雨の夜の夢

 宵闇が降りはじめ、辺りが見えにくくなってきた森の中で、アスウェルとジュリウスは二人そろって途方に暮れていた。周りの木は暗さのせいで、得体の知れない化け物のように見える。月は出ているが、月明かりは先を見通すのに充分ではない。

「ねえ、なんでもう夜なのさ。さっきまで明るかったよね」

 ジュリウスの泣き言に、先を歩いていたアスウェルが足を止めて振り返り、困り顔で口を尖らせる。

「俺だって分かんないよ。とにかく今は森を出なきゃあ……。あ、ジュリー、そこ、根っこがあるから、気を付け――」

 言い終わる前に、ジュリウスがその根につまづいて転んだ。手と膝をすりむいた痛みと、暗闇の恐ろしさと、夜の森の心細さとで、それまでにもう半泣きだったジュリウスが、とうとう、わっと声を上げて泣き出した。

「大丈夫だって。そんなに血も出てないし。そんなに泣くなよ、ジュリー」

 なだめるアスウェルの声が聞こえていないのか、ジュリウスの絞り出すような、甲高い泣き声が響く。いつものようにそれをなだめるアスウェルも、本当はちょっぴり泣きたい気分だった。

 二人はこの日、朝から、家からほど近い岩棚で遊んでいた。そのうちに、ぽつぽつと雨が降ってきたので、二人は岩棚で、雨が止むのを待つことにした。

 すぐに止むかと思われた雨は中々止まず、雨止みを待つうちに、二人はついうとうとしはじめた。

 気付けば雨は上がっていて、雲の隙間から陽が差し込んできていた。

 別のところで遊ぼうかと話し、岩棚からそう遠くない洞窟に行くことにして、二人がその場を離れたとき、辺りはまだ明るかった。時間としても十五の刻前後だっただろう。

 それから洞窟に行くために、慣れた道を辿っていたのだが、いつまで経っても入り口は見えてこず、見慣れない木が増えてくる。その上、どんどん辺りも暗くなってきていた。

 どうしよう、と、後ろでジュリウスが不安げな声を出す。帰りが遅くなったために、叱られることを恐れているのだろう。

 ジュリウスの両親、特に父親は、一人っ子だからかジュリウスには甘いが、その分アスウェルに厳しい。遅くまでジュリウスを連れ回していたと、さぞかし怒られるだろうと、アスウェルも内心憂鬱だった。

「アス、道、あってる?」

 ジュリウスの声はまた涙混じりで、泣くなってば、と、アスウェルは少し尖った声を出した。

「泣いてない!」

「泣いてんじゃんか、泣き虫」

「泣いてないってば!」

 呆れた声のアスウェルに、ジュリウスが言い返す。どちらも疲れて苛立っていたために、言い争いはすぐに高じる。

 取っ組み合いの喧嘩になる直前で、あ、と声を上げたジュリウスが、木立の奥を指差した。その指の先を目で追うと、ぼうっと灯が浮いていた。

 二人の視線の先で、つっと灯が横に動く。

「お、お化け……?」

「お化けなんかいるもんか」

 わざと強がって、アスウェルは灯の見える方向に足を急がせる。怖くないわけではなかったが、平気なふりをしていないと、ジュリウスが余計に泣くことは分かっていた。

 すたすたと先を行くアスウェルに、待ってよ、と後ろからジュリウスが声をかける。

「早くしろよ」

「だって、足が痛いんだよ」

 仕方ない、と言いたげな表情を作って、アスウェルがその場で立ち止まる。

 近付いてみると、灯が動いていたのは、森の中に建つ、大きな屋敷の敷地の中だった。二人が見たこともない――そもそも屋敷の存在など知らなかったが――屋敷だったが、月明かりで見ても、人が住めるものではないと分かるほど、その建物は荒れていた。

 灯はどうやら角灯だったようで、それを手にした背の高い人影が、角灯を門扉に引っ掛ける。

「や、やっぱりお化けだよ」

「バカ。お化けはあかりなんかいらないだろ」

「でも、あんなとこに人が住めるわけないじゃないか。お化けに決まってるよ」

 茂みに隠れるようにして言い合う二人の声が届いたのか、人影が門から角灯を外し、二人の方に突きつけた。

「誰かいるのか?」

 人影は髪こそ長かったが、低い声からしてどうやら男らしい。ひ、とジュリウスが声を噛み殺す。光の加減で、男の顔は暗闇に浮き上がって見え、子供の目には、それがひどく不気味だった。

「何も取って食おうって言うんじゃないんだから、誰かいるなら早いとこ出てきな」

 男が再び声をかける。厳しい声ではなく、どこか笑いを含んだ声だった。

「なんか、アスのおじさんの声に似てる」

 そう囁くジュリウスにこくりとうなずいて、行ってみようか、とアスウェルがささやく。ええ、と怖じるジュリウスを引っ張るように茂みから出ると、アスウェルの姿を認めた男が目を丸くし、ついでその目がジュリウスをとらえ、男はいよいよ驚いたと言わんばかりの顔になる。後になって思い返せば、男はどこか怯えているようにも見えた。

「どうした、肝試しか?」

 ふるふると、首を横に振る。

「あの、洞窟に行きたくて、迷ってないはず、というか、いつもと同じところを歩いてたはずなんだけど、気が付いたら、ここに来ちゃって……」

 言いかけて口を閉ざしたのは、信じてもらえないのではないかという思いが、ふと胸に浮かんできたからだ。アスウェルは嘘をつくような子供ではなかったのだが、時として、言うことを信じてもらえないことがあった。

 しかし予想に反して、男はアスウェルの言葉を信じたらしかった。

「そりゃ大変だったな。怖かったろ。朝になったら町まで送ってやるから、二人とも、今夜は家に泊まんな」

「ぼ、僕はお化けの家になんかいかないからね!」

 ジュリウスが振り絞った声を聞いて、男はつかの間きょとんとして、それから不意に、腹を抱えて笑い出した。哄笑に眠りを破られた鳥が、何の騒ぎかと驚いて飛び騒ぐ。

 ひとしきり、笑いに笑って、男はようやく息を整えて口を開いた。垂れ目がちの目尻には、薄く涙がにじんでいる。

「そうだ、お前はそういうやつだったな、ジュリー。でも俺がお化けだったなら、灯を使いはしないだろうよ」

 今度目を丸くするのは、二人の方だった。

「僕のこと、知ってるの?」

「……ああ、よく知ってる。そっちの坊主のこともな」

「じゃあ、俺の名前を言ってみてよ」

「アスウェル・コズロー。そっちはジュリウス・ゴードン、だろう?」

 今初めて会った男に、見事に名を言い当てられ、目の前の男に薄気味悪さを覚える。

「なんで知ってんだよ」

「なに、コズローの親父さんとも、ゴードンの親父さんとも、前から知り合いだからな」

「うっそだあ。だっておじさん見たのはじめてだもん」

 ジュリウスにおじさん呼ばわりされたからか、男が微苦笑を浮かべる。

「そりゃそうだ。知り合いは知り合いだが、もうずっと会ってない。それより坊主ども、早く家に入るぞ。じきに雨になる」

 男の、有無を言わせぬ口調に、二人は顔を見合わせ、杖をつきながら歩き出した男の後について行く。

 てっきり屋敷の中に連れて行かれるかと思っていた二人だったが、その予想に反して、男が二人を連れてきたのは、屋敷の近くの小屋だった。

 小屋に入るのとほぼ同時に、雨粒が屋根を叩いてきた。明るい小屋の中で、ようやく二人は男の顔をしっかりと見ることができた。

 日に焼けた肌、緑がかった黒い目、背の中ほどまで届く黒い髪、金属でできた作り物の左腕と両脚の男は、どこかアスウェルに似ていた。

「おじさん、なんて名前?」

「ロストだ。っと、ジュリウス、怪我してるのか? ちょっと待ってな」

 棚の上から救急箱を下ろした男はジュリウスの手足の傷を洗って薬をつけ、薬がしみてべそをかいているジュリウスには構わず包帯を巻くと、その肩を軽く小突いた。

「そら、すんだぞ。痛くなかったろ?」

「痛かったよお」

「そうか。ま、我慢しな。ばい菌でも入ったら、もっとひどいことになるからな。アスウェルはどうだ、怪我してないか」

「うん、大丈夫」

「ならいい。もう遅いから、二人とも、向こうの部屋で寝てきな」

 疲れていたのだろう、ジュリウスはベッドに入ると、すぐに寝入ってしまった。しかしアスウェルの方は、慣れない場所だからか一向に寝つかれず、ついでに寝相の悪いジュリウスに蹴りつけられ、その痛みもあって、すっかり目が覚めてしまった。

 雨音に混じって、話し声。隣の部屋からだ。

 そっと扉を開けて、隙間から様子をうかがう。ロストが入り口のところで、誰かと話しているようだった。

「承知しました。明日の朝、そちらに伺います」

「すみません。お忙しいところを」

「いいえ。ああ、それと――」

 話し声が低まり、アスウェルの耳に届かなくなる。

 扉の閉まる音。ややあって、振り返ったロストがアスウェルを認める。怒られるかと思ったアスウェルだったが、ロストは怒るでもなく彼を手招いた。

「寝ないのか?」

「ううん。眠れなくて」

「そうか。そうだな。慣れない場所じゃ、な。なあ、アスウェル。お前だって泣いてもいいんだぞ?」

 内心を見透かすようなロストの言葉に、ぶすっとしていたアスウェルの表情が揺らぐ。震えだした唇をきつく噛んで、きっと自分を見返す少年に、ロストは淡い苦笑を口の端にのぼらせた。

 ぽん、と、ロストが右手をアスウェルの頭に置く。そのままくしゃりと頭を撫でられて、ぽたりとアスウェルの目から涙が落ちる。慌てて袖で拭っても、後から、後から、とめどなく。

 すすり泣くアスウェルを、ロストはそっと抱いてやった。とんとんと、小さな背を軽く叩きながら。

 どれほど怖くても、不安でも、心細くても、アスウェルの傍にはたいてい誰かがいた。それはジュリウスだったり、親だったり、兄弟の誰かだったりした。それでも泣けないことはないはずだったが、何だか泣いてはいけないような気がして、いつしか彼は泣かなくなった。

「怖かったな。よく我慢した。大丈夫、お前もジュリーも、ちゃんと家に帰れる」

 帰りたい、と泣きじゃくる少年を、ロストの低い、穏やかな声がなだめる。

 やがて、頬に涙の跡を残して、アスウェルが寝息を立てはじめた。その身体を毛布に包み、ベッドに寝かせる。そのついでにベッドから落ちかけていたジュリウスをベッドに戻し、ロストは痛みを堪えるような顔で、ジュリウスの寝顔に見入っていた。

「ジュリー、お前は――」

 言いかけて、口を閉じる。むにゃむにゃと、寝言を呟く少年をしばし見つめ、ロストは足音を忍ばせて部屋を後にした。

 翌日、三人が簡単に朝食をすませた頃に、小屋に来客があった。

 すっぽりとフードを被って顔を隠した、男とも女ともつかない人間。

「話にあったのは、そこの二人ですね?」

「そうです。事情は昨夜ご説明した通りです。……二人とも、この人が家まで送ってくれるそうだ」

「本当に?」

「ああ。大丈夫、必ず帰れる」

 疑い深くロストと客とを見比べるアスウェルに、ロストがきっぱりと断言する。

「あなたもいらっしゃいますか?」

「……いや、やめておきます。仕事もあることですし」

 小屋を出る直前、ロストは二人を――特にジュリウスを――じっと見て、何か言いかけた。その一瞬、フードの人物が、ロストに顔を向ける。その視線に気付き、ロストが口元だけで笑みを作る。

 結局、ロストの口から出たのは、

「元気でな」

 の一言だけだった。

 

 

 ふと気が付けば、二人は岩棚で横になっていた。辺りの草は雨滴で湿り、雨上がりの空気は、まだしっとりと水気を含んでいる。周囲もよく見知った景色だ。

「帰ったら、絶対怒られるよ……」

「でも、帰らないわけにはいかないだろ」

 家には何も言わずに、一晩他所に泊まった、などと、帰った途端に親から雷が落ちることは確実だ。

 それを思って暗い気分になった二人の元へ、アスウェルの兄、テレンスがバスケット片手にやって来た。

「ああ、やっぱりここだった。母さんがさ、蒸しパン作ったから持って行けって」

「母さん、怒ってた?」

 おっかなびっくり、訊ねるアスウェルに、テレンスが首を傾げる。

「なんでだよ?」

「いや、だって、俺もジュリーも、昨日の夜、帰んなかっただろ」

「なに言ってるんだよ、寝ぼけたのか? 昨日の夜なら、お前もジュリーも家にいたじゃないか。ジュリーのおじさん達が町に出かけて、帰りが遅くなるからってさ」

 それは確かにそうなのだが、その出来事は昨日ではなく一昨日のことではなかったのかとアスウェルが重ねて訊ねると、テレンスは昨日だと言い切る。

 どういうわけかと目顔で訊ねるジュリウスに、アスウェルもさっぱりだと目で答える。普段と様子の違う二人に、テレンスも横で首をひねっていた。

 

 草を踏む足音に、草取りのために屈んでいたロストは顔を上げた。すぐ傍にキロンが立っているのに気付き、立ち上がって頭を下げる。

「お手数をおかけしました」

「いいえ、お気になさらずともよろしいのですよ。あの二人はちゃんと送り届けましたからご心配なく。ただ、少々お伺いしてもよろしいでしょうか?」

「何でしょうか」

「彼らに、何も言ってはおられませんよね?」

 目元を険しくしたロストが無言でうなずく。一瞬、その顔が大きく歪んだのは、声を荒げそうになるのをこらえたためだろう。

「お気持ちは分かるのです。あなたがこの先のことを二人に伝えていたなら、確かにあなたのご友人は、一度は死の運命を逃れるでしょう。ですが、定まった死の運命を変えようと思うのなら、大きな代償が必要なのです。その人の代わりに、別の誰かがその運命を引き受けるか、あるいは死から逃れた先の一生の幸福を、全て引き換えにするか。それほどのことをしなければ、一度決められた死の運命を変えることはできないのです」

「結局、死からあいつを逃がす術はない、と。理解はしていますよ。あと半年、経たないうちにジュリーは死ぬ。それは変えられないし、変えることは許されない。……死者は死者のままに、か。確かに、それは正しいんでしょう。自分の代わりに誰かが死ぬなんざ、あいつは絶対に喜ばないだろうし、俺のエゴで、生きているだけ、命があるだけで、それ以外に何の幸せもないような人生を送らせたいとも思わない」

 ロストの声は、沈んではいたが落ち着いていた。緑がかった黒い目が、何かを想って遠くを見やる。

「すみません。邪魔をしてしまいましたね」

 いえ、とゆるりと首を振るロスト。軽く頭を下げ、キロンが立ち去る足音を聞きながら、ロストはまた草取りを再開した。

 結局、あの一夜はなかったことになったのか、二人は誰からも怒られなかった。

 人に話してみたこともあったが、夢の話だろうと言われるばかりだった。実際、夢としか思えないような経験だったせいで、自分でも、いつしか夢だと思いこんで忘れていた。

(夢じゃなかったんだな)

 手を動かしながら、幼い自分を思い出して、独り苦笑する。

 必死で強がって、怖くても、心細くても、何でもないように振る舞っていた。旗から見ても、気を張っているのが分かるほど。

 強制されたわけではなく、そうしなければならないと思っていただけだった。彼にそれを求めていたのは、他ならぬ彼自身だけだったというのに。

 それに気付いたのが昨夜、少年時代の自分を見たときなのだから世話がない。

(ジュリー)

 友人の姿を思い出す。記憶と同じ面影だった。泣き虫なのも、怖がりなのも。

 それでも、自分にとって、ジュリウス・ゴードンはもう故人だ。キロンにも言ったとおり、死者は死者のまま、眠らせておくのが最もいいのだ。

 ロストの手は、また止まっていた。うつむいたその顔には、泣くような、自嘲するような表情があらわれていた。

 

 やがて、一滴、地へと染みた雫がどこから降り落ちたのか、それを見ていたのは花ばかりだった。