#3 多々羅仁 3-4

 女が消えたあと、蛭子堂は大きく息を吐いて汗を拭った。
 足元が乱れた蛭子堂を、信乃が支える。
「大丈夫。さて、多々羅さん、それじゃ話してもらおうか」
 喉の奥で小さく呻き、多々羅はぽつぽつと話しだした。

 今から十四年前、多々羅仁の父親、雄仁の手掛けていた事業が失敗し、多々羅の家は破産する寸前だった。
 周囲からは名家のすえと言われていたが、実のところ家のうちにはそこまで財産があるわけではなく、特に当時は仁を高校へ行かせる余裕もないと思われる状態だったという。
 そのことで追い詰められたらしい雄仁が、突然神頼みをすると言い出した。
 両親の間でどう話が交わされたのか、多々羅自身は知らない。
 ただその日、雄仁と浩子が呼び出した昌美を蔵に連れこんだのを、彼は密かに見届けていた。
「その後何があったのかは知りません。でも……昌美さんが蔵から出てくることはありませんでした。そして父は、昌美さんのことは誰にも話すなと、母と私に口止めをしました」
 顔を歪めて話す多々羅は、数年老けて見えた。
「その翌日、突然、父に対して資金援助の話が舞いこんできて、奇跡的に家は破産を免れました。それから、私も大学まで進学できて、それから大手の企業に就職できたんです。でも正直、去年、京香さんが来たときにはぞっとしました。……ですが、仕事がちょうど忙しい時期で、そのうえ母の介護、それに家のことまでやるとなると、とても断ることはできませんでした」
「なるほどね。ところでひとつ確かめておきたいのだけれど、大きめの犬や猫を飼っていたことはあるかな。ついでにその犬や猫は、かなり寿命が短かったんじゃない?」
「……そう、です。両親が動物好きで、よく犬や猫を飼っていましたが、病気や事故で……」
「そしてあなたは、飼っていた犬や猫の死に目にあったことがない。違うかな?」
 蛭子堂のその問いに、多々羅が、心が読めるのかと言いたげな顔になった。
「それって、まさか……」
「うん、計ちゃんの想像どおりだと思うよ。まあ、その行為の是非は今は置いておこう。もうひとつ確認させてもらうと、蔵から音が聞こえるようになったのは、ご母堂が亡くなってから、かな?」
「そう、ですね。それが何か?」
「いや、この家、あちこちに魔除けがあるからね。誰が貼ったのかと思ってたんだけど、時期を考えるとご母堂かな。話を聞くかぎり、あなたに何も伝えていないようだし」
「そうでしょうね。両親から、このことで何か言われたことはありません」
「それもどうかと思うけどね。それは置いておいて、蔵からの音の原因はあれだ。そして今のうちに手を打たないと、もっとひどいことが起きる」
「母を殺す、ということですか、そんな……」
「酷なことを言うけど、そうだ。あれはもうあなたのご母堂じゃない。ご母堂に似たモノだ」
 顔を歪めた京香が、その場に泣き崩れる。蛭子堂は、痛ましげにそれを眺めていた。

 その夜、普段より気が昂ぶっていたのか寝付きが悪かった蛭子堂は、日付が変わってしばらくしてからようやくうつらうつらとしはじめた。
 まどろみから深い眠りへ落ちこむ直前、ふと、何かの気配を感じた。
 ずる、と、何かを引きずる音が廊下から聞こえた。
 目を開こうとしたが、瞼はぴくりともしない。瞼どころか全身が、麻痺したように動かなかった。
(……信乃)
 気付いてくれと祈りつつ、何とかこの金縛りを解こうと試みる。
 音は徐々に近付いてくる。女の憎悪に歪んだ顔が、蛭子堂の脳裏にありありと浮かんでいた。
 がり、と畳を引っかく音。
「誰か」
 枕元から、低い声が飛んだ。
 何か鋭いものが空を裂く音に続いて、短い悲鳴が上がる。
 どうにか目を開くことに成功した蛭子堂は、身体を動かそうと深く息をしながら右手に神経を集中させていた。
 右手の指がぎこちなく曲がる。
 それが呼び水となったようで、ようやく蛭子堂の金縛りは解けた。
 蛭子堂が勢いよく起き上がるのと、信乃が蛭子堂の足元に来ていた女に短刀を投げつけるのが同時だった。
 軋んだ声で悲鳴をあげ、女がぱっと消え失せる。
 畳には、金蒔絵の短刀がぐさりと突き立っていた。その近くには、三筋の引っかき傷も残っていた。
「御前!」
「信乃、怪我は?」
「大丈夫です」
 小さく息を吐いて、蛭子堂は額の汗を寝間着の袖で拭った。
「信乃を呼んでおいてよかったよ。どうやらあちらさんも本気らしい」
「どうなさるおつもりです?」
「怨念が相当強いからね、あれ。下手に左手に喰わせようとしてもこっちが喰われる、というか喰われかけた」
 肩をすくめた蛭子堂に対して、信乃はちょっと二の句をつげない様子だった。
 自身への呪詛を封じる蛭子堂の左手は、上手く使えば他から呪や怨念を除くことができる。呪詛や怨念を自身に引き受け、左手に封じるその技を、蛭子堂は『左手に喰わせる』と言っていた。
 とはいえ危険なことには変わりなく、無闇に使えば左手はあっという間に使いものにならなくなるし、その前に、呪詛や怨念に蛭子堂自身が耐えきれなくなる可能性もある。
「早いうちにどうにかしないとね。あれが出歩けるようになってるのもまずいし、蔵にいる付喪神の子たちが変に影響を受ける可能性もある。そうなると余計に厄介だ」
 布団から出た蛭子堂は、ナツメ球の弱い灯を頼りにごそごそとボストンバッグをかき回し始めた。
「今からですか?」
「いや、準備だけ。今から行くのは返り討ちにあいに行くようなものだよ、ちょうど丑三つ時だし。行くのは夜が明けてからだ」
 着替えとともに、マッチ、そして先端に重りを結びつけた糸の束をバッグから取り出して、枕元に置く。
「しかし、僕は本来祓うほうの人間じゃないんだけどねえ。皮肉だけど、仕事を引き受けた以上は仕方がないか」
 蛭子堂が苦笑を浮かべる。
「御前、どうか気に病まれませんように」
「僕が? 病まないよ。僕は悪党だもの。こんなことを気にしていてどうするんだい」
 何かを振り切るように、きっぱりと蛭子堂が答える。
 もう一度必要なものが揃っていることを確かめ、蛭子堂は布団に潜りこんだ。


 翌日の朝、蛭子堂と計の姿は蔵の前にあった。
「ごめんね、計ちゃん。こんなこと頼んじゃって」
 蛭子堂がすまなげに肩を落とす。その格好はいつもどおりのシャツにスラックス、そして訪問着である。
 シャツの胸ポケットにはマッチと重りのついた糸の束が入っており、スラックスには金蒔絵の短刀が差しこんである。
 大きな鏡を胸に抱えた計が首を横に振る。
 この鏡は元々玄関にかかっていたもので、今朝早く、これからすることの説明がてら、蛭子堂が多々羅から借りたのである。
「開けるよ」
 鍵を開けた蛭子堂が、蔵の戸を開く。
 蔵の中は静まりかえっている。
 蔵に溜まる瘴気は、明らかに濃くなっていた。
 入ってすぐの部屋には、特に異常は見られない。
 廊下も、瘴気は濃いが何もいない、ように思えた。
 しかし、蛭子堂が廊下を曲がったとたん、光る破片が幾つか、その顔をめがけて飛んできた。
 とっさに顔を庇った蛭子堂が羽織っていた訪問着に破片がぶつかる。
 鏡の破片だった。
 ふん、と小さく鼻を鳴らし、蛭子堂はさらに歩みを進める。
 廊下の奥、ドアが開いてなお暗いその小部屋から、獣の唸り声が聞こえてきた。
 唸りながら、裸形の女が二人の前に姿を現す。
 手足を床につき、女は顔だけをこちらに向けている。
 おう、と吼えた女が、勢いよく跳躍して蛭子堂に迫る。
 その正面へ、蛭子堂は持っていた杖を勢いよく振り下ろした。
 思いきり頭を殴られた女は床に降り立ち、そのまま掻き消える。
「どこへ――」
「計ちゃん、走って!」
 蛭子堂の声に、計は思わず前へと足を踏み出した。
 同時に、背後から獣の吼声が聞こえる。
 がああ、と吼える女と計の間に、蛭子堂が立ちはだかる。
 押し殺した低い苦痛の声に、思わず計は後ろを振り返った。
 蛭子堂の右肩に、女が深々と食らいついていた。
 蛭子堂の手から杖が落ちる。
 やっとのことで左手を上げた蛭子堂は、女の頭をがっしりと掴んだ。
 ぎいいいい、と、女が叫び、蛭子堂を壁に叩きつける。
「蛭子さん!!」
 女が計を見る。
「鏡を!」
 トキが声を上げる。
 計はとっさに、抱えていた鏡を女に突き出した。
 女の姿が鏡に映る。
 歯をむき出し、涎を滴らせるその姿は、人の姿をしていながらも人ではないことははっきりとわかった。
 びしり、と、鏡に大きくひびが入る。
 次の瞬間、鏡は派手な音を立てて砕け散った。
 女がぐっと上体を下げる。
「させないよ」
 女の後ろから、蛭子堂がゆらりと立ち上がる。
 身体のあちこちから流れる血が、服をまだらに赤く染めている。
 傷から血が流れるのも構わず、蛭子堂は右手を振って、女に糸を絡める。
 ふわりと浮いた鏡の破片が、蛭子堂に飛ぶ。
 頬に赤い線が走り、肩や腕に銀の破片が突き刺さる。
「騙しうちみたいなものだっただろう。同情はするよ。でも――お前は消す」
 血に染んだ糸が、さらに女に絡みつく。
 女の吼える声に、苦鳴が混じる。
「たとえ霊体であったとしても、こちらに危害を加えようと思うなら、実体化しなければならないだろう、お前は。それならこちらからも手は出せるさ」
 ぐ、と女が背を曲げる。
 ぷつ、ぷつ、と糸が切れる音。
 何かないかとポケットを探った計の指が、そこに入っていた固いものに触れた。
 ぱっとそのものを引き出した計は、それ――蛭子堂から受け取っていた指輪――を女に投げつけた。
 苦悶の声を上げ、のけぞった女の首に糸が巻き付く。
「計ちゃん、逃げろ!」
 右手でぎりぎりと女を引き寄せ、左手に短刀を掴んだ蛭子堂が怒鳴る。
「早く!」
 一瞬ためらった計が、女の横をすり抜けるようにして走り出ていく。
 計が廊下から手前の部屋に行ったことを認めた蛭子堂は、短刀を女の心臓めがけて突き立てた。
 血の代わりに、どろりと瘴気が溢れる。
 断末魔が、蔵に響いた。
 ずるするとそこに座りこんだ蛭子堂は、ポケットからマッチを取り出すと、器用に右手でマッチをすった。
 火のついたマッチを、糸に近付ける。
 糸から火が伝わり、女へと火が燃え移る。
 そこから床へ、壁へと赤い火が伝わっていく。
 蛭子堂はぼんやりと、炎があたりを舐めていくのを眺めていた。
「御前!」
 本来の短刀から、普段の人の姿に成った信乃が、蛭子堂に駆け寄る。
「参ったね。もう身体がきかないよ」
「捕まってください。大丈夫です、僕が支えますから」
「シロみたいなこと言うねえ。名前が似てるからってそこまで似せなくていいんだよ」
「今はそんなことはいいから、早く捕まって!」
 信乃が蛭子堂を担いで蔵から出てきたときには、小部屋のほうまで火が回っていた。


 雨で木材が湿っていたのが幸いしたのか、多々羅家の蔵は焼けはしたが、焼損は一部に留まった。
 とはいえ開かずの間となっていた小部屋は完全に焼け落ち、焼け跡からは動物の骨に混じって一人分の人骨が見つかったという。
 多々羅家の力か、事は大きな話題にはならなかった。
「とはいっても京香さんは辞めたらしいし、多々羅さんはあの蔵を取り壊して祠を建てるそうだよ」
 それから数日後、店を訪れた計に、蛭子堂はそう語った。
 蛭子堂の怪我は相当ひどかったようで、このときもまだあちこちに巻かれた包帯は取れていなかった。
「祠を?」
「供養のつもりらしいね。彼もある程度事情は知っていたわけだし。おっと、そうそう。これ依頼の報酬ね。今回は巻きこんじゃって申し訳ない」
「ううん。それは大丈夫」
「いや、全く。今度から依頼はもう少し吟味を――」
「トキは黙ってて、もう」
 計とトキのやりとりに、蛭子堂は小さく笑みを浮かべた。