#2 南雲啓

 ざざ、ざ、ざざ。
 ざざ、ざ、ざざ。
 覚えのある音が聞こえる。
(この音は――)
 波の音だ。
 ゆっくりと、蛭子堂は目を開いた。
 夜の浜辺。眼の前に広がる海原は墨を溶かしこんだように黒く、夜空には三日月が昇り、銀砂のような星が散っている。
 潮の香を含んだ風が、頬を撫でる。
 周囲を見回すと、背後の小高い丘の上にぽつりと明かりが灯っているのが見えた。
 丘の上に建つ平屋の明かりである。
(懐かしいな)
 しかし、夜中に浜辺に一人でいるこの状況がおかしいということは、蛭子堂も承知していた。
 そもそも、自分は確かに家の布団で眠ったのだ。家の近所に海はなく、深夜に一人で海へ行けるわけもない。
(――夢、か)
 そうとわかっても、蛭子堂は目を覚まそうとしなかった。
 今眼前に広がっているのは、故郷、百鬼島で幾度となく見た景色だ。
 二度と戻らないつもりで故郷を出た身だ。もうこの景色を見ることもあるまいと思っていたのだが――。
(たまには、こんな夢もいいな)
 くすりと笑い、蛭子堂は波打ちぎわに座って足を投げ出した。
 打ち寄せる波は膝下まで届き、たちまち足を濡らす。
 昔、父が母を訪ねてくる夜には、二人が過ごすいっときをこうして外で過ごしていた。
 父は網元の家の血筋で、島では絶大な権力を持っていた。
 網元だったから、というばかりでなく、島で唯一の呪術師の家系だった、ということもあるのだろう。
 そして父は正妻の他に蛭子堂の母ともう一人、女を囲っていた。
 普段は本家で暮らしている父が母のもとにくるのは月に二度ほどで、それも夜に入ってから訪れ、翌朝早くに帰っていくのが常だった。
 母のことは今でもよく覚えている。長身の蛭子堂に比べ、母は小柄なひとだった。
 背丈ばかりでなく、目鼻も万事小づくりで、ちょっと日本人形のような印象を受ける女だった。
 逆に父のことはほとんど覚えていない。
 家に来るときには、たまに菓子や玩具を手土産にしてくれていたことは覚えているが、あまり父と話をしたことはない。厳格な人だという評判は聞いたことがあるし、実際母にも自身にもろくに相談もなく、蛭子堂を本家へ引き取るという話を決めた父のことは、父が亡くなった今でもあまり良い印象を持っていない。
 そもそも父に関しては、正妻の他に母を含めて二人も女を囲っている時点でよく思っていない。そんなことをすれば後々面倒になることや、正妻が自分たちを許すはずがないことくらいわかっていたはずだろうに、火種をまくだけまいて世を去った。
 波の音に紛れて、砂を踏む足音が聞こえた。
 黒いワンピースを着た年配の女が、いつの間にかそこに立って蛭子堂を見つめていた。
 女は何かを抱えている。
 月明かりに照らし出された女の顔を見、蛭子堂は小さく息を呑んだ。
 嫌な予感が胸をかすめる。
 これがただの夢であれば、嫌な予感が杞憂であればいいが……。
 女が抱えていたものを砂浜に下ろす。
 黒い蛇だった。
 月光を受けて、鱗がてらりと光る。
 とっさに立ち上がろうとしたものの、左の手足が不如意の身では敏捷に動けない。
 鋭く舌打ちをした直後、左腕に蛇が巻き付く。
 左腕が締め上げられ、同時に燃えるように熱くなる。
 顔を歪めた蛭子堂を見て、女が赤く紅を引いた唇を歪める。
 それを認め、蛭子堂の頭がすっと冷えた。
「すっかり忘れていたよ。夢を介して呪詛を送るのは、あなたの十八番だったね」
 だらりと左腕をたらし、ゆっくりと立ち上がる。
 薄い唇を吊り上げた蛭子堂は、冷ややかな目で女を射抜いた。
四方切よもきり 八方切やもきり 引剥ひはぎ 絶切たちきり きたかたへと返しやれ」
 蛇が砂の上に落ちる。
 鎌首をもたげた蛇は、一直線に女に向かっていく。
「貴様!」
 蛇が飛びかかる直前、女は目をむいて蛭子堂に怒鳴り、直後、蛇もろとも蛭子堂の視界から消え去った。
 景色がぼけ、意識が現に引き戻される。
 目を開くと、ナツメ球の橙色の灯が見えた。
 タオル地の寝間着は汗で湿り、気持ちの悪いことおびただしい。
 箪笥から出したタオルで汗を拭って寝間着を着替え、時計を見ると午前二時を回っている。
 喉の渇きを覚え、蛭子堂はふらふらと立ち上がり、左足を引きずりながら台所へ向かった。
 台所は蛭子堂が寝ている部屋の隣にある。
 コップになみなみと水を注ぎ、一息に飲み干して大きく息を吐く。
 左手には、まだ熱感が残っている。
 蛭子堂がつかう呪術の中には、術者がその反動を受けるものもあれば、ときには打った呪が返されることもある。
 そういったものを全て、蛭子堂は自身の左手に封じている。
 その結果、左手は自身に向けられた呪詛に対して、過敏に反応して熱を帯びる。
 くわえて封じた呪詛は左手の中で互いに互いを喰いあってその力を強めており、その影響か、左手は年々不自由になっている。
 今の熱感は、夢で打たれた呪詛に反応しているのだろう。返しているのだから、この熱感はそのうちおさまるはずだ。
 夢に出てきた女の顔が脳裏をよぎる。
 百鬼島を出たことで、もう二度と会わないですむだろうと思っていた女だった。
 絶ち切ったはずの縁がどこでどうつながったのか、見当もつかない。
(まあ、また呪詛を打ってくるようなら、こちらもまた返すだけだけれど。当分は気を付けておかないといけないな)
 ぎ、と廊下が軋む。
「御前、どうかなさいましたか」
 そっと信乃が台所をのぞきこむ。
「ううん、何でもないよ。ちょっと夢見が悪かっただけ」
 信乃の肩を借りて、部屋に戻る。
 布団に横になり、蛭子堂はとろとろと眠りこんだ。