阿吽が消えた日
日曜。杏が若頭の高遠の運転で向かったのは、町から離れた山中にある料亭だった。
会員制の高級料亭。昔から秘密クラブのように使われていたらしい。
薄青の絽の着物に白い帯、艶やかな緑の黒髪をきっちりと結い、薄化粧をした杏が車を降りる。
既に話がとおっているらしく、杏は部屋まで案内された。
まもなく、スーツに身を包んだ眞人が現れた。
写真で見たよりも男ぶりがいい。
こんにちは、と挨拶をかわし、あたりさわりのない天気の話、それから趣味の話になった。
「古谷さんの趣味は何ですか?」
「料理ですね」
「料理! それはいいですね。女性はやはり家庭的じゃないと。あ。もちろん料理は一から手作りですよね。レトルトとか素とか手抜きですし、冷凍食品とか論外ですよね」
「はあ、そうでしょうか」
杏としては使えるものなら使えばいいと思うのだが、眞人は憤然として頷いた。
「そうですよ! 女性なら料理はちゃんと作るべきでしょう。それをレトルトとか、手抜きですよ手抜き」
眞人がまくしたてる。
ここが自分の家で、相手が自分の組の若い衆ででもあれば、文句があるなら食うな、ですませるのだが、ここは自分の家ではないし、相手は他人である。
ここは黙って穏便にすませよう、と、杏は愛想笑いに全神経をかたむけた。
そんな杏の内心を知るわけもない眞人の話はとどまるところを知らない。
レトルトを使う女は失格だとか、冷凍食品はありえないとか、さんざん自説を展開していた。
「女性は家にいて、家事をきっちりやるのが理想ですね。旦那の言うことには口を出さないのは当然で。あと食器乾燥機とか全自動の家電とか、そういうのを欲しがるような女は嫌ですね。論外ですよ。家事は自分の手でやってこそですよね」
「まあ、そのあたりは人によっていろいろと考えがあるでしょうし……。私としては家にいられるだけの経済力が男性にあれば専業主婦で構いませんけれど」
「ええ? 経済力がどうでも、それをやりくりするのも女の仕事でしょう?」
目の前の湯呑をつかんで、眞人に茶をぶちまけて帰りたくなる衝動を必死で押さえ、無理やり笑顔を作る。
(そんな女が今どきいるかっつの)
おそらく今の自分は目が笑っていないだろう。
「ところで秋庭さんのご趣味は?」
「自分はアウトドア系……最近は登山をはじめたんですよ」
「登山ですか」
最近あの山に登った、この山に登った、と並べる眞人の話を、杏はふんふんと聞いていた。
登山に興味があるわけではないし、しばしば自慢話が挟まるが、ひたすら自分の理想の女性像を語られるよりはまだ聞いていられる。
ふと、眞人が言葉を切った。鋭い目で杏をじっと見る。
「さっきから、何? 作り笑いばかりで人を馬鹿にしてる?」
「別に、そういうことはないけれど?」
精一杯穏やかに答える。
不審げに、眞人はじろじろと杏を見てくる。
そのとき、離れたところから複数人の叫び声が聞こえてきた。
思わず二人は顔を見合わせる。
やがて、ばたばたと走ってくる足音が近付いてきた。高遠ともう一人、鬼頭会の組員らしい男が走ってくる。
「若! 大変です! 大槻が!」
「お嬢! 親父さんが!」
「父さんが、何?」
「お、親父さんが、撃たれて――」
それを聞いて、とっさに部屋を飛び出そうとした杏の腕を眞人が掴んだ。
眞人の顔は異様に歪んでいる。
「謀ったな、古谷――!」
「はあ!?」
ぐいと勢いよく拳を突きあげ、眞人の手を外す。
「騒ぎを起こして、その責任を鬼頭会にかぶせてこの先優位に立とうって魂胆なんだろう!」
「誰がそんな回りくどいことをするか、馬鹿馬鹿しい思いこみもいい加減にしろよこの青瓢箪!」
言ってしまってからしまった、と思ったが、取り消すこともできない。
「古谷の思い通りになんかさせるかよ!」
眞人が組員から、彼が持っていた日本刀をもぎとった。
「若!?」
止めようとした組員が斬り伏せられる。
そのまま、刃先は杏に向いた。
「お嬢!」
高遠が眞人に組みつく。
そのまま押さえこめると、杏も高遠自身も思っていたのだが。
おお、と眞人が獣のような唸り声をあげ、高遠を跳ね飛ばした。
襖ごと倒れこんだ高遠が怒声をあげ、懐から拳銃を取り出す。
しかし銃弾が放たれるより早く、眞人がふるった白刃が、高遠の首筋をはね切った。
その勢いを殺すことなく、杏へ向けて血塗れの刃がふるわれる。
顔の左側に激痛が走る。
生暖かい液体が顔を伝う。
半分欠けた視界で、杏はとっさに高遠の拳銃を拾った。
「手前ェ、いい加減にしろよ!」
眞人に銃口を向け、ためらいなく引鉄を引く。殺すつもりはなかったが、せめて刀を離させるつもりだった。
しかし。
(嘘だろ!?)
弾丸は、眞人の刀に弾かれていた。
「……ったく、しゃあねえや。死んでも知らねえぞ」
ぐい、と口角を持ち上げる。
杏の朱唇が、弧を描いた。
一気に懐に飛びこんで、当て身でも食わせる。
一刀は受けることになるだろうが、懐に入ってしまえば刀は使えない。
とにかくここから離れて、来ているはずの京と合流する。
そう杏が心を決めたときだった。
眞人の後ろに、影が立つ。
眞人よりもゆうに頭ひとつ分は背が高い、金髪渋面の男が立っていた。
その気配に気付いた眞人がふりかえるより早く、男が手にしたサーベルが眞人の胸を貫いていた。
男の視線が杏へ向く。
ひやりと、杏の背を氷が伝い落ちた。
二人が睨みあっていたのは、後から思えばそう長い時間ではなかっただろう。
しかしこのときの杏にとっては、この時間はまるで永遠のように感じられた。
ふいと男が踵を返して去っていく。
大きく息を吐く。
ずきずきと顔が痛む。
「大丈夫……じゃないか」
ぎくりと声の方を見る。
濃紺のフードを深く被った小柄な人影が、部屋の入口に立っていた。
「誰?」
「僕も説明したいのだけど、申し訳ないが今は時間がない。ただ、傷の手当はしておこう。此方は早く逃げたがいい」
慣れた手つきで、フードが包帯を巻いてくれた。
「ん、どうも」
眞人が持っていた日本刀を拾いあげる。そのまま、杏は声が聞こえた方へ走り出した。
「ちょ、そっちは――」
危ない、という声を無視する。
後に残されたフードの人影は、呆れたと言わんばかりに溜息を吐いた。
「ケイ、何があった?」
「アン!? お前その格好――」
「何だっていいよ、何があった?」
顔に包帯を巻き、血塗れの抜き身を引っさげて走ってきた妹に、京が絶句する。
「何があったか聞かれたって、俺にもさっぱりだよ。外で待ってたらいきなりこの騒ぎだ。親父はどうにか担ぎ出して病院に運ばせたんだが、もうこっちも鬼頭も何人か殺られてる」
「鬼頭の大槻というやつが、急に難癖をつけはじめて、それからこんな騒ぎになったんです」
京の隣で中の様子をうかがっていた組員・黒須が抑えた声で簡単に語る。
「難癖?」
「はい、はめるつもりか、とか何とか」
「でも……確か対等な協力のための話し合い、だろ? 今日は」
「蟲、だね」
静かな声が割って入る。
杏の背後に、先のフードの人影が立っていた。足音は全くしなかった。
「何だ、お前は!」
黒須が人影に銃口を向ける。その威嚇にも、フードは怯んだように見えなかった。
怖いなあ、とフードが呟く。声には全く恐れはなかったが。
「僕は怪しい者ではないよ。此方からすれば部外者なのはわかっているけれど、今はこの事態をおさめるのが先ではないかな」
「おさめる? お前が?」
京が鋭くフードを射すくめる。
「そのために来たからね」
人影がすいと部屋に入っていく。足音は全く聞こえなかった。
部屋の中は朱に染まっていて、そこここに黒服が折り重なって倒れていた。
生きている何人かは、呆然と部屋の中央に立つ男を見つめていた。完全に戦意を喪失しているのは傍目にも明らかだった。
視線が集まっていたのは、眞人を切った、あの男だった。
果たして何人分のものなのか、男は全身に返り血が跳ねていた。
フードのほうはつかの間男に顔を向け、苦笑とも不快とも思しい、なんとも言えない表情――もっとも、見えているのは口元だけなのだが――を浮かべた。
「この様子ならもう片付いたのかな、ルシャーチ?」
男――ルシャーチが小さく頷き、何にも興味がないといった様子で部屋を出ていく。
男が立ち去る方向に呆然と立ち尽くしていた男が、ぎくりとして足をもつれさせながら飛び退いた。
杏を含めたけが人はそれぞれ病院に運ばれ、死体が転がる血塗れの部屋の処理は、残った京たちに任された。
それからひと月。
例の抗争がようやく一段落し、京は久しぶりに自室でひと息ついていた。
父は未だに意識が戻らず、母はそんな父に付き添っている。
杏の傷は命にかかわるほどではなかったが、眞人を殺したのは彼女だろうと思いこんだ鬼頭会からは、杏を出せと再三再四連絡がくる。
今のところ、それはどうにかかわしている。
「ケイ、入るよ」
「アン、何か用――」
ドアを開けた京が、ぽかんと口を開けて固まった。
紺のシャツにジーパンを身に着けた、顔にはまだ痛々しい傷跡が残る杏が立っていた。
京の顔を見て、杏が吹き出した。
「何、その顔」
「いや、お前、その格好……」
「うん、暑いから入っていい?」
「あ、ああ」
部屋に入ると、杏は近くの椅子に腰掛けた。
「目、大丈夫なのか?」
「いや、ほとんど駄目。明るさと色がどうにかわかるってくらい。むしろ見えてるのが奇跡だってさ」
「それで、その格好は?」
「うん、ここんとこ考えてたんだけどさ、“蟲”の話、聞いたろ?」
二人とも、件のフード――ミスルトウ――から、“蟲”の話を聞いていた。
絶望から生まれ、人の負の感情を増幅、暴走させる生命体――“蟲”。
今回の抗争の原因や眞人の豹変も、その蟲が原因だという。
「ああ、あの与太話か」
「与太だと思う?」
「与太だろ」
杏が眉をひそめる。納得いかないときの彼女の仕草だ。
「信じてるのか?」
「どっちかというとね。眞人はともかく、会合の場で、もう手を組むって決まったときに、わざわざ難癖つけるような馬鹿、普通はいないだろ」
「それはそうだけどさ。それで?」
「うん、契約、しようと思ってさ」
信じていると聞いてから、その言葉は薄々予想していた。
「そうか」
「結構、悩んだんだけどさ。たぶん、こうするのが一番いいのかなって思うんだ。鬼頭のほうからは、アタシを出せって言ってきてるんだろ。それに組のほうだって、アタシは火種にしかならないだろ。知ってるよ、父さんが危ないから、組はケイが継ぐのか、アタシが継ぐのか、組の中で話題が出てるの。これで高遠が生きてたら、そんな話も出なかったんだろうけど、父さんはあの状態で高遠も死んでるし、他のも大怪我でまとめられる状態じゃないんだから、すぐに組をまとめられるのはケイかアタシだろ。それに、さ」
言葉を切った杏が、珍しく哀しげに笑った。
「正直、もう“古谷杏”でいるのに疲れたんだ。何やったって“やくざの子”としか見られないしさ。……そういうの考えていくと、やっぱりアタシが契約するのが最善かなって」
京はそれを黙って聞いていた。
話を聞き終えた京は立ちあがり、棚からエアガンを一挺取った。
「これ、持っていけ」
「……これ、一番大事にしてたやつじゃん」
「餞別だよ。それ、だいぶ改造してるからな、気を付けろよ。目にでも当たったら最悪死ぬぞ」
「うん、ありがとう、京」
ずしりと重いエアガンを受け取る。
もう一挺、以前は父が持っていた自動式拳銃を杏が持っているのに気付いた京へ、彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。
「いつ行くんだ?」
「明日かな。京にだけは話して、荷物まとめようと思って」
「全部置いていくのか?」
「うーん……スミ婆ちゃんに仕立ててもらった着物は持っていこうと思ってる。あとは、どうしようかな」
「少しは持っていけよ。全部置いていかないでさ」
「そうだね。そうする」
重荷が取れた様子で、杏が微笑した。
翌日、大きなキャリーケースを転がしながら、杏は屋敷を出た。
バス停まで来てベンチに腰かけ、持っていた契約書に目を落とす。
話を聞いたときに、杏のもとに現れたものだった。
自分の存在と引き換えに、“蟲”を倒す力を得る手段。
覚悟はもう決めている。
目を閉じ、一度大きく深呼吸をして。
”古谷杏”
ざ、と風が吹いた。
黒髪が風になぶられ、視界が遮られる。
風が止み、髪をかきあげたときには、持っていた契約書は影も形もなかった。