#3 多々羅仁

「多々羅さんからは、蔵の奥の部屋は絶対に開けるなと言われているのだけど……何か、事情でも?」
 ややあって落ち着きを取り戻した蛭子堂が、穏やかに京香に訊ねる。
「私の母も、この家で家政婦として働いていたんです」
 ほう、と言わんばかりに、蛭子堂が片眉を上げる。
 京香の母、昌美はかつて通いの家政婦として多々羅家で働いていた。
 京香が十歳のとき、仕事を終えて帰宅した昌美は、多々羅の父、雄仁ゆうじから呼び出され、そのまま帰ってこなかったという。
「母は確かに、父と私に、『多々羅さんに呼ばれたから、ちょっと行ってくるね』って出て行ったんです。それなのに雄仁さんは父に、母を呼んだ覚えはないし、名前を出されて迷惑だ、なんて言ったそうなんです。父は何度もこの家に来て、母の行方を聞いたんですけれど、会ってももらえず、電話も拒否されるようになって……」
 京香が顔を曇らせる。
「父は酒に溺れるようになり、私を親戚に預けて仕事を辞め、そのまま消息を絶ちました。私は、何か母のことがわからないかと、伝手を頼って住み込みの家政婦になったんです。でも、母が働いていた痕跡みたいなものは何ひとつなくて、仁さんも、去年亡くなった浩子さん……仁さんのお母さんも、母のことなんて聞いたこともないって態度なんです。街の商店街では、母のことを覚えている人もいたのに……」
「それで、蔵になら何かあるかもしれない、というわけですか」
 そうです、とうなずいた京香を見、どうする、と計がささやく。
「どうしたものかな。事情はわかったけど、多々羅さんを説得するにはまだ材料が足りないかな。まあ、こちらも気になることはあるし……少し考えてみましょう」
 京香が一瞬眉間にしわを寄せ、すぐにそれを消し去った。
 昼食の後、またぱらぱらと降ってきた雨の音を聞きながら、二人は蔵で目利きの作業に戻っていた。
 明らかに新しいものと古いものを仕分けながら、蛭子堂の顔が徐々に厳しくなっていく。
「蛭子さん?」
 漆塗りの、小判型の手鏡を取り上げた蛭子堂が、計に顔を向ける。
「やっぱりあの音を出すような子っていないよねえ。というか、そもそもあんな音が出せるような場所っていうと……」
 蛭子堂の視線がゆっくりと天井に向く。
 例えば、高いところから飛び降りたとしたら、床に着地したときにあんな音が鳴るだろう。それが外まで聞こえる、というのは、少し考えにくいが。
(それに、やっぱり見られているね)
 どこからか感じる、絡みつくような視線。
 お世辞にも、歓迎されているとは思えない。
(瘴気はそんなに濃くないけど……こっちが何かを刺激してるのは間違いない。下手な手を打つと、こっちの身が危ないな)
 自分だけならまだいいが、計に危険が及ぶのはまずい。
 そこへ、
「すみません、お茶はいかがですか?」
 盆に湯呑みをふたつ乗せた京香が顔を出した。
 同時に、蛭子堂の頭上で何かが動いた。
 ありがとうございます、と茶を受け取りつつ、蛭子堂の注意は天井裏へ向いていた。
「今、何か――」
「トキ、今何時だっけ?」
 何気ないふうを装いつつ、蛭子堂がトキの言葉を遮る。そのうえ、京香からは見えないように、唇に指を当てたのを見て、計が一瞬目を丸くした。
「ちょうど、二時五十分ですね」
「おや、思ったより経っていたな」
 二人が喉を潤している間に、京香がそっと部屋を出ていく。
 ぐいと茶を飲み干した蛭子堂が、盆に湯呑みを戻したとき。

 がたん。

 奥の部屋のほうから、そんな音が聞こえた。
 はっと顔を凍りつかせた蛭子堂が、よろめきつつ廊下に飛び出した。
 閉まっていたはずの奥の部屋のドアが開いており、その前に京香が立ち尽くしている。
「入るな!」
 ふらりと一歩、足を踏み出した京香へ、蛭子堂が普段からは考えられない大声で怒鳴った。
 京香を怒鳴りつけるや、蛭子堂は大股に彼女に近付き、強く腕を引いて、場所を入れ替わるように彼女の前に立った。
 開いたドアの向こう、三畳ほどの小部屋の奥に、瘴気に包まれたモノがいる。
 乱れた黒髪の、裸の女、に見えるモノ。
「……母さん?」
「下がれ! 見るな!」
 女を鋭く睨みつけ、京香と計を背に庇いながら、蛭子堂が声を荒げる。
 じり、と女が距離を詰める。
(参ったな)
 眼前の女は、ただの霊などではない。
 数多くの怨念が残り、女という器を得てまとまったモノ。
 魔除けの呪を唱える蛭子堂の足元には、小さな血溜まりができている。
 女がもう一歩足を踏み出し、そこで足を止めた。
 あと一歩踏み出せば、女は部屋から出ることになるにもかかわらず、女は動こうとしない。
(なるほど、まだ出られない、か)
「計ちゃん、さっきの鏡、持ってきて」
「わかった」
 蛭子堂の眼前で、女ががちがちと歯を鳴らす。
 その顔も目が吊り上がり、歯が鋭く伸び、鼻面が前にせり出してきていた。まるで獣のように。
「蛭子さん、鏡」
「ありがとう」
 後ろ手に鏡を受け取り、女に鏡を向ける。
 女がたじろいだ様子で少し後ずさった。
 鏡を小部屋に放りこみ、魔除けの呪を唱えながら、蛭子堂は音を立ててドアを閉めた。
「出るよ」
 有無を言わせぬ強い調子で言った蛭子堂の顔を見て、計が息を呑み、京香が短い悲鳴を上げる。
 蛭子堂の鼻から下、そして服の前面が、鼻から流れ出した血で赤く染まっている。
「で、でも……」
「あれはもうご母堂じゃない。ここにいたら死ぬよ」
 ぴしゃりと言い放ち、蛭子堂は計を促しつつ、京香を引きずるように蔵を出た。
 蔵を出てようやく、三人は雨が激しく降りしきっていることを知った。
 雨に混じって、蔵から母屋まで点々と鮮血が続く。
 蛭子堂の鼻血は止まる気配はなく、鼻を押さえている手は血でべっとりと濡れていた。
「大丈夫?」
 その後、客室へ戻り、横になった蛭子堂へ計が声をかける。
「さて、どうかな。一応鍵はかけてきたから、スペアがない限りは入れないだろう。鍵は今僕が持ってるんだし。もっとも、あれが出るのは止められないだろうけど」
 鼻にタオルをあてがっていた蛭子堂は、割合に落ち着いた語調で返事をした。
「そっちじゃなくて、蛭子さんのほう」
「ん? 僕? 鼻血は止まってきたし、今のところは大丈夫かな」
「よかった。ところであれは、何?」
「僕にも確かなことはわかってない。ただ、強い怨念を持ったモノなのは確かだね」
 不意に、場違いに明るいメロディーが部屋に流れ、二人は揃ってびくりとした。
 先に音の出所に気付いた蛭子堂が、鳴り続けるスマホを取り上げる。
「御前!」
 蛭子堂が口を開くより先に、焦った信乃の声が耳に突き刺さる。
「信乃、店はいいからすぐにこっちに来て。伯――市の多々羅さん家。信乃が要る」
「わかりました」
 信乃との通話を切るなり、また蛭子堂のスマホが軽快な音楽を鳴らす。
「もしもし――」
「開けたな!」
 耳が痛くなるほどの多々羅の大声が、蛭子堂ばかりか計にまで聞こえてきた。
「あれほど開けるなと――」
――アケタ。
 楽しげな、嬉しげな女の声が、多々羅の声にかぶさる。
 ひ、と多々羅が小さく悲鳴を上げた。
――アケタ、アケタ、アケ――
 ぶつりと電話を切った蛭子堂は、また流れ出してきた鼻血をタオルに吸わせた。
 縁側から、どん、と重い音が鳴る。
 蛭子堂が止めるより早く障子を開けて縁を見た計が声を上げ、蛭子堂もそちらに目を向けた。
 小暗くなってきた外を背景に、逆さになった全裸の女が笑っていた。その肢体を、べったりとガラス戸に貼り付けて。
 計が腰を浮かせたとたん、女は痕跡ひとつ残さず消え去った。
「今のは……?」
「幻覚の一種だね。強い怨念を持っているモノは、何か目印になるものがあれば、ああして念を飛ばすことができる……めったにあることじゃないけど。元々聞こえてた音も同じ原理だろう。蔵から母屋に音が……それこそお囃子みたいな音が聞こえてたんなら、近所から苦情が出ていてもおかしくないし。僕らに聞こえてた音があの程度だったのは、位置の問題じゃなくて様子見、ってあたりかな」
 蛭子堂が、タオルに溜め息を吸いこませた。

 信乃が多々羅家を訪れたのは、電話から一時間ほど後のことだった。
 信乃が来たころには、蛭子堂も着替えを済ませていた。
 とはいえその顔色はひどく悪く、ひと目見た信乃も顔を曇らせた。
「御前、一旦店に戻られてはいかがですか」
「無理……というか、戻っても意味はないよ。僕はもう目をつけられているし、何より因果が結ばれてしまっている。あれを見てしまったからね」
「だったらこちらも危ないのでは?」
「いや、トキと計ちゃんは大丈夫。あれの本体……小部屋にいたモノは見てないだろう? それに魔除けもあるしね。とはいえ計ちゃんは、ここを離れたほうがいいと思うけど……」
 黙って首を横にふる計を見、蛭子堂はそうだよねえ、と苦笑した。
 多々羅仁が帰ってきたのは、信乃が来てから三十分ほど後、夕方になってからだった。
 玄関から客室まで、怒声が近付いてくる。
 音を立てて襖が開いた。
「おい、なぜ部屋を開けた!」
 開口一番、多々羅が怒鳴り声を落とす。
「あの部屋は開けるなと言っただろうが!」
「何故、開けたことが知れたのかな」
 怒髪天を衝く多々羅に対し、蛭子堂は落ち着いている。茶でもあれば、ゆっくりと一服しそうな雰囲気である。
「ち、違います! 開けたのはその方じゃありません、私です!」
 怒声で事の次第に気付いたのか、走ってきた京香がそう叫ぶ。多々羅は一瞬はっとして、それからまた満面に怒りをたたえて京香を睨みつけた。
「何故開けたことが知れたのかな。何かおかしなことでもあったのかい」
 多々羅が京香を怒鳴りつける、その一瞬前に、穏やかな調子で蛭子堂が口を入れた。
「それは……」
 多々羅の額には汗が滲んでいる。
「まあ、まずは情報の共有といこうか」
 蛭子堂が、場を仕切るように口火を切る。堂々と落ち着きはらった物腰の蛭子堂には、どことなく威厳めいたものが感じられた。
 多々羅が、部屋が開けられたことを知ったのは、会社のトイレで、鏡に映る自分の後ろに、あの女が立っていたのを見たからだという。
 当然ながら男性用のトイレに女がいるはずはなく、そもそもそのときトイレにいたのは自分一人、何よりも彼は、以前に似たような経験をしており、そのためあの部屋が開けられたと直感したのだった。
 続いて京香が母親のことを語り、
「それで……何か手がかりを見つけたかったんです。それに、蔵に入ったとき、なんだか誰かに呼ばれた気がして、それでつい開けてしまって……」
 多々羅の顔が藍をなすったようになった。
「あれは、確かに母でした。見間違うはずがありません。多々羅さん、母に何があったんですか」
「それは……」
「――動物供犠」
 蛭子堂が発した一言に、多々羅の顔が青を通り越して白くなった。
「何ですか、それ?」
「動物の命を神に捧げることで、豊作や降雨を乞う儀式、だね。本来は」
「本来? では別の意味で行われていた、と?」
「……根拠もなく、推測で話すのは趣味じゃないんだけど。自分たちが祀る神に対して、あのひとを捧げたのかな」
 計とトキに答える蛭子堂の顔はいかめしい。元々顔色が悪いところへ、さらに血の気が失せているうえにそれである。ひと目見たらしばらく恐怖とともに記憶に残るであろう顔つきになっている。
 どん、と再び縁側から音が鳴った。
 反射的にそちらを見、多々羅が悲鳴を上げて腰を抜かす。
 開けられたままだった障子の向こう、縁側のガラス戸にまたしても女が張り付いていた。ただし笑顔ではなく、いかにも憎々しいと言わんばかりの顔つきで。
「し、知っていることは話す、話すからあれを何とかしてくれ!」
「まあ、やるだけやってみようか」
 立ち上がった蛭子堂は縁側に向かい、無造作にガラス戸を開けた。
――アケタ、アケ――
 固い表情のまま、蛭子堂は女の顔を掴むように左手を伸ばした。
――アケ、アケ、アアアアァァァァ……
 途中から、女の声は獣が苦しみ悶えるようなものに変わる。蛭子堂も、苦痛をこらえるように顔を歪めていた。
 やがて、吼えながら女は姿を消した。憎悪をこめた視線で、蛭子堂を一瞥して。