蘆橘の決意
読み終えた本を小脇に抱え、紅花は部屋を出た。
本はしばらく前に、読書仲間の船員・アイリスがとても面白かったからと貸してくれたものだ。読みはじめた矢先、紅花はフランスで大怪我をし、それからも何かとあって本を手に取る気になれず、昨日ようやく読み終えたのだった。
本は普段、紅花があまり読まない種類のものだったが、確かに面白かった。
アイリスの船室につき、ドアを軽くノックする。中からは、すぐに応えがかえってきた。
「紅花!」
ドアを開けたアイリスが、紅花を見て安堵の表情を浮かべる。
「久しぶり、アイリス。本、面白かったネ。アリガト。返すノ、遅くなっテごめん」
「それは、いいんだけど……怪我、大丈夫? ずいぶんひどかったって聞いたんだけど……」
案じる色を瞳にあらわして、アイリスが紅花を見つめる。
そういえば、フランスで怪我をしてから、アイリスとは会っていなかった。
「ウン、もう大丈夫ネ」
笑顔。
かなり深手だったのは確かだし、下手をすれば死んでいたような怪我ではあったが、今は傷も塞がり、痛みももうほとんどない。
つかのま、紅花の顔を見ていたアイリスが、不意に彼女の腕を強くつかんだ。
「お願い、もう無茶しないで……! 心配したんだから……!」
アイリスの赤い眼がうるんでいる。
彼女はかなりの心配性だ。停泊のとき、外に出る船員のことは――それが誰であっても――無事に帰ってくるまでずっと気にかけている。帰ってきても怪我をしていたら涙を流す。そういう船員だ。
誰にでも優しい少女。きっと家族も――。
胸の奥がざわつく。
「うん、今度からは気を付けるネ。心配、してくれテ、ありがと」
笑顔。
目を細めて、口の端を上げて。
――人の目があるところでは、暗い顔など見せてはいけない。
――暗い顔は、悪い印象を持たれる。
――笑顔でいるんだ。
だから、笑顔を。
「本当に、もう怪我なんかしないで。……絶対よ?」
じっと見つめられて、ほんの一瞬、紅花の顔に貼り付いていた笑みが拭ったように消え失せた。
こちらを気遣う目。心底、心配している目。
「気を、つける、ね」
ゆっくりと、言葉を押し出す。
その顔に笑みは戻っていたが、それは心なしか固い微笑だった。
ぎこちなくなった空気を変えるように、アイリスがお茶でもどう? と誘う。
「うん、もらうネ」
その後、アイリスとお茶を飲みながら、最近読んだ本について二人であれこれと話をする。
アイリスの部屋からの帰り、紅花は甲板に出ていた。
別に目的があって来た場所ではない。ただなんとなく、部屋にまっすぐ帰る気にはなれなかった。それだけだ。
甲板に出て、見えるのは一面の星空。
手すりにもたれかかる。
人がいないことを確かめて、笑みを消す。
胸のうちで渦巻く、暗い感情。
――あの子は、こんな自分でも気にかけてくれる。
――あの子は、何もない自分とは違う。
雑念。
――あの子は、何でも持っている。
――あの子は、何でも持っている。
――自分は、何も持たないのに。
はた、と我に返って頭をふる。
(いけない)
その考えは――持ってはいけない。
だが――。
本当は、ちゃんと知っている。ずっと、ずっと、自分は誰かを羨んでいる。
自分には、何もない。両親の顔も知らない。兄弟姉妹の顔も知らない。そもそも、兄弟がいるのかどうか、両親がどこの誰なのか、自分はどこで産まれたのか、それすら知らない。
覚えているのは、揺れる籠と、青い空。それだけだ。自分を売っていたという人買いの顔すら――もう、覚えていない。
逆に、可馨には何でもあった。
厳しいが優しい父、建新。温雅で親切な母、桜綾。
難しい曲芸も、すぐにこつを飲みこんでこなす才能もあり、演劇の才能もあった。
あの『笑う女』の嬰寧の役も、いつも可馨がつとめていた。一座の中心で、誰からも慕われていた。
そんな彼女を、度々自分と引き比べては羨ましいと思っていた。
別に自分が一座で冷たくされていたわけではない。建新も、桜綾も、孤児だからと憐れんで腫れ物あつかいにするでもなく、家族のように扱ってくれた。
それでもどこかで、違っているとは思っていた。羨ましいと、思っていた。
しかし、それは持ってはいけない感情だと、考えないようにしていた。蓋をして、しまいこんでいた。誰にも――自分にすら――見えないように。
そんな暗い感情は向けてはならない。いや、抱いていると悟られることさえ、あってはならない。
なぜなら、可馨は一番の親友だったのだ。
「どうしたの、かわいい顔に雲がかかっているよ」
声をかけられ、紅花はすぐに笑顔を作って相手を見た。
ラファエル・羽生。船内で船員のメンタルケアをしている船員である。
「ん、大丈夫ネ」
「そうかい?」
羽生が小首をかしげる。
「そうだ、ちょっと手を貸してくれないかな? 足元が悪いからね」
「イイヨー」
羽生は視力が極度に低く、こうして手助けを頼むことも多い。
厨房の奥の小部屋まで案内すると、羽生は蜂蜜を入れたホットミルクを出してくれた。
「ありがと」
「気にしないで。なにか困ったことがあるなら、ハニーお兄さんに話してごらん?」
まだ湯気が立っているホットミルクを一口含んだ紅花は笑みを作りかけ――口元が引きつったような、奇妙な顔になった。
きっと――気付いている。
羽生は乗船前、天才子役として芸能界で生きていたと聞いたことがある。それならきっと――繕うのは、無意味だ。
そう思っても、紅花は微笑を作る。
「んー……会わないト、いけない人ガいるんだケド……なかなか、その気ニなれなくテ」
嘘ではない。“彼”――黄康との関係はずっと、胸にわだかまっている。
「おや、喧嘩でもしたのかな」
「そういうわけデモ……ないんだけどネ。色々あって、気まずい……カナ」
うんうん、と、羽生はうなずきながら話を聞いている。その穏やかな空気からか、珍しく紅花も言葉を繕うことをしなかった。
「君はその人が嫌いなの?」
「え……まさか」
首を横にふる。康のことは、嫌ってなどいない。ただ――。
――怖い。
「それなら……話し合ってみることも、必要じゃないかな」
「話し合い?」
「自分が思っていることを話して、相手が思っていることを聞いてみて。相手の気持ちがわかったら、少しは関係もよくなるんじゃないかな?」
「……考えてみる。アリガト」
「どういたしまして。またおいで。ハニーお兄さんはいつでも話を聞くからね」
笑顔で小部屋を出て、今度はまっすぐ自分の部屋に戻る。
雑念。
――怖い。
乗船している康が、自分の知る康とは別人だというのはわかっている。顔を見せに行ったところで、機嫌を損ねることはないだろうともわかっている。
それでも、自分が抱えているものを話したとき――彼はどんな顔をするだろうか。
だが、きっといつかは、話さなければならないことだ。
それに自分でけりをつけなければ、この雑念は、いつまでたっても消えてはくれない。
ふ、と息を吐いて、紅花は腰かけていた椅子から立ち上がった。
決心はしたものの、康の部屋へ向かう紅花の足取りは重かった。
ドアを叩く。
応えがなければいい、と思ったが、すぐに応えがあった。
ためらいがちにドアを開ける。
「おや――驚いたな」
驚いた、と言いつつ、こちらを見る康は、言葉とは裏腹に落ち着いている。
「どうした? まあ、とにかく座りな」
「うん。その……前は、ごめん」
何のことかと首をかしげる康に、医務室でのことだと言葉を重ねる。
「ああ――あのことか。別に気にしなくていい。大したことじゃない」
あっさりと答えられ、紅花は少しばかり拍子抜けして康を見返した。
叱られはせずとも、何か言われるかと思っていたのだ。
もしかしたら、何か言われたかったのかもしれないが。
「その、話が――あって」
「うん。聞こうか」
口ごもり、言葉を途切れさせながら、紅花はぽつぽつと話をはじめた。
船に乗る前は、旅回りの小さな一座の座員として、中国の各地を興行していたこと。
座長の梁建新の娘、可馨と仲がよかったこと。
紅花の知る康も同じ一座にいたこと。
可馨は、康に恋慕の情を抱いていたこと。
紅花もそれを知っており、可馨を応援していたこと。
あるとき、一座の出し物のひとつだった演劇で、いつも可馨がつとめていた役を、自分がつとめることになったこと。
興行の初日が終わったその日、可馨が蟲に喰われたこと。
そして――可馨から紅花を庇い、康が命を落としたこと。
話し終え、紅花は口を閉じた。
ずいぶん時間がかかったが、康は一度も急かしたり、口を挟んだりすることなく、黙って聞いていた。
恐る恐るうかがった康の表情は、話をする前と変わらなかった。
「大変だったんだな」
穏やかな声。
「黙ってて、ごめん。――怖かったの」
自然に、言葉がこぼれた。
「皆を、守りたくて、船に乗って。でもアナタが生きてて、船に乗ってきて。アナタがワタシを知らないことはかまわなかっタ。むしろ――ありがたかっタ。デモ……康兄さんは、ワタシのせいで死んだんだから、ソレを、アナタが知るのガ、怖かっタ。嫌われるのはしかたない、ッテ、思って――」
「紅花」
「――ううん、違う。怖かった。責められるのが怖かった! 嫌われるのが怖かった! だって……ダッテ、ずっと隠しテなんておけない、ダカラ――いつアナタが知るのかッテ、ずっと思ってタ! 知ったラ絶対嫌われるッテ、そう思ってた!」
「紅花」
肩を軽く叩かれる。
「辛いことを話させて、悪かった。ありがとうな、話してくれて」
記憶と同じ、優しい声。
「俺は確かに、お前の知ってる黄康じゃない。だが、これだけは言える。黄康は、死んだことをお前のせいだと責めることは、絶対にない。それでお前を嫌うこともない。たとえ自分が死んだとしても――お前が無事だったなら、後悔はない」
言葉が染み入る。
ぷつりと、紅花のうちで何かが切れた。抑えてきた感情が決壊する。
わっと泣き出した紅花に、康はつかのま呆気にとられていたが、そっとその身体を引き寄せた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、話さなくテ、ごめんなさい、気付かなくテ、止められなくテ、ごめんなさい」
泣きじゃくる紅花の背を、康はなだめるように優しく叩いていた。
しばらくして、ようやく涙を拭った紅花は、ばつが悪そうに康から離れた。
「紅花」
気まずくなった空気を変えるように、康が口を開く。
「また色々、話をしてくれないか。俺は……戦争しか知らないから、他の世界の話も聞いてみたいと想っている。お前がよかったら、だけどな」
「ウン、いいよ――康兄さん」
紅花の言葉を聞いて、康は驚いたように目をしばたたき、ありがとうな、と微笑んだ。
部屋を出るときには、胸にあった雑念は、だいぶ薄くなっていた。
→ 硝煙は遠く