も口を挟まず、黙って時々頷きながら聞いていた。
話が終わっても、紅花は何も言わなかった。代わりに部屋を出て、マグカップにいっぱいのココアを入れて戻ってきた。
お湯で作られたココアは水っぽかったし、粉がだまになっていたが、とにかく甘くて熱かった。唇を尖らせて吹いて冷ましながら、ちびちびとココアを飲む。
「行路難
行路難
多岐路
今安在
長風破浪会有時
直挂雲帆済滄海」
(道を行くことは難しい
道を行くことは難しい
分かれ道は多い
今どこにいるのだろうか
遠くから吹いてくる風が波を割るときがきっと来る
すぐに雲のように高く帆を上げて船を走らせ青海原を渡ろう)
首を傾げたアイビーとは逆に、紅花はにこにこと笑っている。
「何?」
「道を行くことは難しいし、分かれ道は多いケド、いつかは追い風が吹いてくるカラ、そのときには自分も進んでいこう、って詩ネ」
アイビーがいよいよ首を傾げる。
「アイビーは、間違ったコトはしてナイし、アイビーが悪いわけでもないネ。考えすぎ、良クナイ」
「ん、ありがと」
「ドウいたしましテ」
ひらひらと手を振って、紅花が部屋を出ていく。
マグカップをテーブルに置き、アイビーはホリーに目をやる。真新しいジャケットを着たホリーはどこか得意げに見えた。
その横には、薔薇のボタンが付いた、赤と青、色違いのストラップが置かれていた。
※作中の漢詩(行路難三首 李白)は以下より引用(原文旧字体)
宇野直人『漢詩名作集成 中華編』(明徳出版社 二〇一六年)四三四 - 四三五頁
但し、訳は作者による。
→ その手に再び銃を