暗闇の歌

 アスウェルはベッドの上に起き上がった。枕元の時計は五時十分前を示していた。

 いつものように着替えようと服を脱ぎ、そこでふと手を止めたアスウェルは、小さく舌打ちを漏らした。

 あらわになった左胸に見える傷痕。くさびのような、描きかけの逆五芒星のようなその傷痕は、あきらかに人為的につけられたものだった。

 逆五芒星は悪魔の象徴であり、悪魔崇拝者がよく用いる印でもある。魔とつくものを嫌うこのレピシヴァンで、そのようなものを身体に描くなど、普通はしない。

 それゆえに、この傷痕は決して人目にさらしてはいけないと、アスウェルはくどいほど両親から言い聞かされて育ってきた。人によっては、アスウェルが悪魔崇拝者だと考えかねないからだ。

 そのため、彼はいつも胸に包帯を巻いて傷痕を隠していた。ただ昨夜は外出のあと、シャワーを浴びてすぐに床についたので、包帯を巻くことを忘れていたのだ。

 胸に包帯を巻きながら、アスウェルはふと首を傾げた。

(そういやこの傷、いつついたんだ?)

 自分でつけるはずはない。親も、隠せと言うばかりで、なぜこんな傷がついたのかは、話すことを避けていた。アスウェルにも、聞くべきではないことだと悟られるほど。

(確か、傷を注意されるようになったのは、ジュリーが引っ越していってからじゃなかったか?)

 懐かしい親友、ジュリーこと、ジュリウス・ゴードンの顔を思い出す。柔らかな、ふわふわとした金髪。晴れた日の青空のような丸い目。悪戯っぽく笑う顔。

 十歳のときに、ジュリウスが遠くの親戚に引き取られて以来、会ったことも、消息を聞いたこともない。

 ずきりと頭が痛み、顔をしかめる。

 いつからだっただろうか、ジュリウスのことを考えると、頭痛で遮られるようになったのは。

 軽く頭を振り、着替えをすませる。今日は二月ぶりの〈狩り〉の日だ。

(〈狩り〉?)

 一瞬、脳裏を何かがよぎる。それは捕らえる前に消え、思い出せないもどかしさだけが後に残った。

 首をひねりつつ、棚からパンを取ってかじる。アスウェルが暮らす〈狩人〉の宿舎にも食堂はあるが、今の時間はまだ開いていない。パンは少し固くなっていたが、食べられないほどではなかった。

 パンを腹におさめ、〈狩り〉で扱う拳銃に問題がないか確認する。

 一通り確認を終え、黒外套の内懐に拳銃をおさめたところで、召集の鐘が鳴った。

 今回の〈狩り場〉は、今では使われなくなった地下墓地。狩るのは、そこを拠点とする悪魔崇拝者の集団。教主の女は、悪魔から授かった、怪しげな魔術を使うという。

「魔に光なし。魔を闇へ返せ」

 号令のもと、黒衣の〈狩人〉たちが動き出した。

 

* * *

 

 納められた亡骸も今はなく、がらんとした地下墓地に、銃声と悲鳴がこだまする。

 ささやきすら響くこの場所で、そんなものが響きわたれば、うるさいどころの騒ぎではない。

 しかし、〈狩人〉たちは、一切構うことなく〈狩り〉を続ける。アスウェルも無論同様に、冷静に、冷徹に、そして的確に、相手の急所をめがけて引鉄を引き、弾を撃ちこむ。

 アスウェルが正式に〈狩人〉となって二年。人の命を奪う〈狩り〉にはもう慣れた。

 教団を率いていた女教主は墓地の奥へ逃げ去り、〈狩人〉たちは、玄室で彼らを返り討ちにせんとはやる教団員を撃ち倒しながら、奥へと進んでいった。

 数々の音が重なって反響するなか、不意に、それら全てを上回る哄笑が響く。

 笑っていたのは、教主の右腕とされる壮年の男。狂気じみた笑い声に、背筋が粟立つ。

 銃声。哄笑が刹那、途切れる。

 撃ったのは〈狩人〉の一人、シーユン。昨年正式に〈狩人〉となった彼は、まだどこか幼さの残る顔を嫌悪で歪ませ、男を睨みつけていた。

 シーユンの放った弾丸は、男の左肩に当たっていた。しかしその痛みも感じていないのか、男はなおも笑い続ける。

 笑いながら、男は手にしていた手斧を、シーユンに向けて振り上げた。逃げようとしたシーユンが、足をもつれさせて尻餅をつく。

 振り下ろされた手斧が、シーユンの頭を割る直前、アスウェルが撃った一発が男の頭を貫いた。

 倒れた男から流れ出た血が、石床に魔法陣を描く。

 あらかじめ床に彫られていた溝に、血が流れこんで魔法陣を描いているのだと悟ったときには、二人の足元に、陣が描きあがっていた。

「悪く思うなよ」

 ようよう立ち上がったシーユンを、アスウェルは勢いよく突き飛ばした。

 だがその一動作は、アスウェル自身が魔法陣から逃れるのを遅らせた。

 ずるり、と、魔法陣から湧き出した黒い影が、アスウェルの身体を包みこむ。

「アスウェル!?」

「来るな!」

 悲鳴混じりに叫び、駆け寄ろうとしたシーユンを、アスウェルはきつい口調で制した。

 アスウェルの全身が影に包まれる。次の瞬間、影とともに、彼の姿は消えていた。

 一部始終を見ていた〈狩人〉たちに、動揺が走る。

「慌てるな!」

 それと見てとって、〈狩り〉の主導者、ソルの一喝が響く。

「一、二班は先行、三、四、五班は残党を捜して掃討、七、八班は捜索にまわれ!」

 ソルの指示に、他の〈狩人〉が即座に従う。そこに、先の動揺はもう見られなかった。

 

* * *

 

 歌が聞こえる。複数人の歌声が石壁に反響している。

 耳を塞ぎたい。これ以上、この歌を聴いていたくない。だが身体は指一本動かせず、アスウェルは不快な歌を聴き続けるしかなかった。

 眼前に広がる血の海と、そこに浮かぶ、小さな身体。

 転がる首が、こちらを向いている。

 青い目を見開いた、その顔は――

「……あ、ああ」

 ――思い出した。思い出してしまった。封じていた記憶、ずっと目をそらし続けていた過去を。

 ひとたび甦った記憶は再び封じこめることはできず、アスウェルは否応なく記憶の渦に呑みこまれる。

 歌は続いている。その独特な旋律は、じわじわと彼の自我を削っていく。

 このままでは、遅かれ早かれ、心が折れる。そうなればどうなるか、考えたくもない。

 ぎり、と歯を噛み、必死の思いで自分を保つ。

 そうしながら、どうにか腕だけでも動かせないかと力をこめる。

 少しずつ、少しずつ、右腕が持ち上がる。

(よし、これなら……)

 歯を食いしばり、握ったままだった拳銃を左腕に当て、重い指で引鉄を引く。

 銃声と同時に、熱と激痛。

「っ、ぐ……」

 殺しきれなかった、苦痛の声が漏れる。だがそのかいあって、アスウェルはどうにか正気に返った。あの歌も、今は聞こえない。

 荒く息を吐きながら、身体を起こし、腕を止血する。

 あの魔法陣は、対象をどこかに転移させるためのものだったのだろう。自分を殺さずにいる、ということは、

(何かに利用する気、か?)

 向こうの思惑に乗る気はない。今自分がいるのは墓地のどこかだろうが、正確な場所の見当はつかない。

「誰かいないか!」

 声をはりあげる。薄々そうではないかと思ったが、答えは返ってこない。

 携帯用の小型の角灯に火を入れ、周囲を照らす。

 アスウェルがいたのは小部屋の中だった。がらんとした部屋には何もなく、床に魔法陣が描かれていることが分かっただけ。急いで魔法陣の外側に出、角灯を掲げる。

 灯に照らされて、木の扉が浮かび上がる。

 扉は比較的新しい。この部屋に、後から取りつけられたもののようだ。押してみると鍵はかかっておらず、扉はアスウェルが拍子抜けするほどあっさりと開いた。

 扉の向こうは、白い祭壇が置かれた部屋だった。白いドレス姿の若い女が、祭壇の前に立っている。事前の調査で、彼女がここに巣食う教団の教祖だということは知れている。

 女を追って〈狩人〉たちが駆けこんでくる。その中の一人、今にも女に向けて発砲しようとしていたブレア・ミラーが、祭壇の陰にいたアスウェルに気付いて眼を見張る。

 女がその視線をたどり、アスウェルを見つけた。

「ああ、お出でになったのですね。さあ、あちらに貴男が狩る相手がいますわよ」

 リン、と、鈴の音。それが耳に入ると同時に、聞こえなくなっていたはずの、あの歌声が耳元で甦る。

「さあ、狩りなさいな」

 鈴の音と歌声が重なる。目の前の光景が、記憶の中の過去へと置き換わっていく。

 女の顔が、ジュリウスの顔に変わる。唇が、にい、と笑みを形作る。

 両手で拳銃を構える。左腕の痛みが、理性を取り戻させてくれた。

「魔に光なし。魔は闇へ帰れ」

 アスウェルの祈りとともに放たれた弾丸が、女の心臓を撃ち抜いた。それと同時に、他の〈狩人〉の撃った弾が女を貫き、白いドレスの胸元を朱に染めて、女は目を見開いたまま、祭壇に寄りかかって頭を垂れた。

 歌声が絶える。よろめいて倒れかかったアスウェルを、駆け寄ったブレアが支えた。

「おい、しっかりしろ!」

 アスウェルの目が、うつろに空を彷徨う。幾度か声をかけられて、アスウェルの目が、ようやくブレアに向けられた。

「立てるか?」

 うなずいて立ち上がったものの、歩き出そうとした途端に、アスウェルは再び倒れかかった。

 慌ててブレアが肩を貸し、どうにか自分の足で歩いて玄室まで戻る。

 そんなアスウェルを見つけたシーユンが、安堵と驚きの混じった声を上げる。それを聞いて、アスウェルも弱々しく微笑した。

 

* * *

 

「なあ、先に診療所に行けって。ひどい顔になってるぞ」

「ああ、用を済ませたら行くよ」

 レピシヴァンの首都、センティアの中央区にある査問委員会の本部に戻ってきた〈狩人〉たちは、それぞれ、思い思いに休息をとっていた。そんな中、アスウェルは、〈狩人〉の頭領、レーゲンに報告することがある、と、彼の部屋に向かっていた。

 彼の顔からは血の気が引き、その歩みはしばしば乱れた。付き添っているブレアとしては、強引に診療所まで引っ張っていきたいくらいだった。

 それを無理に押し切って、レーゲンの部屋まで来たものの、ノックをしても応えはない。

「いないのか」

「みたいだな。ほら、診療所行くぞ」

 ブレアに促され、歩き出したアスウェルの身体が大きく傾ぐ。

「おい、大丈夫か!?」

「大丈夫、ちょっと、よろけた、だけ――」

 自分の声が、やけに遠い。目の前が暗くなっていく。

「アスウェル!? おい、誰か――」

 自分の名を呼ぶ声を聞きながら、アスウェルはその場に倒れこんだ。

 

 白い天井。目を開けてまず飛びこんできたそれを、アスウェルはしばらく、ぼんやりと眺めていた。

「お、起きたか」

 覗きこんだブレアが、安堵した様子で笑う。

「ここは……診療所、か」

「おう。怪我のせいで貧血起こしたんだろうってさ。今日は安静にしていること、だそうだ」

「分かった。悪いな」

「気にすんな」

 それじゃ、とブレアが席を立つ。入れ替わりに診療所の所長、ヴィンセントが顔を見せた。彼からは怪我の状態と治療についての説明、そして二、三の問診を受ける。

「今のところ、問題はなさそうだね。もし何か変調があれば、すぐに言うように」

「分かりました」

 一人になって、甦った記憶を思い返す。

 今なら分かる。左胸の傷の理由も、ジュリウスがいなくなった理由も。

 あの日、洞窟で遊んでいたアスウェルとジュリウスは、悪魔崇拝者にさらわれた。アスウェルは召喚する悪魔の器として、ジュリウスは、悪魔に捧げる供物として。

 左胸の傷は、そのときにつけられた。彼に悪魔を喚ぶために。

 ちょうどそのとき、〈狩り〉が行われていなければ、その目的は達せられていただろう。

 その日の夕方、レーゲンが診療所を訪れた。レーゲンを見て、アスウェルが険しい顔でベッドの上に起き上がる。

「なにか、報告があったようだね」

「ええ。……北であったことを、思い出したんです」

 淡々と落としたその言葉に、レーゲンが目を見開く。

 驚きは一瞬。瞳に冷たい光を宿して、レーゲンがアスウェルを見下ろす。

「契約したのか?」

 予想していた質問だった。

 あのことの詳細を自分が思い出せば、必ずそれを問われると分かっていた。自分が生きていられるのは、あのときに悪魔と契約したかどうか定かではなかったからだ。

「いいえ。誓って、何とも、誰とも契約していません」

 沈黙。高まった緊張が、ふと緩む。

「その誓いを信じよう。ただ、委員会への報告はしなければならない。傷が治ったら聴取はされるだろうから、それだけは覚えておいてくれ」

「承知しました。それと、あのときはありがとうございました」

 レーゲンが微笑む。その青い目は、もう冷えてはいない。

「〈狩人〉として、なすべきことをしたまでさ。それじゃ、お大事に」

 出ていくレーゲンの背に、アスウェルは深く頭を下げた。

 

 それから一月半。傷も癒え、査問委員会からの聴取も終わり、アスウェルにとっては久しぶりの、何も予定のない休日。

 レーゲンの口添え、ヴィンセントからの報告、何よりもアスウェル自身に、精神を侵された兆候がなかったことで、彼は処分を下されることはなく、〈狩人〉でいることを認められた。

「よ、どこか行くのか?」

「西区でやってる植木市。明日までだから今日のうちに行こうと思ってさ」

 宿舎の玄関で行きあったブレアと、そう言葉をかわす。

「ああ、よく広場でやってるやつか。そうだ、夜にさ、シーユンと飯食いに行こうかって話してたんだけど、お前もどうだ?」

「良いね、夕方には戻るよ」

 ひらりと手を振って別れる。長身の後姿は、徐々に雑踏にまぎれていった。