霧けぶる朝

 秋の朝の肌寒さが、少しずつ和らぎはじめた。気温が緩やかに上がるにともなって、辺りを白くぼやけさせていた狭霧も、段々と薄らいでいく。

 蹄鉄が地を叩く音。重いものが揺れて、互いにぶつかる音。

 薄れゆく霧を割って、黒っぽい塊が現れる。それは一頭立ての小型の荷馬車で、幌のない荷台には、大小さまざまの荷物が載っている。

 馬を御しながら、御者は時折、ちらちらと荷台を気にしていた。

 普段は荷物しか載らない荷台には、今、荷物の間に挟まって、赤い髪の娘が、膝を抱えて座っていた。濃灰色の長羽織にすっぽりと包まり、紺青色の瞳が、眠たげに細められている。娘は膝と胸の間に、鮮やかな色合いの布包みを挟んで、それに顎を乗せるようにして、遠くにぼんやり目をやっていた。

 馬車の揺れが、眠気を連れてくる。

 娘がうとうとと舟をこぎかけたとき、路傍の石か何かに乗り上げたのか、馬車が大きく揺れた。御者が悪態をつき、その後ろで、娘もびくりと顔を上げる。

「おーい、もう見えてくるぞ」

 御者の声に、娘は傍らの荷物を手がかりにして身体をまわし、首をぐっと伸ばして前方に目を凝らした。

 だいぶ薄くなった霧の中に、目指す都市の姿がおぼろに浮き出している。霧越しにも、その輪郭が、人が住んでいると信じられないほど荒れているのが見てとれた。

「アンタ、ほんとにあすこに行くのかい? 悪いことは言わないから、今からでも止したほうがいいんじゃないか? アンタみたいな嬢さんが住むような場所じゃないぜ、あすこは。この前だって、何だか知らんが、やけにドンパチやってたらしいし。何ならこの先の、別の町まで送ってやるが、どうだい?」

 前方に目をすえたまま、御者が声を投げる。それに答えたのは、娘の、朗らかな笑い声だった。

「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。あたし、これでも逃げ足だけは自信ありますから」

「似たようなことを言って、あすこに行ったヤツがいたよ。どうなったか分かるかい? 三日もしないうちに犬の餌だ。あすこにゃゴロツキも多いが、異能者って、バケモンみたいな連中もいるからな。そんなヤツらに目ぇつけられてみな。無事じゃすまないぜ」

 娘が、苦笑のような、自嘲のような笑みを口元に浮かべる。もっとも、御者はそれに気付いていない。

「んー、まあ、あたしも噂はいろいろ聞きましたけど。ちょっと事情もありまして」

「事情、ねえ」

 やがて、馬車が道端に止まる。

「お世話になりました」

 布包みを胸に抱え、身軽に荷台から飛び降りた娘が、御者台に向き直って頭を下げる。胡麻塩頭の初老の御者は、気をつけなよ、と娘に一言残し、馬にひと鞭くれて馬車を走らせはじめた。

 黒い影と蹄音が少しずつ小さくなり、やがて点となって消えていく。

 娘は何か考え込むような顔で、その場に佇んでいた。しばらくして、何かを振り切るように、来た道に背を向け、包みを抱え直す。

 吹いてきた風が、娘の短い赤い髪を揺らした。顔にかかる長い一房が、風に吹かれて軽くなびく。

 まなざす視線の先、ここからでも分かるほど荒れた都市の輪郭の中に一つ、すっと伸びるものがある。

 

 鐘の塔。

 

 不安といくらかの好奇心、そして期待がないまぜになった青い目をその輪郭に向け、娘は白い靴をはいた足を一歩、前方に向かって踏み出した。