遠来の客

 腹に爪先がめり込む。
 かふ、と息を漏らし、アツヤは身体を折った。
 髪を掴まれ、顔を無理に上げさせられる。彼の口から胸元にかけて、血と反吐と埃で汚れている。
「頑固ですね、ほんと。タオの居場所さえ言えばいいんですってば。俺だって馴染みのあんたにこんなことしたくないんだから」
「だから、知らないと――」
「タオの足抜けも、ほんとはあんたが手引したんじゃないんですか? 昔から知り合いなんですよね?」
「だれ、が――」
 アツヤが言い終える前に、髪を掴んだハオランが、腹に膝蹴りを食らわせた。吐くものがなくなった胃から。胃液だけが上がってくる。
 コンコルディアに来て以来のぶらぶら病が、最近だいぶ落ち着いてきたので、アツヤは少しずつ、外に出るようになっていた。
 今日の彼はナーヴェールの父、ウェルナーから買い物を頼まれ、三区の商店を回っていた。その途中、人の中に知った顔を見つけたのである。
 かつて連理楼で、アツヤと同じく若衆として働いていたハオランと、以前は客として良く見世を訪れていたオウリ。
 とっさに見ないふりをしたアツヤだったが、向こうはそうはいかなかった。
 いきなり声をかけられ、アツヤは有無を言わさず裏路地から、ハオランが目星をつけていたらしい廃墟の中へと連れ込まれた。
 それからはタオの居場所を言えと、アツヤは延々脅され殴られた。手を上げるのはハオランで、オウリは睨みつけているだけだったが。
 アツヤは何を聞かれても、知らぬ存ぜぬで通していた。タオ――ユリンの居所を知らないわけではなかったが、一応彼女を死んだことにした以上、言うわけにはいかない。
 苛立ったハオランに腹を殴りつけられ、息が詰まる。
 霞む視界の中、廊下に面した窓の向こうに、いくつか子供らしい影が見えた。
 次の瞬間、部屋に激しい破裂音が響いた。鮮やかな煙が辺りに立ち込める。
「な、何だ!?」
 オウリが裏返った叫びを上げて飛び上がる。
 そちらに注意が向いたハオランをとっさに突き飛ばし、煙に紛れるようにして、アツヤは部屋を飛び出した。
 闇雲に廊下を走る。一歩毎に身体のどこかが痛む。
「おーい、こっちこっち」
 廊下の角から、ひょっこりとナーヴェールが顔を出していた。よろめく足を無理に走らせ、後についていく。
 子供の後に続いて地下に降りると、こっち、と細い通路のような場所に、強引に押し込まれる。
「大丈夫? 動けるか?」
 壁にもたれて座りこみ、荒く肩で息をしながらようやくアツヤは顔を上げた。
 ナーヴェールが緑の瞳を不安げに揺らがせて、彼を見下ろしていた。
「なぜ……?」
 呼気に混じらせて、辛うじてそれだけを声に出す。息が落ち着き、興奮が冷めてくるに従って、全身の痛みが強くなってきた。
「お前が引っ張っていかれるの、ジャンが見てたんだ。なんかマズそうだったからさ、かんしゃく玉と煙玉放り込んだんだけど、じゃなくて、ほんとに大丈夫か?」
 ああ、と頷く。
 ジャンと呼ばれていた子供が、放り出されていたという買い物袋を持ってきてくれた。二人はどうやらいなくなったらしい。
 外はもう黄昏時が近く、街灯もない裏路地はすでに薄暗い。怪しい人間がいないかどうか、確認しながらナーヴェールの家に戻る。
「何かあったのか?」
 二人を一目見るなり、ウェルナーが顔色を変えた。
「何でもないですよ。遅くなりました」
 アツヤは笑って言ったものの、その顔は痛みで引きつった。ウェルナーは眉をひそめたものの、とにかく入って休みなさい、と二人を中に入れる。
 アツヤは横になったものの、強まる痛みに休むどころではなかった。熱が出てきたのか、身体が火照る。
 ひやりと、濡らした布が額に触れた。
「少しは楽かな」
「すみません……」
「構わないよ。食事はできそうかい?」
「どうにか」
 身体を起こし、野菜の入ったスープの椀を受け取る。
 食事をとり、置き薬を貰って飲む。しばらくすると、薬が効いてきたようで、全身の疼痛は和らいできた。
「ナヴェル」
 アツヤがまどろんでいるのを見すまして、小声で、何があったのかと聞かれ、ナーヴェールは知っている限りのことを父親に話した。
「そうか。……外に出るなとは言わないけど、気を付けるんだよ」
「分かってる」
 いい子だ、とくしゃりと頭を撫でられて、ナーヴェールは面映い様子でそっぽを向いた。


 翌日、友人のジャンとケビンと一緒に、小遣い稼ぎでくず鉄を集めたナーヴェールが、それを売りに行こうとしていたときだった。
「君、ちょっといいかな?」
 声をかけたのは、昨日アツヤを廃墟に連れ込んだ二人組のうち、青白いひょろりとしたほう――オウリ――だった。
 どうやら向こうは、昨日かんしゃく玉と煙玉を投げ込んだのがナーヴェールたちだと気付いていないらしい。
「何? 俺、急いでんだけど」
「すぐ終わるよ。ちょっと聞きたいことがあるんだ。この辺りにタオって名前の女の人は住んでいないか? 赤い髪で青い目の、背の高い人なんだけど」
「タオ? 知らない」
「あ、名前は変えてるかもしれない。何か知らないかな」
「って、言われてもなー。三区に赤い髪の女の人っていたっけ?」
 なあ、とちらりと友人たちと目を見交わす。
「四区なら三人くらいいなかったっけ?」
「四区? ここじゃないのか?」
 オウリの隣りにいたハオランが口を挟む。
「ここ三区だよ」
「なら、四区まで案内してくれ」
 ええ、と少年たちが一様に顔をしかめる。
「なんだ、何かあるのか?」
「だって四区だろ。あそこやばいんだよ」
「そうそう、異能者ってのがいっぱいいるんだぜ」
 顔をしかめたケビンに、ナーヴェールも頷く。
「異能者? なんだそれは?」
「なんだ、って言われたって、異能者は異能者だよ。空飛んだり、壁とか走ったり、瞬間移動とかしたり、色々出来るんだよ。前なんか、竜になったやつだっていたんだってさ」
 まさか、とナーヴェールとジャンにそろって突っ込まれ、ケビンが口を尖らせる。
「ほんとだって。異能者が灰色の竜と黒い竜になって四区が大変なことになったって、マークから聞いたんだよ」
「マークなんか、嘘つきじゃないか」
「いくら異能者だって、竜なんかおとぎ話に出てくるものだろ。ほんとに竜になるわけないじゃん」
「マークは俺には嘘言わないよ」
「それはいいから、四区まで案内してくれって」
 むきになるケビンと、信じていないジャンとナーヴェールの間で喧嘩になりそうになるのを、ハオランが口を入れる。
「兄ちゃん、俺たち用があるんだってば」
「後ですませばいいだろう」
 むっとした顔を作りかけ、ナーヴェールは分かった、と頷いた。
「ナヴェ?」
「ジャン、俺の分、持って行っといてくれよ。あのさ、兄ちゃん。俺も用があるからさ、三区の端っこまでなら案内してやるよ。そっから先は別の人に聞いてくんない?」
「まあ、それでいいだろう。頼むよ」
 オウリに頷き、こっち、とナーヴェールが先導するのを、残った二人は顔を見合わせて見送っていた。
 しばらくして、案内を終えたナーヴェールが戻ってきた。二人が待っていたことに驚きつつ、自分の分のくず鉄を受け取る。
「あの二人、四区に案内しちゃって良かったのか?」
「何言ってんだよジャン、俺、四区に案内なんかしてないぜ」
 けろりとしたナーヴェールを見て、ケビンが吹き出した。
「あっち、二区に行く道だもんな」
「そうだよ。三区の端っこまでは案内するって言ったけど、そっから先は知らないよ」
 三人でひとしきり笑って、ジャンがふと真面目な顔になる。
「誰を探してるんだか知らないけど、大丈夫かな」
「なんだ、ジャン。あいつらの心配してるのか。なんだあんな奴」
「違うよ。俺だってあんな奴らの心配しないよ、ナヴェ。探されてる方が大丈夫かなって、そういう話だよ」
「でもさ、誰が探されてるかなんて、分かんないじゃないか」
 だよな、とケビンが頷く。
「ナヴェんちの兄ちゃん、なんか知らないのか?」
「さあ……昨日から寝込んでるんだよ。そうだ、薬、買いに行かなきゃいけないんだった」
 駆け出すナーヴェールの後を、ジャンとケビンが追っていった。


「で、あたしに何しろっての」
 夕方、オセロ・アパートメントの近くでアツヤに声をかけられたユリンは、彼から話を聞いて、呆れと困惑が入り混じった表情を浮かべた。
「勝手にしろ。とにかく、伝えるだけは伝えたぞ」
「君、あたしが死んだって手紙出したんじゃなかったの?」
「手紙は出したさ。入れ違いになったか、俺が戻らないんで怪しまれたか、そもそもオウリの若旦那の独断か、そのどれかだろ」
「若旦那の独断ならそれでいいけど、なんでハオランがいるの。楼で働いてたんじゃなかったの、彼」
「お前が逃げた後で、あいつは辞めてどこかに行ったんだよ。どうやって若旦那と知り合ったのかは知らんがな」
「まあそのへんの事情は、確かにどうでもいいけど」
 面倒だなあ、と呟くユリンの隣で、密かにナーヴェールの家を抜け出してきたアツヤは、顔をしかめ、壁にもたれかかってへたりこんだ。彼の顔は夕日の中でも分かるほど土気色で、どう見ても健康な人間の顔色ではない。
「…………病院、行く?」
 アツヤは嫌がるだろうが、流石にこれは、医者にみせるべきではなかろうか。そう思ったものの、予想通り、彼は首を横に振った。
「寝れば治る」
 彼の医者嫌いは承知している。妓楼にいた頃は、若衆に対しては、余程のことがなければ医者など呼ばれなかったし、そもそもその医者も、薬は効くが腕の方は藪だと評判だった。
「タオ!」
 そこへ、いきなり呼ばれた覚えのある声に、ユリンははっと辺りを見回した。
 オウリとハオラン。よく知っている二人が歩いてくるところだった。
 どこをどう辿ってきたものか、ハオランは目の周りを黒くし、唇を切って血を流していた。
オウリも怪我こそしていないようだが、そろそろ寒くなるこの時期に肌着一枚になっている。
「何か?」
「あんたを連れに来たんですよ、タオさん」
「タオなら死にましたよ」
 すい、とハオランが目を細めた。
「いいから来いって言ってるんだよ。あんたに拒む権利なんかないはずだ」
「嫌」
 短く答えると、ハオランの顔が歪んだ。彼の視線がユリンを逸れ、アツヤに向く。
「なんだ、アツヤさん、やっぱり知ってたんじゃないですか。ってことは、タオさんの足抜けもあんたが手引したんでしょ」
「ふざけたこと言わないでくれる?」
 ユリンの語調が、瞬時に氷を帯びる。
「何が悲しくて、こんな人に手引してもらわなきゃなんないわけ? この人に脱走の手引されるくらいなら死んだほうがよっぽどましだよ!」
「誰がこいつの手引なんざするか」
 まくしたてるユリンに続いて、アツヤも顔を歪めて吐き捨てる。
「タオ!」
 駆け寄ってきたオウリが、ユリンの手首を掴む。
「こんなところは早く離れて、私と白羅に帰ろう。もう父はいない。今は私が当主なんだ。だからもう、誰が反対しても、お前を妻として迎え入れることができる」
 熱を帯びた黒い瞳を、冷えた青い眼が見返す。
「お父様は、どうなさったのです」
「いなくなった。もういないんだ。もうお前は何も気にしなくていい」
 ぐい、と手首をオウリの方へ突き上げるようにして、彼の手を外す。
「御親戚の方々の反対もありましょうに。それに、タオはあの夜に死にました。ここにいるのはただの幽霊ユリンです」
「何を……何を言うんだ! 誰が反対しようと、そんなやつはいなくなってしまえばいいだけだ! それにお前は生きているじゃないか、幽霊だなんて、そんなことは……!」
「黙って従え、この淫売! お前みたいな白っ首は大人しく従っていればいいんだ! お前たちなんか身体を売るしかできない、男を誑かす以外に能もないくせに!」
 ユリンばかりでなく、アツヤの顔にもさっと憤怒の色が浮かぶ。
 ハオランの言葉は、アツヤが今でも想う女をも侮辱していた。
 怒りのまま、アツヤがハオランに殴りかかるより早く、ユリンが彼の顔を真正面からまともに殴りつけていた。歯で切ったものか、白い手から、赤い血が垂れる。
「あたしのことは、何とでも言えばいいよ。でもそんな風に、あたし以外のひとまで言うのは、言うのだけは許さない」
「な――」
 言いかけたハオランの顔へ、今度はアツヤの拳が入る。
 顔を鼻血だらけにしたハオランが尻餅をつく。その腕を、ユリンが掴んだ。
『ちょいと、頭、冷やそうか』
 故郷の言葉で、耳元でそう囁き、自身の異能【重力操作】で、その重力を反転させる。
 途端、二人の身体は空に向かって落ちていった。
 ハオランの喉から絶叫が上がる。彼が高所を殊の外嫌うことを、ユリンは知っていた。
 鐘の塔と、ほとんど同じ高さまで落ちるころには、ハオランは白目を剥き、口から泡を吹いていた。
 ゆっくりと、地面に戻る。ユリンの異能を既に知るアツヤは別段驚きもしなかったが、オウリはたちまち藍をなすったような顔色になった。
「ば、ば、化物!」
 ユリンの喉から、ひゅ、と音がした。オウリを見るその顔に感情はなく、ただ紺青の瞳が、大きく丸く見開かれている。
(あ……泣くな)
 アツヤが思ったその瞬間、ユリンの朱唇が弧を描いた。
 その顔は、彼女がおよそ浮かべたことのない、奇妙に歪んだ嗤い顔だった。
『化物と思われるなら、それで結構。もう二度と、わたくしと添おうなどと思われませぬよう』
 辛うじてハオランを引きずりながら、あたふたと後ずさり、そのまま逃げるオウリに、その言葉は届いただろうか。
 肩で息をしながら、アツヤはちらりとユリンを見た。
 唇をいびつに歪めた嗤いは、まだその顔から消えていなかった。