死人語りと緑の指輪

 晩春と思えないほどの気温の中、一人の男が道を歩いていた。男は片手に杖を持ち、背に古い背嚢を負っている。所々が擦り切れ、継ぎが当てられたシャツは、その継ぎすらも擦り切れていて、最早継ぎとしての用を為していない。くすんだ灰色のズボンは片方の裾に大きな鉤裂きがある。羽織っているフードの付いたマントも、裾はぼろぼろで、腰から下の部分は二つに分かれていた。見ようによってはみすぼらしい乞食とも見えるが、男の服装には一種の清潔さがあった。
 黒い髪と瞳の、これと言って特徴のない男。年の頃はどれくらいだろうか。若者と言うには年を取りすぎ、年配と言うにはまだ早い。しかしその顔には疲労の色が濃く現れている。
 風が吹く度に舞い上がる土埃が、男の姿を霞ませる。男はマントに顔を埋めるようにしながら、杖にすがって歩いて行く。疲れ切った男の歩みは鈍い。どこか人家のあるところにつく前に、夜になるのは間違いない。
 やがて男は道の端に腰を下ろし、素焼きの小さな水筒を傾けた。半分ほど入っていた水は、その量を四分の一に減じる。
 更に背嚢を探り、握り拳ほどのパンの包みを取り出した男は、パンを半分に割り、少しずつかじり始めた。
 見えるものは特にない。人影も、建物も。
 パンと水筒をしまった男は、再び杖を頼りに歩き出した。数歩歩いては休み、また歩いては一息入れる。
 恨めしげに太陽を睨む男。気は焦っているのだが、足がそれについて行けないのだ。
 車輪を軋ませながら、小型の荷馬車が後ろから走ってくる。振り返ってそれに気付いた男は、急いで端に寄ろうとした。
 しかし疲れで足が動かなかったのか、男はその場に倒れ伏す。彼のすぐ傍で荷馬車が止まり、運転していた年輩の男が慌てた様子で降りてきた。
「どうなすった。具合でも悪いのかね」
 やや訛りの混ざる口調での問いに、やっとのことで身体を起こした男は、いいえ、とだけ答えた。
「どこまで行かれる?」
「どこか……屋根のあるところまで」
「わしはベルグヌーまで戻るところだが、良けりゃ後ろに乗っていかんかね。見ての通りおんぼろで、乗り心地も良くなかろうが、お前さんの足じゃあ日が暮れっちまうよ」
 男の言葉に旅人は頷き、荷台に上る。杖を置き、背嚢を抱えた彼は、荷馬車が走り出してすぐ眠り込んでいた。
 がたりと一度揺れてから荷馬車が止まる。
「着いたよ」
 その声に目を覚ました旅人は、運転手の男に丁寧に礼を言い、教えられた宿屋に向かって歩いて行く。
 居酒屋も兼ねている宿屋は、一日の疲れを癒しに来た村人で賑わっていた。喧噪や酔っ払いの歌声が宿屋の外まで響く。
 扉が開かれた。錆び付いた肘金が、軋んだ音を立てる。杖を付きながら入って来たのは、例の旅の男。宿の主はじろりと男を見た。
「いらっしゃい。何の用だね?」
「食事と、それから一晩泊めていただけますか。金は払います」
「いいさ。食事はすぐにできる。まあ座って休みなさるがいい」
 言われた通り、近くの椅子に腰掛ける男。やがて男の前に、パンとスープ、キャベツに少しばかり豚肉を混ぜて炒めたものが置かれる。
 がつがつと平らげる男。その様子はまるで長い間何も食べていなかったかのようだ。幾人かが呆れたように男を見た。
「お前さん、死人しびと語りだろう、ええ?」
 近くの酔っ払いが男に絡む。男はうっすらと口元に苦笑を浮かべて頷いた。
 死人しびと語り。
 強い未練を残して世を去った者は、その未練故にこの世に縛られる。死人しびと語りは死人しびとにあの世へ連れて行かれぬよう、あえてぼろぼろの衣服を身に纏い、生者と死者の仲立ちとなる。
 食堂に先刻までとは違うざわめきが広がる。あからさまに不快げな表情を作る者もいるが、多くは珍しそうな視線を男に送る。
「お前さん、どこまで行くのだね」
「この先の村まで」
「この先の村っちゅうと、コルバか? んでもあそこにゃ、もうだあれもいやしねえよう」
「何故です?」
「あー? 運が悪かったんさあね。一昨年イナゴにさんざやられた上に病気が流行って、去年は去年で大水にあったんだもの」
「そんでみーんな村捨てて、逃げっちまったんさ」
 別の男が話を引き取る。
「コルバに、サラ……サラ・ミネットという方が住んでいたと思うのですが、その方は今どこにおられるか、分かりますか?」
「サラなら死んだよ」
 甲高い声に、男は弾かれたようにその方を向いた。落ち着くために数回深く呼吸し、手元の水を煽る。
「いつ、それに、何故、亡くなったのですか?」
 声を上げた女は、何か数えるように指を折り、口の中で何かもごもご言ってからそれに応えた。
「何だい。あんた、知らずにサラを探しに来たのかい。一昨年さ。ちょうど病気が流行り出した頃だったよ。可哀相に、許婚もいたってのにねえ」
 それを聞いて、男は女に向かって頭を下げた。そして荷物を取り、木の階段をゆっくりと上って行く。部屋に入ると、男は杖と背嚢を投げ出し、ぼろぼろの服のままベッドに横たわって、静かな寝息を立て始めた。
 翌朝、まだ日が昇りかけの頃に、男が一階へと降りて来る。
「おや、もうお発ちかね?」
「はい。コルバまで歩いて行くには、どれくらいかかるでしょうか」
「コルバに、歩いて? そうさな。今日一日ありゃ、着けるだろ。ただ随分距離はあるぜ」
 それを聞いた男は代金を払い、礼を述べて出て行った。
 前日よりも確かな足取りで、男は西へ西へと進む。休まず歩き続け、昼過ぎには、男はこの地域を二分する、大きな川までやって来た。川のほとりに腰を下ろし、パンを食む。ゆっくりと休んだ後で立ち上がり、男は再び西の村を目指す。
 夜の闇が辺りに漂い出す頃、男はコルバの村に辿り着いた。
 はびこる雑草を掻き分けながら、男は一軒一軒の家を見て回る。しかしどの家も荒れ果て、人影は見当たらない。
 日は暮れ、灯りの一切無い村は闇に閉ざされる。男は少しばかり困ったような顔で、村の中に立ち尽くしていた。
「……珍しいですね。死んだ村に生者が来るとは」
 突然後ろからかけられた声に、男は驚く様子もなく振り返る。そこに立っていたのは淡い金髪の女。背丈は男よりも頭一つ分低い。
 着ているものは足首まで隠れるほど長いワンピース。その上から薄手のカーディガンを羽織っている。
 風が草を揺らし、男のマントをはためかせる。しかし女の長い髪は風に吹かれることはなく、服の裾も揺らがない。
「まあ、物好きもいるということで。ところでどこか、休めるところはありませんかね?」
「ならば私の家へどうぞ。あばら家ですが、一晩くらいはどうにか凌げましょう」
 音もなく進む女の後について行く男。案内されたのは、最も草の多い一角に建つ一軒の家。
 中に入ると女は蝋燭を灯し、柘榴を皿に盛って男に差し出した。
「どうぞ」
 テーブルについた男はしかし、苦笑を浮かべただけで手を伸ばそうとはしない。
「遠慮しておきましょう。自前の食べ物がありますので」
「随分と失礼な方ですね」
「いやあ……流石に冥府の物を食べる度胸はありませんから」
 その言葉に、女の顔が凍り付く。全身を震わせ、女は射殺すような視線で男を睨む。
 男は真正面からその視線を受け止める。先刻の苦笑はどこへやら、今は完全な無表情だ。
 しばらくして、女が目を伏せる。かすかな嘆息が、その唇から発せられた。
「いつから気付いていたのですか?」
「初めから。あなたのような存在は、見飽きるほど見ているので」
「そう……ですか。するとあなたは死人しびと語りなのですね」
「ええ、そうです。聞いても良いですか。なぜあなたがここに留まっているのか」
「私は人を待っているのです。私を残して出て行って、まだ帰らないあの人を」
 それを聞いて、男は穏やかな笑みを浮かべた。
「あなたは、サラ・ミネットさん、ですね?」
 女が驚きを顔に浮かべて男を見、こくりと頷いた。死人しびと語りの男は背嚢から何かを取り出し、女の掌に落とす。
 落とされたそれを見て、女がはっと息を呑む。
 それは小さな緑の石がはまった銀の指輪。決して華美なものではないが、美しいものだ。
「サラさん。その指輪は、あなたの恋人の、ミオリスさんから預かったものです。彼は半年前に病気で亡くなりました。彼は最期まで、あなたのことを気にかけていました。サラさん、ミオリスさんは、門の向こうであなたを待っています。だからあなたはもう、ここにいる必要はないのですよ」
 指輪を握りしめたサラの身体が、淡く光を放つ。そのままサラの足は床を離れ、静かに天へ昇って行く。あの世への門と、その向こうで待つ恋人の元へ。
 死人しびと語りの男の目に、互いに抱き合う恋人たちの姿が映る。門の奥へと消えて行く恋人たちを見送ると、男は蝋燭の火を吹き消し、テーブルに突っ伏して目を閉じた。
 その翌朝、村から男の姿は消えていた。死人しびと語りの男がどこへ行ったのか、誰も知る者はいない。