雨天の客人 まろうど

 しらじらと夜が明けかかる。夜中から降りだした雨は、まだ降り止む気配を見せない。

 薄暗い小屋の中で、屋根にあたる雨音を聞きながら、ロストはのろのろとベッドの上に起き直った。くしゃくしゃに乱れた黒い髪が顔にかかる。

 それをはらいのけようともせずに、ロストは顔をしかめ、息をつめて全身の疼痛をこらえていた。

 義肢をつけている左肩と両膝が特に痛む。

 吐きだした息とともに、苦痛の声がこぼれる。ロストの眉間に深いしわが寄る。

 雨の日に古傷が痛むのは常のことだったが、今日はやけに痛みが強い。

 普段は薬を飲まないロストだったが、今日の疼痛は耐え難く、痛み止めがあったはずだと薬箱を取る。

 丸薬を水で流しこみ、しばらく横になっていると、やがて痛みは和らいできた。降りしきっていた雨も、どうやら止んだようだ。

 まだ朝食をとっていなかったこともあり、空腹を覚えたロストは何か食べようと起き上がった。

 食品棚にあったパンを食べながら、外の様子はどうだろうかと、何気なく窓に目をやって、ロストはいぶかしげに眉を寄せた。

 窓の外に、何かが横たわっているのを目に留めたからだ。

 ロストが暮らしている小屋は、このあたりで薔薇屋敷と呼びならわされている屋敷――今では廃墟となって久しいが――の庭の一角に建っている。かつては雇われていた庭師か誰かが住んでいたと思しい小屋である。

 ロストが事故でカナーリスに召喚された後、カナーリスの町長、オリカ・グローゼンはどこか町中にでも、住む場所を用意すると申し出てくれていたが、静かな場所がいいと、彼はこの小屋を修繕して住んでいた。

 薔薇屋敷が建つのは、カナーリスの傍の森の中である。そのためここに暮らして二月にしかならないロストではあるが、幾度か森に棲む動物を見かけることがあった。

(狐かなにかか?)

 首を傾げながらも、せめて生きているのかどうかだけでも確かめようと外に出る。

 倒れていたのは犬だった。ロストが近寄ると、犬はわずかに頭を動かして、彼を見ようとした。

 ロストは長々と迷ってはいなかった。身を屈めて犬を抱えあげ、小屋へ運びこむ。

 暖炉に火を入れ、犬をその前に寝かせ、タオルで犬のびしょ濡れの毛皮をこすってやる。

 犬は目を閉じて、身じろぎもせずにぐったりと横たわっている。

 雨に濡れた身体は冷えきっていて、哀れなくらい痩せこけている。毛皮は泥で汚れ、いがが絡み、足は小石やとげのためか、血を流していた。

 できるかぎりの手当をしてやって、泥で汚れたタオルを洗濯かごに放りこみ、ロストは平鍋にミルクを入れて焜炉で温め始めた。

 動けないほど弱った犬の頭を膝に乗せ、どうにかミルクを飲ませようと格闘する。そのかいあって、ミルクが何匙か、犬の喉を通る。

 犬の身体を毛布に包み、ロストは疼痛も半ば忘れた様子で、注意深く犬を見守っていた。

 

 

 それから一週間が過ぎた。外の井戸で水を汲み、小屋に戻ったロストは暖炉の前に目をやって、ふっと頬を緩めた。

 寝ていた犬が耳を立て、小さく尻尾を振っていた。

「足音、覚えたのか」

 傍にかがみこみ、頭をなでる。

 犬の、泥で汚れていた毛並みは元の金色を取り戻し、足の怪我もほとんど治っている。

「お前、どこから来たんだ?」

 答えがないのを承知で、声をかける。

 昨日、町へ買い物に行ったとき、ロストは何人かに、この犬について知らないかと訊ねてみたが、誰にも心当たりはないらしかった。どこかで犬が逃げたという話はないかとも聞いてみたが、そんなこともないらしい。

「ここらの犬じゃないよな? 飼い主はどうしたんだ?」

 当然ながら答えはなく、ロストもそれを求めてはいない。

「お前、ここに住むか? どうする?」

 ロストを見上げ、犬が嬉しげに一声吠える。ロストに同意するように。

 カナーリスに来て以来初めて、ロストが大きく相好を崩した。

「そうか、住むか。じゃあ、お前の名前はどうしような?」

 じっとこちらを見上げる犬の金の毛に、暖炉の火が赤く反射する。

「……ジュリー」

 ほとんど無意識に、その名は口をついて出てきた。一瞬、ロストの脳裏に、金髪の少年がよぎる。

 だが彼がその面影をとらえるよりも、それが消えるほうが早かった。

(今のは……?)

 かつて知っていた“誰か”なのだろうか。

 今のロストには、カナーリスに来る以前の記憶がほとんどなかった。かろうじて、自分が誰か、は思い出していたが、それ以外の記憶は家族のことさえ――そもそも家族がいたかどうかすら――定かではなかった。

 撫でる手も止めて不意に黙りこみ、暗い目の色になったロストを、不思議そうに犬が小突く。

「ん、ジュリー、がいいのか? そうか」

 嬉しそうに甘えかかるジュリーに、ロストは目を細めて笑いかけたのだった。