#3 多々羅仁
午後六時三十分。
大粒の雨が勢いよく叩きつけてくる中、伯――駅のホームに定刻どおりに電車が到着した。
会社や学校帰りと思しい人々が、ぞろぞろと降りてくる。
雑踏の中に、ひときわ目を引く人影がある。
周囲よりも、ゆうに頭ひとつ分は高い身長。ビジネスマン然とした白いカッターシャツに黒ネクタイ、黒い細身のスラックス。
ただしその上から羽織っているのは、深緑の地に菊花を描いた訪問着である。
黒い革手袋と、右手の五指にだけはめられた全てデザインの異なる銀の指輪、左手の杖。
右のひと房だけ残して結い上げている白髪も相まって、その人影――蛭子堂は嫌が上にも目立っていた。
ホームから人が減るのを待って、ボストンバッグを下げた蛭子堂は、小ぶりのキャリーバッグを引いて歩く定倉計とともに改札を通り抜けた。
「すごい雨だね。ここからはバスに乗らないといけないけど……あの様子じゃだいぶ待たないと駄目かな。どうも十二、三分は遅れてるみたいだし」
駅のそばのバス停の様子と、スマホで調べた運行情報を見比べ、蛭子堂が細い眉を下げる。
横なぐりに叩きつけるように降る雨の中、バスを待つ人々が長蛇の列を作っている。
「定刻どおりに運行していないとは……」
計のほうから、そんな嘆きが聞こえてきた。
声の主は計――ではなく、彼女が手首につけているダイバーズウォッチに宿る付喪神、トキである。
「こんな雨だし、遅れるのは仕方ないでしょ」
計が淡々と答える。
「タクシーを使うにしても、山のほうまで行くとなると結構距離があるからなあ……。道も混んでそうだし、どちらにせよ遅れそうだね――おや」
二人のもとへ、三十前後のスーツ姿の男が駆け寄ってきた。
「どうも、蛭子堂さん――ですよね」
「こんにちは、多々羅さん」
にこりと笑んで、蛭子堂が男――多々羅仁に応じる。
多々羅は仕事帰りらしく、グレーのスーツを着、細い銀縁の眼鏡をかけている。
どことなく鋭い目が、二人を探るように見ていた。
「電車の時間は聞いていましたし、こんな天候ですし、どうせ帰り道ですからお迎えにと思いまして」
「ありがとうございます。ああ、そうそう、こちらが『目利き』の定倉さん。計ちゃん、この人が依頼人の多々羅仁さん」
互いに短く挨拶を交わし、多々羅の運転で彼の家に向かう。
「例の音は、まだ続いていますか?」
「続いています」
「ふむ、今の程度は? 音がひどくなってるとか、逆に弱くなってるとか」
「そうですね、特にひどくなっているとは思いません。弱まっているとも感じませんが」
「なるほど」
呟き、腕を組んだ蛭子堂が目を閉じる。
その様子をバックミラーでちらりと見た多々羅が、
「何かわかりますか?」
どことなく、期待をこめて訊ねるのへ、
「いやあ……まず状況を確かめてみないことには何とも」
組んでいた腕を解き、蛭子堂が微笑する。
その様子に、多々羅はがっかりしたような表情をちらりと浮かべたものの、すぐにそれをかき消した。
「蔵からの音を最初に聞いたのは、お宅の家政婦さんでしたよね。お名前は確か赤木さんでしたっけ。赤木さんからそのときの話を聞くことはできますか?」
「はい、伝えておきます。それと、家のことは赤木さんに任せているので、何か用があれば彼女に伝えてください」
「わかりました」
車は混みあう大通りから横道に入る。横道は車は少ないが街灯も少ない。
多々羅は慣れている道らしいが、雨がひどいせいか、スピードは出していなかった。
やがて、車は多々羅の家についた。
多々羅の家は平屋建ての、家というよりも屋敷とでもいうほうがふさわしい構えの建物だった。
車から降り、家をひと目見て、蛭子堂が訝しげに眉をひそめる。
雨の勢いは弱まるどころか刻々と強まっている。傘も差していない蛭子堂は当然、あっという間に濡れていくが、当の本人はそんなことをまるで気にしていない。
「どうされました?」
「いや……」
蛭子堂が小さく首をふり、ボストンバッグを持って計と玄関に向かう。
玄関に入っても、蛭子堂は訝しげな色を消さなかった。さりげない様子で、ちらちらとあちこちに目を向けている。
三人を迎えに出てきたのは、住みこみの家政婦、赤木京香だった。
京香はまだ二十三、四といったところで、家政婦という言葉から想像されるよりも若い。明るい茶色の髪をひとつにまとめ、白いシャツに灰色のズボンの上から、ベージュのエプロンをつけている。
十年前に父親が亡くなり、昨年母親が亡くなってから、この家に住んでいるのは多々羅と京香だけらしい。
京香に案内された客室に荷物を置き、蛭子堂はあてがわれた部屋を見回した。
八畳の和室。畳は替えられてから間もないようで、部屋にはまだ藺草の香が残っている。
(しかし、どうも妙な家だね)
少しの間、天井を睨んで腕を組んでいた蛭子堂は、不意に隣の部屋へ声をかけた。
「計ちゃん、ちょっといい?」
「はい」
境の襖を開けて計の部屋に入った蛭子堂は、いつになく固い顔をしていた。日ごろにこにこしているこの店主にしては珍しい顔だった。
「どうしたんですか?」
うん、と答えて座った蛭子堂は、ぎこちなく左手を使いながら、右の中指にはめていた指輪を外した。幅の狭い銀の指輪で、表面には細かい彫刻がほどこされている。
「この仕事が終わるまで、これ、持っておいて。できればはめてくれるといいけど、とにかく手放さないように」
そう言われて指輪を受け取ったものの、物問いたげな計に蛭子堂が言葉を続ける。
「さっき、車から降りたときね、誰かに見られてるような感じがしたんだよ。だから一応、魔除けにね」
「この家は危険、ということですか?」
人間であれば、苦虫を噛み潰したような顔をしているであろうと思われる語調で、トキが口を入れる。
「さて、まだ何とも言えないな。今のところ、何も起きていないわけだしね。まあ、万一何かあったら僕がどうにかするよ」
蛭子堂がそう言ったところへ、京香が夕食の用意ができたと呼びに来た。
居間の食卓には、米飯と味噌汁、煮魚と酢の物が並んでいる。
「明日から蔵を見ていただくことになると思うのですが、蔵の一番奥の部屋は絶対に開けないようにお願いします。昔から、両親にもそう言われていましたので」
「奥の部屋? 蔵にそんなに部屋があるんですか?」
「はい、家の蔵は昔、母屋を立て直すときに、元々の母屋だったものを蔵として使えるように変えたものなので」
「ああ、なるほど。しかし、そこに原因があったら?」
「そのときは……また考えます。とにかく、開けないでください」
「覚えておきます。こちらからもお訊ねしたいんですが、この家の中か、ここの敷地内で亡くなっている人はいますか?」
「母は家で亡くなっていますが、それが何か?」
「ええ、少し参考までに」
にこにこと答えた蛭子堂だったが、それ以上の説明はせず、きれいな姿勢で酢の物を口に運んでいる。
夕飯が終わると、京香が皿を下げに現れた。蛭子堂の煮魚の皿に目を留め、不安げに眉根を寄せる。
多々羅や計はどれも綺麗に食べていたが、蛭子堂は煮魚には一切箸をつけていなかった。
「あの、お口に合いませんでしたか?」
「いえ、肉や魚を受け付けない体質なもので。悪く思わないでくださいね。お料理、美味しかったですよ」
蛭子堂が懐っこく京香に笑いかける。京香もほっとした様子で、てきぱきと皿を下げはじめた。
その後、計が風呂に入っている間、蛭子堂は部屋で煙草を呑んでいた。
着信音。
愛用の煙管を置き、鳴り続けるスマホを取り上げる。
画面に表示された『信乃』の表示を見、蛭子堂は顔を強張らせた。
「信乃、店で何かあった?」
「いえ、御前が案じられるようなことは何も起きていません。ただ今日、先日の南雲という方がまた来られて、御前にお会いしたいとのことでしたので、お伝えしておこうと思いまして」
「彼が? 何の用だか聞いた?」
「いえ、自分も聞いたのですが、御前と直接話がしたい、とのことでしたので」
「何だろうね。もし緊急の用なんだったら、僕の番号を伝えてもいいよ。こっちは二、三日は帰れないと思うしね」
「わかりました」
通話を終えた後、蛭子堂はいつになく暗い顔でスマホの画面を注視していた。
(何のつもりかな、コト)
「蛭子さん、お先」
襖ごしに聞こえた声に、はたと我に返った蛭子堂は、ありがとう、といつもの穏やかな声を返した。