幸せは傍に
きょうは、しんでんでおいわいがありました。かみさまのおよめさんがくるひだったからです。
およめさんになるひとは、とてもきれいなひとでした。まっしろい、はなよめいしょうをきていました。それから、めのところにくろいぬのをまいていました。
にんげんが、かみさまをみると、めがつぶれてしまうから、しきがおわるまでは、めをかくしておくんだと、おとうさんがおしえてくれました。
かみさまのおよめさんは、なにもしなくていいのだそうです。でも、しんでんのそとにでてはいけないし、おとうさんやおかあさんにも、あえなくなるんだって、おとうさんがいってました。
それは、とてもさみしいとおもいます。ともだちは、およめさんはいいなあっていってたけど、わたしはおよめさんになるよりも、かぞくといたいとおもいます。
***
通された部屋は、どこか寒々しかった。調度と呼べるものは、せいぜいが簡素な寝台と、石で作られた卓と椅子だけ。灯りさえ、ない。
彼女は椅子に腰かけたまま、動かずにじっとしていた。部屋の中で、白と銀、それに青を基調とした花嫁衣裳だけが、おぼろに浮かび上がっていた。
硬い足音。かすかに床をこする音と共に、扉が開かれる。
花嫁と対になるかのように、黒衣をまとった影が、そこに立っていた。
緩やかに立ち上がった花嫁が、流れるような動作で頭を下げる。影が、はらりと顔を隠していた頭巾を下ろした。色の白い、端正なつくりの男の顔があらわになる。男は、冷え切った、黄金に光る眼で花嫁を見据えた。
「覆いを外し、面を上げよ」
低い、冷たい声。
その言葉に従った花嫁の顔を見て、男は訝しげに目を細め――出し抜けに腰の細剣を抜き、花嫁の喉元に突きつけた。
花嫁はじっと目の前の男に顔を向けている。わずかでも動けば、その喉を貫かれるという状態であるにもかかわらず、その顔に動揺の色はない。
「そなた、見えぬのではなかろうな」
花嫁は何も言わなかったが、その沈黙は何よりの肯定となった。
男は黙って花嫁の前へと進み、その白い手を掴むと己の額に押し当てた。広い、冷たい額には、まさしく角としか言いようのない、一対の突起が生えていた。
細い指が、角に触れる。ついと指先でそれをなぞったとき、花嫁の顔に浮かんだのは、男にとっての見慣れた顔――驚愕、あるいは恐怖――ではなかった。
安堵と歓喜。
それは男にとって馴染みの薄いもので、そして花嫁の反応としては、想定していないものだった。
花嫁として神殿に来た女達は、彼の姿を見ると一様に、驚愕するか、恐怖の表情を浮かべるのだった。彼の存在を拒み、彼と関わることを拒んで。
男が、花嫁とはそういうものだと思うようになり、それが高じて、花嫁となる女に憎悪を向けるようになるのに、時間はかからなかった。
だから今回も、花嫁は同じような態度を取るだろうと思っていた――確信していた。
「――そなたは――お前は――何だ、お前、は」
上ずった、その声に、花嫁が微笑んだ。
***
かつて、地に災いが満ちたとき、人々は縋る対象として、”神“を望んだ。日々の営みを見守り、禍を遠ざけ、福をもたらしてくれる存在を。
それに選ばれたのは、ある村に住んでいた青年だった。
生まれつき、額に一対の角を持って生まれた青年は、その角のゆえに人でないものと定められ、神として、祀り上げられた。
身内もおらず、孤独だった青年は、ただ一人、恋人となった女に、全てを残して神殿へと入った。
その長い生のかぎり、地に実りをもたらすべき存在として。
***
薄暗い小屋。ぐつぐつと何かが煮えている鍋に、腰の曲がった老婆が、鉤爪のような指で、粉にした薬草をさらさらと落とす。
「確かにあんたならば、あるいは彼も凶行にはおよぶまいよ。だがね、もうあの男が祀られてから、何百年も経っている。それに、祀られた時点で、あの男は名を奪われている。名を失うということは、人でなくなるということ。人でなくなるということは、人として築いた繋がりの全てを捨てるということ。いかにあんたがあの男を覚えていても、向こうはあんたを覚えていないだろうよ。それでもいいのかい?」
花嫁は――この一週間後に、自ら志願して神の花嫁となる女は、老婆の言葉に頷いた。
「それでも私は、あの人のそばにいたいのです。そのためにこれまで、多くの生を繰り返してきたのですもの」
迷いのない言葉に、老婆はしばし口を閉ざす。
「そうだろうね。生き物は次の生を選べない。だからあんたがここに来るまでに、どれだけの生を重ねてきたのか、あたしには想像もつかない。それに、この機を逃せば、次に同じ機会が巡ってくるのは、果たしていつになることか。でもいいんだね。神の花嫁はもう人ではなくなる。彼があんたを思い出そうが出すまいが、あんたは神殿から出られないんだよ」
「承知の上です。そうでなければ、あの人のために生を繰り返したりなどいたしません」
「そうかい。ならもうあたしから言うことはないよ。花嫁の選抜は来週だ。あんたが志願するなら、必ず選ばれるだろう。後は、あんたの運次第さ」
***
さらりと、衣擦れの音を立てて、花嫁が、まるで見えているかのように確かな足取りで、一歩、男に歩み寄る。
思いがけない動きに虚をつかれ、振り払うことさえ思いつかなかった男の首に、腕を回す。
「アマル」
花嫁が唇に上せた名前にも、男は反応を見せなかった。ようやく振り払うことに思い至ったのか、乱暴に伸ばされかけた手が、止まった。
真正面から花嫁を見る男が、鋭く息を内へ吸ってまなじりを決する。
「……サ、アー、ダ」
ざらついてしわがれた声が、落ちる。
男の手が、花嫁を引き寄せる。光が映ることのない翡翠の目が、男の、今やかつてと同じ、黒に戻った目と合わさった。
「千の死を死に、千の生を重ね、やっと、来られた、アマル」
澄んだ、鈴を振るような声が、男の耳朶を打つ。
(――嗚呼)
自分は彼女を、待っていたのだ。自分自身も意識していないほどの、心の深い場所で。
腕の中の身体を、強く抱きしめる。もう二度と、離さないように。離れないように。
「サアーダ」
細い腕が、男の背に回る。それはこの上なく優しく、そして愛おしいものだった。
→ 暗闇の歌