雨の街角
部屋の中に、煌々と灯りがともっている。
本棚から溢れた本の中に座りこんで、部屋の主、ミスルトウは活字を追っていた。
ちょうど最後まで読み終えたらしく、本を閉じて傍の山に置く。
腕を伸ばし、背を反らして、ぐ、と伸びをする。
(さて……幾日経ったかな)
胸の内で日数を数える。
(二日か、三日か……いや、もっと経っているか)
一度読書に没頭しだすとこれである。時間の経過というものを忘れてしまう。
船員になってからは、一日どころか数日にわたって本を読んでいるのも、なんら珍しいことではない。 ひと息入れようと部屋を出る。
その姿を見た船員が、思わずぎょっと後ろ姿を見直す。
紺のフードを深く被り、わずかに見える口周りの肌と袖口から見える手は透き通るように白く、同じように少し覗く毛先もまた白い。
廊下を滑るように進んでいく。硬そうな靴を履いているにも関わらず、足音は立たない。
その代わりに、ミスルトウが手にしている杖が、こつこつと床を叩いていた。
(おや……)
船内の掲示板。以前見かけたときには特に何もなかったが、今は案内人からの通知が出ている。
――場所:イギリス
――感情:「怒り」
――特徴:喰らわれている人は「赤色」のモヤが見えます。
――蟲本体の形状は「蝶」に近いものとなります。
「英吉利か」
そういえば、部屋の窓から見える景色が変わっていたように思う。
「では、久々に行くとしようか」
やはり足音を立てず、こつこつと杖の音だけを鳴らして、異装の人影は歯車の扉を潜った。
外は重い雲が垂れこめていた。
今にも泣き出しそうな空模様である。
夜が近いこともあって、周囲はかなり暗かった。
(さて、何処へ行こうか)
気まぐれに出てきただけで、別段何処へ行こうという目的はなかった。ミスルトウとはこういう人間なのである。
杖をつきながら歩いていると、ちょうど開いているレストランを見つけた。
値段を見ると、さほど高級店というわけではない。懐具合も余裕があるし、たまには何か食べるのもいいだろう。
「いらっしゃいませ」
席につき、メニューをしばらく眺めてシェパーズパイを頼む。
「やあ、どこから来たんだい?」
「僕かい? 僕は日本からだね」
隣のテーブルに座っていた金髪の青年が話しかけてきた。ミスルトウも快活に応じる。
「日本か、いいなあ日本。一度行ってみたいんだ」
「ほう」
青年は大学生で、日本のアニメや漫画が大好きなのだという。
青年があれこれと題名をあげて、目を輝かせて語っている間に、頼んだシェパーズパイが運ばれてきた。
「君は何か、好きなアニメとか漫画はある?」
「はあ……そういうものには、僕は馴染みが薄くてね。『のらくろ』くらいなら読んだことはあるが」
「『のらくろ』? なんだいそれは」
「日本の漫画さ。大分古いものだがね」
知らないなあ、と呟いた青年がちらりと時計を見、慌てた様子で立ちあがって支払いを済ませ、店を出ていった。
少し冷めかけたシェパーズパイを口に運ぶ。挽肉と潰したじゃがいもにミートソースが絡んでいる。
「ほう」
契約を結んで船員となったために、食事の必要はなくなっているミスルトウだが、味がわからなくなったわけではない。
(美味いものだな)
胸のうちでの呟きは、胸のうちだけで終わってしまった。
皿を空にして、御馳走様、と手を合わせる。
ミスルトウはその後、支払いのときに店員に、世間話に紛れさせて、最近何か変わったことはなかったかと聞いてみる。
「ああ、そういえば最近、なんだか喧嘩が多いようですから、お客さんも巻きこまれないように気を付けてくださいね。よいご旅行を」
「有難う」
店を出て、一度船に戻ろうかと歩きだしたときだった。
ぽつりと雨滴が落ちてくる。それでもミスルトウは足を早めようとしなかった。一定の速度で歩いている。
(……おや?)
言い争う声を、耳が捉えた。
「嫌ッ! 誰か、だれか――」
既に、ミスルトウの足は路面を蹴っていた。
角を曲がる。
二人の人影があった。
一人はレストランにいた青年。もう一人は金髪の娘。
赤いモヤが絡まる青年の手は、娘の首にかかっていた。
それを認めると同時、ミスルトウは手にしていた杖を少し捻った。
転瞬、滑り出た白銀の反りのない刃が、青年の腕を浅く切り裂いた。
娘が地面に倒れる。
赤いモヤを絡みつかせた青年が、ミスルトウを睨む。少し前の、温厚そうな青年の面影は影も形もなかった。
「邪魔をするなッ!」
掴みかかってきた青年をひょいと避けると同時、雨の中に白刃がひらめく。
浅傷ではあるが、足を切られた青年はがくりと膝をついた。
その陰からひらひらと、蝶によく似た蟲が姿を現した。
一歩大きく踏みこむ。
短い気合声とともに、ミスルトウは刃を一閃させた。
両断された蟲が消えていく。
倒れた娘を確かめると、どうやら気を失っているだけのようだった。青年も倒れていたが、こちらも息はある。
簡単に怪我の手当を済ませ、呆然としている青年を後に残し、ミスルトウの姿は暗い街の景色に紛れて消えた。
→ 北の国の挽歌