#3 多々羅仁
洗った髪をまとめ、浴槽に身を沈めた蛭子堂は、難しい顔で沈思黙考していた。
(しかし、妙な家だこと)
車から降りたときに感じた視線といい、家の中で見られる瘴気といい……。
それにくわえて、蛭子堂は風呂場に行く途中、廊下に飾られていた絵の裏に、四隅が朽ちかかった魔除けの札が貼られているのを見つけていた。
蔵から鳴るという音と、それらが関係があるのかどうか、まだわかっていない。
(蔵なら調べられるけれど、母屋を調べるのは難しいかな)
考えこんでいるうちに、くら、と目眩に襲われた。
(長湯がすぎたか)
浴槽の縁に手をつき、そろそろと立ち上がる。
白皙の肌を、水滴が滑り落ちる。
蛭子堂の左肩、普段は服で隠れている肩甲骨のあたりに奇妙な痣が浮き出していた。牡丹の花のような、うす赤い痣だった。
風呂から上がり、ぎこちなく左腕を動かしながら水気を拭って寝間着に着替える。
火照った身体から熱が引くまで居間で休ませてもらい、京香から水をもらう。
「大丈夫ですか?」
「ええ、はい。そうだ、赤木さん。蔵から聞いた音について聞かせてもらえませんか?」
「はい、えーっと……どん、どんって太鼓みたいな音でした。段々それが大きくなってきて、おりんみたいな音とか、鐘みたいな音も混ざってきたんです」
「それが毎晩? よく眠れないんじゃありません?」
「いえ……たぶんいつも、十分かそれくらいで止んでいるので。それに大きな音って言っても、そこまでひどいものじゃないんです。まあ、確かに目は覚めてしまうんですけど、最近はちょっと慣れてきちゃいました」
「蔵のどのあたりから聞こえていました?」
「すみません、それはちょっと……」
「なるほど、ありがとうございます」
「……あの、」
何か言いかけた京香だったが、ちょうどそこへ多々羅がやってきたため、結局彼女は何も言わずじまいになってしまった。
多々羅と入れ違いに居間を出た蛭子堂は、杖をつきながら客間へ戻っていった。
部屋でひと息いれた後、京香から聞いた話を計にも伝えておこうと、隣の部屋に声をかける。
入ってきた蛭子堂を見るなり、計が眉を上げる。
「どうかしたの――ああ」
訊ねかけ、すぐにその理由に思い至った蛭子堂は、
「これかな?」
笑って左目を指した。
普段、下ろした前髪で隠している蛭子堂の左目が、髪を上げているためにあらわになっていた。
閉じられた左目に、短い傷跡が走っている。
ややためらいがちにうなずいた計に、蛭子堂は肩をすくめた。
「いやあ……小さいときにちょっとやんちゃしてね。その名残、みたいなものだよ」
「意外ですね」
計がそう言うのも無理はない。生まれつき左足が不自由だという蛭子堂がやんちゃをし、小さいとはいえ跡が残るような怪我をするというのは中々考えられないことである。
「計ちゃん、何か変わったことはあった?」
「いえ、別に」
「了解。あ、そうそう、さっき家政婦さんから聞いたんだけど――」
京香の話を伝えると、計も少し考えこんだ。
「太鼓が付喪神に成ったのですかね?」
「音だけで考えるなら有り得そうだけど、結論は確認してからだね」
「まずは、音の確認?」
「そうだね。……こんな状況だったら、信乃を連れてくるんだったな」
トキと計にうなずきつつ、蛭子堂が困り顔で眉を下げる。
「彼は確か守り刀だったでしょう。なぜ連れてこなかったのですか?」
「トキ」
「ほら、店番は必要だからね。まあ閑古鳥が鳴いている店だけども」
「……蛭子さん、こんな家だと知らなかったの?」
「うん。多々羅さんとのやり取りは電話かメールだったからね。家を見たのは今日がはじめてだよ。古い家だとは聞いていたけど、こんな家だとは思わなかったな」
その後、部屋に戻った蛭子堂はスマホのアラームを午前二時に設定して横になった。
そのままうとうととまどろんでいた蛭子堂は、午前二時ぴったりにアラームの電子音で目を覚ました。
静かに身体を起こし、耳をすませる。
どん、と。
雨音に混じって、確かに、太鼓を打ったような鈍い音が聞こえてきた。
そろりと廊下に出る。
見ると、計も同じように廊下に出てきていた。
先の音からしばらく間を置いて、再び、どん、と鈍い音がした。
それから一時間ほど、その音は断続的に聞こえていた。
「うーん……お囃子みたいな音だって聞いていたから、もう少し騒がしいのかと思っていたんだけど、そうでもないんだね」
「そうですね」
計も首をかしげる。
「寝られないんじゃないかと思ってたんですけど」
「いや、僕もそれを覚悟してた。思ったほどじゃないのは部屋の場所の問題なのかな。ここでこれだけはっきり聞こえるってことは、蔵に近い場所だともう少し大きく聞こえそうだし。まあ、音は確かめられたから、後は明るくなってからだね」
欠伸を噛み殺しつつ部屋に引っ込んだ蛭子堂は、横になるなりそのまますとんと眠りに落ちた。
翌朝になると、激しかった雨はだいぶ弱まっていた。
京香の手による朝食を食べ、出勤する多々羅から蔵の鍵を借りた二人は蔵を開けた。
中の空気は埃っぽい。
中に入って電気をつけ、室内を見回した蛭子堂は、ふうん、と小さく唸った。
昼白色の蛍光灯に照らしだされた室内には、今は使われていないらしい農機具が埃をかぶっている。
奇妙なのは、壁のそこここに魔除けの札が貼られていることだ。
「流石にここには何もいないかな、どう?」
「……うん、ここには何もいないね」
「しかし、ずいぶん物が少ない……いや、向こうにあるのかな」
蛭子堂の目の先には廊下が伸びている。
杖をつきながら、蛭子堂は慎重な足取りで奥へ進んでいく。計もすぐにその後に続いた。
廊下を曲がると、右手に引き戸がひとつ、そして奥にも木製のドアが見える。
「開けちゃいけない奥の部屋、ってのはあそこかな」
「そうだと思う」
ふむ、と腕を組み、蛭子堂はじっとそちらを見つめている。その顔はずいぶん険しいように思えた。
「とりあえず、今はそこの部屋を確かめようか」
軽く咳払いをして、落ち着いた語調を取り戻した蛭子堂は右手の部屋を示した。
その部屋には古い家具や束ねられた古本、ガラスケースに入った人形、古い揃いの食器といったものが雑多に置いてある。
わあ、と思わず蛭子堂が声を漏らす。
「思ってた以上に物が多いな。今日一日じゃ終わりそうにないかな、これは」
「あの辺にあるものは新しそうだし、まずは古そうな物に絞って見ていけばいいと思う」
「なるほど。だとすると……奥のほうから見ていくかい?」
「それがいいでしょうな。時間がかかりそうなところから確かめたほうが、かかる時間の見積もりもしやすいですからな」
「さすがだね、トキ。しかしこれならほんとに信乃かカケヤを連れてくるんだった」
二人で物を退けつつ、計が慣れた様子で古道具を目利きしていく。
「見つけた」
真剣な顔で物を確認していた計が慎重に取り上げたのは、曇ったガラスケースに入った男女の市松人形だった。
続いて鉄の茶釜と巾着に入った扇子を示す。
「今はこのくらい」
「さすが、計ちゃん。この子たちは……一旦向こうの部屋に置かせてもらおうか」
かたかた、と人形が揺れる。
――捨てるの?
――捨てるの?
「いいや。家へおいで」
にこにこと蛭子堂が答えると、人形の揺れは徐々におさまった。
表の部屋へ人形と茶釜、扇子を運んだとき、京香が昼の支度ができたと知らせてくれた。
昼食は米飯と味噌汁に鯖の塩焼き、きんぴらごぼうに香のもの。蛭子堂の膳には魚のかわりに煮しめが並んでいる。
「おや、わざわざすみません」
「いえ、料理は好きなので、気にしないでください」
昼食に舌鼓を打つ二人を笑顔で見ていた京香だったが、ふとその顔を引き締めると、
「あの、実はお頼みしたいことがありまして」
「何でしょうか?」
「……蔵の、奥の部屋を開けていただけませんか。中を確かめたいんです」
京香の言葉を聞いて、蛭子堂は思わず飲んでいた緑茶にむせかけた。