#2 南雲啓

 夜が明けはじめるころ、蛭子堂は目を覚ました。
 雨が屋根を打つ音が聞こえる。
 深夜に目を覚ましたときには、外は静かだったことを覚えている。雨音がそこまで強くないことを考えても、降り出してから、それほど時間は経っていないのだろう。
 布団を片付け、折りたたみ式のテーブルと座布団を出す。
 そこへ、ぱたぱたと足音が近付く。
 とん、と、背中に軽い衝撃があった。
「んー? 五百いおちゃんかな?」
 背中から、えへへ、と笑う声がする。
「着替えと朝ご飯の準備しないとだし、ちょっと離れててね」
「えー」
 ぎゅ、と抱きつかれる。
「ふふ、五百ちゃんは甘えただねえ。でも僕は着替えないといけないし、ご飯を食べないといけないからね。いい子だから離れててね」
「はあい」
 背中に抱きついていた気配が離れる。
 白髪のおかっぱ頭に色鮮やかな振袖を着た少女である。左手の小指に『蛭』と刻まれた金の指輪をはめている。
 この少女は五百子いおこといい、手鞠の付喪神である。
 半年前、骨休めに旅行に出かけた蛭子堂が滞在先の旅館で見つけ、懐かれたこともあって旅館に話を通し、連れ帰って来たのだった。
「おはようございます、御前」
「おはよう、信乃」
 にこりと笑った蛭子堂に、信乃もほっとした様子で笑みを返す。
 信乃に手伝ってもらいながら寝間着を脱ぎ、胸から腹にかけてさらしを巻き、カッターシャツとスラックスを着て朝食の準備を整える。
 米飯とインスタントの味噌汁、それに沢庵を二、三切れ。
 この簡単な朝食を食べ、濃いめに淹れた茶をゆっくりと飲む。
「信乃、髪、お願い」
「はい」
 信乃に髪を結ってもらいながら、蛭子堂は煙管を取って美味そうに一服吸いつけた。
「御前、お身体は大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。ありがとう、信乃」
 信乃は蛭子堂を幼いころから知っており、蛭子堂も信乃を信頼している。それもあって、他人に対しては言葉をはぐらかすことも多い蛭子堂も、信乃には基本的に素直に受け答えをしていた。
 一服吸い終え、煙草盆を抱えてゆっくりと階下に降り、店に顔を出す。
「カケヤ、どうかな。何か変わったことはあったかい」
「否。何事もなく」
「そう。お疲れ様。今夜も頼むから、上で休んでおいで」
 黙ってうなずき、カケヤが階段を軋ませながら登っていく。
 表に『蛭子』の表札を出し、自身の定位置であるカウンターに戻る。
 昼が近付いても、店に客が来る様子はない。
 蛭子堂はいっこうに気にする様子もなく、信乃が淹れた茶を飲み、強まっていく雨音に耳をかたむけ、時折一服しながら、カウンターに広げたクロスワードパズルの雑誌に答えを書きこむ。
 夕方、煙管をくわえた蛭子堂が、クロスワードの答えを考えていると、カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
 カーキ色の、薄手のトレンチコートを着た、大柄な男が入ってくる。
 店の入口で一応雨滴を切っていたようだが、手にしたビニール傘からはまだ水が滴っている。
 年頃は二十六、七くらいだろう。日本人にしては彫りの深い、目付きの鋭い、険しい面立ちをした男だ。
 男を見た信乃が、つかのまぎょっとした様子で立ちすくむ。
 男と目があった蛭子堂も、一瞬、心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えた。
 しかしそんな内心はおくびにも出さず、蛭子堂は微笑んでカウンター前の椅子をすすめた。
「さて、依頼は何かな?」
 男はしばらく、立ったままで胡散臭そうに蛭子堂をじろじろと見ていた。
「人を、呪ってくれると聞いた」
 男が言葉を押し出す。
 その言葉を聞いて、蛭子堂が笑みを消した。
「ああ、そっちの依頼か。それならこっちにおいで」
 店の奥の小部屋に男を案内し、男と差し向かいに座る。
「それじゃ、話を聞こうか」
「この女を呪ってほしい」
 男が鞄から写真を出し、テーブルの上を滑らせる。
 写真には、ゆるく巻いた茶髪のロングヘアに白いブラウスを着た若い女が映っている。
 女はまっすぐにこちらを向き、にっこりと笑っている。
 写真の女、十河雪とがわゆきは訪ねてきた男――南雲啓の交際相手である。
 啓は雪との結婚も考えていたが、雪は啓にあれこれと物をねだる一方で、啓と交際をはじめたころから、別の男と交際を続けていたという。
 そして先月、雪は啓に一方的に別れを告げ、一切の連絡を絶った――啓は淡々とそう語った。
「裏切られたのがどうしても許せない。呪いでも何でも、こいつに思い知らせてやりたい」
「なるほど。殺すわけじゃないんだね」
「ああ、生かしておいて苦しませたい」
「でも人を呪うからには、それなりの対価を払ってもらうことになるけれど、どうかな」
「金なら、いくらかかってもかまわない」
「うん、そりゃお金も払ってもらうけど、昔から言うだろう、『人を呪わば穴二つ』って。それでも呪詛に頼るかい?」
「かまわない。呪いでも何でも、とにかくあいつが痛い目を見ないと気が済まない」
 啓の口調は終始淡々としている。
「……なるほど」
 冷ややかに笑った蛭子堂が提示した金額に、啓は一瞬目を見開いた。
「そんなに?」
「殺すという話ならもっと報酬をもらうけれど、そうじゃないんだから、このくらいはむしろ良心的なほうだと思うよ」
「……わかった」
「よし、前金として半額、残りの半額は達成後に払ってもらう形になるけど、いいかな。――うん、それじゃこれを書いて」
 渡された用紙と小切手に、啓がペンを走らせる。
 それらを受け取り、蛭子堂は内容を確かめる。
「――これで、内容に間違いはないかな」
 じっと啓を見つめ、蛭子堂はゆっくりと問いかける。
「あ、ああ」
「……そうか、わかった。一週間後にまたおいで」
 啓を見送り、小部屋に戻った蛭子堂は雪の写真を取り上げた。
 こちらを見て笑っている女に、どことなく違和感を覚える。
 用紙を取り上げてカウンターに戻り、カウンターの下からパソコンを取り出す。
 用紙に書かれた住所を検索してみたが――存在しない。
(ふむ……)
 写真をパソコンに取りこみ、AI画像を判定するサイトを開いて写真を判定する。
 数秒の後。
(AI画像、か)
「御前、先ほどの方は……」
「うん、まさかと思ったけど、十中八九、信乃が思ってるとおりの人だろうね。でも、そうであってもなくても、僕には関わりのないことだよ」
「……そうでしたね」
「うん。……さて、何が目的かな」
 ふと暗い目をして、蛭子堂は信乃にも聞こえないほどの声で呟いた。