雨のち曇り

 面倒なことになったものだね、とミスルトウは茶をいれながら呟いた。
 その向かいに座り、すこぶる不機嫌な顔で古谷杏がうなずく。
「今はどうなっているの?」
紅花ホンフアはかなり興奮してて、落ち着くまでは面会謝絶。カンは大丈夫だとは言ってたけど、あれからずっと部屋に閉じこもってるよ。まったく、リーガンのやつ、余計なことしやがって」
 杏の目がぎらりと光る。
「そうだね」
 相槌を打つミスルトウの声は、わずかに震えを帯びていた。
「で、どうするよ、これから」
やつがれとしては、リーガンに反省してほしいと思っているよ。彼女はいい加減、自分の行動の結果に責任を持つことを覚えるべきだ」
「それはアタシも同感。次になんかあったらたぶん、もっとひどいことになりそうだし」
「ふむ……リーガンのことは、やつがれに預けてもらえないかな?」
「アンタに?」
「うん。彼女を止められなかったのは、やつがれだからね」
「まあ、そのほうがいいか。アタシは二、三発くらい食らわせそうだし、それはよくないとはわかってるんだけどね。でも無茶はするなよ?」
「もちろん」
 ミスルトウがうなずき、湯呑に伸ばした手をぱっとひっこめる。
 その様子をじっと眺めていた杏の目から、怒気がいくぶん薄れつつあった。
 まだ湯気が立っている茶を口に含む。
 ちりちりと熱が舌を刺した。
「リーガンをここへひっぱってこようか?」
「いや、やつがれのほうから会いに行くよ。幸い今はどこにも停まっていないから、船のどこかにはいるはずだし、それなら探すのもそんなに骨は折れないからね」
「そうか。ならそっちは任せるよ」
 アタシはちょっと厨房借りてくる、と、茶を飲み干した杏が立ちあがる。
 それを見送るミスルトウの朱唇は、固く引き結ばれていた。
「さて、彼女を探しに行くとするか」
 足音のかわりに杖でこつこつと床を叩きながら、ミスルトウはリーガンを探しに歩き出した。


 扉を叩く音を聞いて、カンはトレーニングを止めて扉を開けた。
「やあ、また試食か?」
「ああ、うん。ついでに一杯、どう?」
 一瞬目をぱちくりさせて、杏が持ってきた酒瓶を見せる。
「いいね、もらおうか」
 杏が持ってきた酒とつまみを卓上に並べ、カンはその間に退けていた椅子を並べた。
 フランスで買ったというシードルと、ハムエッグやチーズをのせたカナッペ。
 普段は大皿で料理を作る杏にしては、珍しいメニューである。
 そう言うと、まあね、と杏は肩をすくめた。
「たまにはこういうのもいいかと思ってさ」
「感想は?」
「うん。アタシやっぱこういうの苦手。肩こって仕方ない」
 あけすけな杏の言葉に、カンが朗笑をあげる。
 それでも、杏が気遣わしげにちらりとこちらに目を向けたことに、カンは気が付いていた。
「悪いな、気を遣わせて。あれから落ちこんでると思ったろ?」
「まあ、ね。それにおっかないのが切れてるんで、避難しておこうかとね。……正直言うと、どうしてるか気になったのが本音でさ。アタシもまさかリーガンがあんなことまで言うとは思わなかったし」
 言いつつ、杏がシードルを持ってきたグラスに注ぐ。
「確かに驚きはしたよ。でも正直に言って、別に落ちこんではいないんだ」
 杏が片眉をあげる。
 辛口のシードルを飲み、カンは言葉を続けた。
「何と言えばいいか……そうだな、顔も知らない、会ったこともない親戚が死んだと聞かされたような気分、と言ったら通じるか?」
「言いたいことはわかるよ」
「そうか。死に慣れすぎた、とは自分でも思うんだが、別段、何とも思わないんだ。死んだのが自分でもな」
 ぐい、とグラスを傾ける。
 自分にとって、死は日常だった。
 誰かが死んだと聞いても、何も思わなくなる程度には。
 朝に隣で食事をしていた兵士が、夕方の点呼のときにはいなくなっていることも、何度もあった。
「まあ、無理してないんならいいんだけどね」
「ああ、無理はしてないよ。そうだ、紅花ホンフアはどうしてる?」
「だいぶ落ち着いてきてはいるらしいけど、まだ面会できなくてね。アタシも会えてないんだ」
「そうか……」
「面会謝絶っていったって一時的なものだし、大丈夫だとは思うけどね。面会できるようになったら様子を見に行くつもりだよ」
「ああ、それならこれを渡してくれないか。俺はまだ顔を出さないほうがよさそうだから」
 棚から畳んだ紙を取り、杏に手渡す。
「読んでかまわないよ」
 紙を開いて、書かれた数行に目をとおし、杏がふうん、と小さく唸る。
「読むかどうかも、読んだ後どうするかも任せる、と伝えてくれ」
「わかった」
「ありがとう」
 笑ったカンは、カナッペをひとつ口に運んだ。

  *****

「やあ、リーガン・クロフォード」
 談話室から自室に戻る途中、不意に声をかけられ、リーガンは思わずひゃあ、と声をあげた。
「な、何よ、おどかさないでよ!」
「悪いね。此方こなたとどうしても話をしたくてね」
 声は聞こえるが、ミスルトウの姿は見えない。
「話って? というか出てきたらどうなの?」
 物陰から、影が滑り出る。
 フードを深くおろした、濃紺のローブをまとった人影。
 唯一見える口元の、朱い唇が動く。
「リーガン、此方こなたは本当に、考えなしに動くのだね。もし紅花ホンフアカンが命を絶つようなことがあったら、どう責任を取る気だったんだね?」
 心なしか、ミスルトウの声は平素より低い。
「何よ、あんたもその話なの? もう終わったことじゃん。それをいつまでも――」
「終わってなどいないよ」
 ミスルトウがぴしゃりと言葉を叩きつけ、リーガンの弁を封じる。
「終わってなどいないし、此方こなたは自分のしたことに責任を持たなくちゃいけない」
「だから! あたしはカンをつれてっただけ! 紅花ホンフアがずうっと意地を張ってるのが悪いんじゃない! あたしはあくまで仲良くしてほしいと思ってやったの! それのどこが悪いのよ!」
「頼まれないことに嘴をいれるのは、余計なお世話と言うのだよ。紅花ホンフアには紅花ホンフアの事情がある。でも、此方こなたはそれを知ろうとしない。いいかい。此方こなたのやっていることは単なる善意の押し付け、有難迷惑だ」
「な……そんならあんたはどうなのよ! あたしのことに口出して、あんただって同じようなことをやってんじゃないの!」
「今、やつがれが話しているのは此方こなたのことだよ、リーガン」
 わずかに首をあおって、ミスルトウがリーガンを注視する。
「もし紅花ホンフアカンが、此方こなたのでしゃばりのために自らの命を絶っていたら、此方こなたはどうする気だったんだい」
「だから! 終わったことをいつまでも蒸し返さないでよ! だいたいそんなこと――」
「起きるわけがない、かい? いいや、充分あり得たことだよ」
 す、と一歩、ミスルトウが足を踏み出した。
「人は誰でも仮面を被って生きている。素顔を晒したくない相手の前で、それを無理に剥がされることがどれほど苦痛か――わからないのか、此方こなたは」
 地を這うような、低い声。
「リーガン・クロフォード。やつがれは、とても怒っているよ」
 さらに一歩、ミスルトウが距離を詰める。
此方こなたの行動は常に自分の都合だ。此方こなたにとっての他者は助けるべき相手ではない。自分を称える賞杯トロフィー、己を飾るもの、自分自身の引き立て役でしかない。だから此方こなたは自分にとって都合の悪いことから目を逸らす。たとえ自分のしたことの結果でも、良くないことなら他人のせいにする。そうしなくては、”他人に手を差し伸べる良い人”という、此方こなたが周りにそう見せたい虚像が崩れるからだ」
「虚、像……?」
「虚像だよ。此方こなたは周囲に自分に都合のいい”助けを求める相手“像を押し付けているだけだ。例えば紅花ホンフアカン、この二人が仲良くしなければならない理由は何だね?」
「それは……二人が知り合いのはずなのに、紅花ホンフアがずっとつんけんしてるから」
「それだけ?」
「そ、そうよ。でも一緒に写真に写ってたんだし、仲が悪いわけないじゃない」
「一座の写真だろう、二人だけの写真ではなくて。何より此方こなたは何ひとつ確かめてはいないのだろう。紅花ホンフアの気持ちも、カンの気持ちも。仲が良かったというのも、仲良くしなければならないというのも、当人たちがそう思っていないのなら、それは此方こなたの妄想だ。何の手立てもこうじずに、妄想と現実を入れ替えようとして失敗して、此方こなたはいったいどう責任を取るつもりなんだい」
「うるさいなあ。はいはい、わかったわよ。余計なことをしてごめんって謝ったらいいんでしょ? 謝ったら!」
「反省の形なら猿でもできるのだよ。言われてすぐにやってみせるだけ、此方こなたより猿回しの猿のほうが利口だよ」
 リーガンが青ざめ、次いで赤くなる。
「猿ですって!? あたしが!?」
此方こなたが猿だとは言っていないよ。猿以下﹅﹅﹅だと言ったのだよ」
 リーガンがミスルトウに飛びかかる。
 ミスルトウはひらりとそれをかわした。
「よくもそんなことを言ったわね! 絶対、絶対許さないんだから!」
此方こなたの許しなど、やつがれは求めていないよ」
 静かな声をかえす。
「人間だというのなら、自分の言葉と行動は全て自分に責任があると心得たまえ。それができないのなら――此方こなたはいつまでも、猿以下だ」
 くるりとミスルトウがきびすをかえし、廊下を滑るように去っていく。
 取り残されたリーガンは、憤怒に燃える瞳でミスルトウの後ろ姿を睨みつけていた。


 数日後。
「具合はどう?」
 面会謝絶が解けて早々、紅花ホンフアの病室に杏が顔を出した。
「うん、大丈夫。もうすぐ退院できるっテ」
「そりゃよかった。退院したら好きなもん作ってやるよ」
「……じゃあ、杏仁豆腐!」
「え、材料あったっけな……」
 苦笑いしつつもうなずいて、そうだ、と杏は懐から小さく畳んだ紙を取り出した。
カンからだよ」
 紅花ホンフアの顔がこわばる。
「読むかどうかも、読んだ後にどうするかも、任せるってさ」
「……わかった」
 杏が去ってからしばらくして、紅花ホンフアはそっと手紙を開いた。
 丸っこい、ちんまりとした字が並んでいる。

――知り合いだったことは聞いた。事情があることも聞いた。
――無理に話を聞こうとは思わない。
――いつか、お前が話してもいいと思えるようになったら、そのときに話してくれ。
――それまで、待っている。

 読みかえすうちに、黒い文字がぐにゃりと歪んだ。