#2 南雲啓

 一週間後、以前と同じ時間に南雲啓は蛭子堂を訪れた。
 この日も雨が降っていた。先週よりも雨は強い。
 傘の水を切って入ってきた啓がはいているジーパンの裾は、雨でびっしょりと濡れていた。
 ドアベルの音で来客に気付いた店主が、カウンターに広げていた雑誌を閉じる。
「やあ、いらっしゃい」
 どことなく緊張した面持ちの啓に、蛭子堂はにこやかに笑いかけた。
 相手に腹を読ませない笑顔である。胡散臭い笑顔とも言える。
 店内には信乃とカケヤ、そして五百子いおこもおり、男をみるなり五百子は店主にすがりついた。
 信乃もその顔を緊張で強張らせ、そんな信乃に気付いたカケヤはじろりと男をみやった。
 店内の空気がぴんと張り詰める。
 五百子の頭をなでてそっと手を外し、ゆっくりと立ち上がった蛭子堂は、一週間前と同じように小部屋へ男を案内した。
「まず、返すものを返しておこうか」
 蛭子堂が部屋の戸棚に置いていた文箱から小切手を取り出し、啓に渡す。
 啓が小切手を見、蛭子堂を見て眉をひそめる。
「何のつもりだ?」
「それを聞きたいのは僕のほうなのだけれども。君こそ何を思って『存在しない人間』への呪詛など頼んできたんだい?}
 笑顔を浮かべ、穏やかな語調で話しているが、蛭子堂の目は笑っていない。
 その笑顔自体も、まるで顔に笑顔の型でも貼り付けたような表情だった。
 啓が蛭子堂を見返す。
 こちらは笑顔ではない。いかめしい、険のある表情である。
「いつ、気付いた?」
 そう訊ねた。
「君が来た日の夜さ。せめて自分のことは正しく書くべきだったね、何かを頼むなら」
 ち、と啓が舌を鳴らし、顔をしかめる。
「で、何が目的なのかな」
 蛭子堂の問に、ふん、と鼻を鳴らした啓が腕を組んで胸を反らす。
「あんたが凄腕の呪術師だと聞いたんでね。どれくらいの実力か気になったのさ」
 言葉だけ聞けば横柄だが、どことなくその態度にははったりかこけおどしめいたものが感じ取れた。
 ちょうど、虫が威嚇のために翅を広げるように。
 蛭子堂がきゅっと唇を曲げる。
「そうかい。それなら忠告しておこうか。力試しのつもりで妙なことを頼むことは止したほうがいいよ。妙な因果を結ばれて、ひどい目にあうこともあるからね。顔中腐ってとろけるような目にあいたいってわけじゃないんなら、騙すような真似は止めなね。……二度目はないよ」
 もう一度鼻を鳴らし、小切手を乱暴に鞄に突っこんだ啓が立ち上がる。
 蛭子堂を見下ろす形になった啓が、不意にその顔を蛭子堂に近付けた。
百鬼夜魅なきりよみがお前を探しているぞ」
 低くささやかれ、はじめて蛭子堂の顔から笑みが拭ったように消えた。
「……僕とは、もう関わりのない人だよ」
「それが通じる相手だと思うか?」
 啓は黙りこんだ蛭子堂には見向きもせず、大股に部屋を出ていく。
 ドアベルが鳴り、玄関のドアが閉まる音が聞こえる。
「御前」
 部屋をのぞいた信乃の顔はまだ強張っている。
 それを見て、蛭子堂は意識して微笑みを作った。
「どうかしたかい」
「何かあったかと思いまして。大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。何にもないよ」
 店に戻ると、五百子が再びすがりついてきた。
「どうしたの? 怖かったの? もう大丈夫だよ」
 よしよしと頭を撫で、ひょいと五百子を膝に抱きあげる。
「何か甘いものでも食べる?」
 左手で五百子を支え、右手を伸ばしてカウンターの下から木箱を出して蓋を開ける。
 花をかたどった小さな落雁を一つ五百子の口に入れ、もう一つを自分の口に運ぶ。
 口の中で落雁が崩れ、甘さがふわりと広がる。
 そのとき、カウンターの端に置いていた電話が鳴った。
 蛭子堂の膝の上で、五百子が小さく飛び上がる。
 急いで落雁を飲みこみ、蛭子堂は受話器を取り上げた。
「もしもし?」
「多々羅です。昼にお電話をいただいていたようで、不在で失礼しました」
「いいえ、お気になさらず。今お時間いただけますか?」
「はい」
「以前ご依頼いただいた件、今週の土曜日に伺おうと思っているんですが、ご都合はいかがですか」
「ええ、構いません。何のおもてなしもできませんが……」
「お構いなく。以前お話しした、付喪神の目利きができる子と二人でお伺いします」
「わかりました。当日はよろしくお願いします」
 受話器を置いた蛭子堂は、今度はスマホを取り上げた。
 宛先から『定倉計』を選ぶ。
『多々羅さんの件、この間メールで相談したとおり、今週の土曜日に決まったよ。十時に駅に集合でいいかな』
 メッセージアプリに文章を打ち込み、送信する。
 数分の後、
『わかりました』
 そう返信が帰ってきた。
 これでよし、とうなずき、蛭子堂はスマホをしまいこんだ。